ラベル 都々逸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 都々逸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019-12-01

【七七七五の話】第6回 思い切る瀬と切らぬ瀬 小池純代

【七七七五の話】
第6回 思い切る瀬と切らぬ瀬

小池純代



「どどいつ」という呼称についてもうひとつ。都々一坊扇歌の「都々一」はどこから来たのか、という話である。扇歌より以前に「そいつはどいつだ どどいつどいどい」という囃子文句があって「どどいつ」はそこから生まれた名称なのだそうだ。

お囃子というのだから話は音曲の分野に及んでゆく。和楽器の女王、三味線と手を携えた都々逸は音声の文芸へと歩を進める。道をはずしたのではなく「うた」の王道に戻ったのだ。
「そいつはどいつだ」は尾張の遊里で遊女を買う「そいつ」は「どいつ」だという歌意がそもそもらしい。卑俗な出自は裏返せば即、洗練の極みとなる。たとえば本條秀太郎『三味線語り』に神戸節の紹介がある。

そいつはどいつだどどいつどいどい浮世はサクサク  神戸伝馬町に二瀬がござる 思い切る瀬と切らぬ瀬と そいつはどいつだどどいつどいどい浮世はサクサク
「神戸」は名古屋の地名で「ごうど」と読む。付録のCDで聴いてみるとおそろしく淡い。淡いが勁い。恋情をうたっておよそ甘さがない。

八音三句のお囃子のクッションに挟まれた二十六音の機知の詩句。言わばご当地ソングだが、川のある町だったら名前を差し替えてどこの唄にもなる。なにさまでもなにものでもない。しかし、なにものにもなる。こういったフレキシブルなふところの深さ、変化に対するカジュアルな腰の軽さは、都々逸の特質のひとつだろう。

「思い切る瀬と切らぬ瀬と」は切るか切らぬか白黒つけたいわけではなく、思いの川にあるさまざまな瀬から二つの瀬を掬ってみたというに過ぎない。切る瀬と切らぬ瀬の逢瀬の発生だって考えられる。
白だ黒だとけんかはおよし白という字も墨で書く
あきらめましたよどうあきらめたあきらめきれぬとあきらめた
まるで自問自答する禅問答のようだ。のほほんとした小理屈に救われる思いがする。

都々逸には「冠付け」という形式がある。二十六音の頭に五音を載っける。合計三十一音になるが短歌とは違う。「あんこ入り」というものもあって、これは「上七中七」と「下七座五」の間に漢詩の一節を入れる。お腹を割ると漢詩のあんこが出てくるという次第。

この変幻自在ぶりは宴席や高座といった空間と空気がもたらしたものかもしれない。虚無に満ち、その奥に諦観が漲り、底ではすべての種類の笑いが波立つ。声をあげていくらでも笑っていていい場所。ほぼ極楽ではあるまいか。そこから眺める浮世の音はサクサク。
世間はちろりに過ぐる  ちろりちろり
世間は霰よなう  笹の葉の上(え)のさらさらさっと  降るよなう
「世間」は「よのなか」と読む。どちらも『閑吟集』の小歌。ちろりちろり、さらさらさっと、サクサク。この世はなんと可憐にして爽やかな音を立てているのだろう。

2019-11-03

【七七七五の話】第5回 涙香と白秋 小池純代

【七七七五の話】
5回 涙香と白秋

小池純代


「七七七五の話」ということで進めてきたけれども、二十六音詩の典型である都々逸について何も説明してこなかった。調べればわかることしか知らないからだが、「都々逸とは」と問われて即座に一言で答えられないのはどうなのだろう。二言三言記しておきたい。

「都々逸」の名称は都々一坊扇歌という人名から。扇歌は江戸時代の寄席で勇名を馳せた音曲師。川柳が柄井川柳から来ているのと似ている。すでにある詩型に人名がジャンル名として定着するのはどういった消息なのだろう。

情歌、俚謡、街歌など、モードによって呼び方は変わるが、大きな見出しとしては「都々逸」でほぼ包括できるようだ。

ご案内をもう少し加える。この詩型の来歴、属性、作例を知るには中道風迅洞『二十六音詩 どどいつ入門』(徳間書店)がありがたい。鶴見俊輔「黒岩涙香」(『限界芸術論』講談社学術文庫)ではマスメディアと投稿詩歌の関係が窺えて微笑ましい。涙香は自身の

