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2009-09-27

柏原和男の一句 長谷川裕

鉄かつぎ歩む炎天誰も怖れじ柏原和男の一句
長谷川 裕

初出:『塵風』創刊号・特集「無頼」(2009年6月30日・西田書店)


戦後文学における無頼派という名称は坂口安吾の『堕落論』にはじまるようだが、安吾はべつに無頼を気取ったわけではなかろう。思ったとおりを書いただけである。太宰にせよ織田作之助にせよ、そうであったはずだ。彼らを無頼派と呼んだのは、人に依り、かつ依らせることを生業とする編集者たちの思いこみ、あるいは憧れではなかったのか。

「無頼」などと大上段にふりかぶると、黙々と日々の暮らしをくりかえすどこにでもいる普通の人びとから、なんだいそりゃ、そんなの当たり前だよ、毎日やってることだよ、と笑われてしまいそうな気がする。

いわゆる無頼派と呼ばれた戦後作家たちは新戯作派であった。ふだん着の口語体によって、あふれるように饒舌であろうとしたわけだが、あの時代、いかに語りつくすかが言葉の本意であったということであり、無頼とはまたべつのことだ。

いや、私が語りたいのは饒舌ではない。無頼についてである。

無頼とはなにか。それは物書きやヤクザ、博打打ちといったアウトサイダー、アウトローだけの特権ではない。依らず頼らず、自由を希求する者ならば、誰しも等しくそなえている生の本源ではなかろうか。

生からあらゆるものを引き剥がしていく。すると、最後に残る核心はその生以外のなににも依らぬものであることがわかる。それは交換不能の絶対孤独である。いかなる権力、道徳、正義、良識といえど、孤独の王国に君臨するひとりの王をその王座から引きずり落とし、入れ替えることはできない。無頼とは王の孤独の別称である。
昭和三八年二月二三日 夕刊読売大阪版
二十三日午前三時すぎ大阪市西成区山王町一の暗がりで同町二の一、山﨑アパート内、無職柏原和男さん(三二)がグレン隊ふうの男二、三人に取り囲まれて口論、うち一人が短刀らしいもので柏原さんの左モモ、手を刺して逃げた。付近の人が血まみれで倒れていた柏原さんを見つけ一一〇番へ急報、西成署のパトカーが相原第二病院へ収容したが出血多量で間もなく死んだ……(略)
俳人柏原(かしはら)和男、享年三十一歳。釜ケ崎の労務者であった。

大阪市西成区山王町は萩ノ茶屋の南東に位置する、いわゆる旧飛田遊郭である。一九六一年の第一次暴動以来、行政によって「あいりん地区」と呼び変えられた釜ケ崎の中心からすこし離れているが、古来から釜ケ崎にふくまれる地域だ。柏原が倒れていたのは、一九八〇年に廃止された南海平野線の踏切から三十メートルほど西側だったというから、現在の高速道路のあたりであろうか。

犯人は不明だが、殺すまでのつもりはなかったのではないか。腿を刺したのはそのためだろう。しかし、柏原は動けぬまま失血死した。二月の厳寒のさなか路上に人が寝転がっていても、さして不思議とは見なされぬ界隈である。幾人かが柏原