都々逸観を自作都々逸「俚謡手引」の十首で示していてちょっと洒落ている。こんな感じだ。

歌はどう詠む心の糸を声と言葉で綾に織る  涙香
和歌はみやびよ俳句は味よわけて俚謡は心意気
欲を云ふなら情けの艶に時の匂ひを持たせたい
「都々逸」について一言で即座に答えるとしたら、古い時代からの「うた」が、和歌の根っこに、土地の民謡に、宴席の俗謡に、子どもの口遊びに、ときと場を変えて現れたもの。火が器や燃料を変えて燃え継ぎ燃え続くように生き延びてきたもののうちのひとつに七七七五がある、という答え方をいまのところ考えている。

涙香より20年ほど遅れて生まれたのが北原白秋。二人とも57歳で亡くなっているのが不思議といえば不思議。
白秋は『芸術の円光』で「二十六字の俚謡体でどれだけ短歌乃至俳句の境地を歌ひこなせるかを試験して見た」と自作を示す。
遠い山脈、   とほ い やま なみ(2122)
早や雪つけた、 はや ゆき つけ た(2221)
霜の枯桑、   しも の かれ くは(2122)
陽も落ちた。  ひ も おち た  (1121)
私の溜息はかういふ風の細かなリズムを含んでゐます、一息の溜息にも四つづつの撓(しを)りがあります。
三四・四三・三四・五をここまで分節化したことにも、「溜息」と呼んでいることにも驚く。リズムだけでなく、「主客融合」について、「言葉のにほひ」として音韻について、一音一音の語感について、事を分けて切々と説明は続き、読むほどに胸が詰まる。

2019-10-06

【七七七五の話】第4回 愁と怨 小池純代

【七七七五の話】
4回 愁と怨

小池純代


日本の連歌連句の起源をどこに求めるか諸説あり、そのうちのひとつに中国の聯句も数えられる。聯句の起源もまた諸説あって分岐点がたくさんある。受けて返して放つという言語運動が、みなさんともかく好きなのだろう。

李賀の「独吟聯句」は百句からなる聯句。男女二人の掛け合いを両吟に仕立てたもの。登場するのは遊び人の宋玉と彼の言葉敵、嬌嬈。遊里を舞台にした口説合戦である。ごく一部を引く。

 沽酒待新豊 宋玉
 短珮愁填粟

 長絃怨削菘 嬌嬈
 曲池眠乳鴨

宋玉の「短珮愁填粟」を嬌嬈が「長絃怨削菘」と受けている。「愁」も対して「怨」を持ち出すところに感情の濃淡の差がほの見える。「珮」は帯の飾り玉のこと。「短珮:長絃」「填:削」「粟:菘」、びっしりと対をなす。対を蝶番にして延々百句五十韻が続く。

対のみならず、押韻、典拠、一字一語一韻一句から無数のニューロンが突き出していて、言葉の要素が互いに照らし合い、映し合う。そんなネットワークが密であればあるほど、風通しがよく感じられるのが不思議。李賀だからなのか、漢詩だからなのか、言葉だからなのか。

ちなみに「曲池眠乳鴨」には「小閣睡娃僮」が続く。曲がった池は小さな部屋に、眠る子鴨は睡る童子にそれぞれ変貌する。前世の面影を残しながら生まれ変わり死に変わりする。そこは日本の連句に近いだろうか。

この「独吟聯句」の舞台と人物は、俚謡のモードに合うのではないか。原詩の風通しもいいことだし、上七中七下七座五の二十六音に移しかえてみた。

酔ふか酔はぬかいろまち小笹愁ひほつほつ灯す頃
怨みつらつらつのらす端唄水に流して浮かぶ鴨
すべてを掬って三四・四三・三四・五に収めるのはもとより無理。ひとつふたつの経絡と空隙を拾ってつなげるに留まった。言うまでもなく意訳ではない。

どどいつ贔屓のポール・クローデルに「三声のカンタータ」がある。年齢も境遇もばらばらの三人の女性の不定型の短句で構成されている詩劇だ。作者の晩年の言葉「一人の人間のなかには、幾つもの心の流れがある」には聯句、連句につながる流れ、また、東洋の俗曲に及ぶ流れもあったのではなかろうか。

2019-09-01

【七七七五の話】第3回 路の沙汰 小池純代

【七七七五の話】
3回 路の沙汰

小池純代


「どどいつ」と呼ばれることの多い七七七五の歌句で古典と目される句のほとんどは作者不明。産み落とされたことばがひとりほのぼのと光を放っている。

『詩経』にも似た発光がある。歌謡同士、通うものがあるのだろう。たとえば「遵大路」は心変わりした相手を深追いする歌。素材も形式もどどいつっぽい。

 遵大路兮
 摻執子之袪兮
 無我惡兮
 不寁故也

 遵大路兮
 摻執子之手兮
 無我魗兮
 不寁好也

七七七五で翻案してみた。

  袖を引いたら
  すげなくされた
  花の末枯(すがり)の
  おほどほり

  すがりついたら
  ふりはらはれた
  恋の尽(すがり)の
  おほどほり

未練がましい狂態なのか、手練れの嬌態なのか、未練がましい手練れの媚態なのか、巫山戯ているだけなのか、それは知らない。

前半の「遵大路兮 摻執子之袪兮」は叙事、後半の「無我惡兮 不寁故也」は叙情の直叙と言えるだろうか。町の往来で袖をつかんでの一言をちゃんとした訳で読んでいただこう。

悪く思わないでね。昔の女にすげないのだもの。吉川幸次郎訳
うとましく思わないでふるいなじみの仲なのに白川静訳
私を憎んで下さるな故(ふる)い仲ではないかいな目加田誠訳
長い年月なじんだものをなぜにあたしがさうにくい海音寺潮五郎訳

さらりと口語、やや五音七音、ほぼ七五調、完全に七七七五、という順番である。

2019-08-04

【七七七五の話】第2回 扇の梯子 小池純代

【七七七五の話】
2回 扇の梯子

小池純代


外国語とは縁がないけれど、ないからなのか、訳詩を見ているとときどき能動的な気分になる。腕前もないのにどうかしている。どうかしていることはたいがいたのしい。マラルメを読んでいて七音五音の泡がぶくぶくしたときに出てきたのが次の「マラルメ夫人の扇」。

わたしの胸はことだまの 仮の住まひにすぎぬもの
わたしの妻はわたくしの 仮の宿りにすぎぬもの
過ぎてしまへば何もかも 仮でないものあらぬもの
 仮の吾妹のその手にゆるる仮の扇よわが心

七五七五を三行連ねて、長歌の反歌風に七七七五を置いた。座五の「わが心」は、

うらやましやわが心 夜昼君に離れぬ  『閑吟集』

に倣った。この小歌、生霊の暑苦しい所業とも読め、つかずはなれずで相手をいなす振舞とも読める。酷暑のいまは後者で読みたい。かるくて涼しい恋のあしらいである。

かるいといえば、折口信夫の一首、

車よりおり来し女 美しき扇のうへの 秀でたる眉  『倭をぐな』

地に足がつくかつかないかの瞬間に溶けるか飛ぶかして消えてしまうほどかるい。そして涼しい。

折口は短歌に次ぐ文学を建設しようと試みたことがある。八八八六の様式を仮の出発点として、その一歩前で七七七五を指さした。短歌の将来を思っての記述だったと思う。

紙から文字がはがれ、文字から音がぬけだすときにこれらの音数の梯子を使えばよいと思われたのだろうか。一段飛ばしでのぼったり、三段すっとばして飛び降りたりしたくなる、頑丈にしてスマートな仕様の、扇のような梯子。

2019-07-07

【七七七五の話】第1回 蛍の音 小池純代

【七七七五の話】
第1回 蛍の音

小池純代


飲んでそだったつめたい水が
なんで炎になるんだろ

七七七五、細かくは三四・四三・三四・五の都々逸形式。この形式に出会ったばかりの頃、新たな知友にせっせと手紙を送る気分でいそいそと作っていた。そのときの一句がこれ。「蛍」の詞書をつけて歌集に収めた。

水腹なのにお尻は燃えている。神秘的だ。聖なる虫というものがあれば蛍ではないか。そう思っていたのだが、幼少期の蛍は肉を食べるのだそうだ。餌食はカワニナ、タニシなどの巻貝。略奪で築いた王朝の輝きが、あの明滅だったのだ。水だけで一生を送る虫ではない。だから蛍を思って読むとこの句は嘘になる。無知と思い込みによる間違いだ。

蛍は鳴かない。これも思い込みかもしれない。

『閑吟集』の小歌の絶品、

わが恋は 水に燃えたつ蛍々
もの言はで笑止の蛍

都々逸形式とは知らずに馴染んでいた、

恋に焦がれて鳴く蝉よりも
鳴かぬ蛍が身を焦がす

蛍は声音を発しないことになっている。それでこんな都々逸を作ったことがある。

なかぬ蛍と決めつけられて
人に聞こえぬ声で泣く

蚊の羽音と同じく、蛍の羽音もあるのではないか。暗闇に浮遊する光とともに微かな音を立てているのだとしたら、それはどんななき声に聞こえるのだろう。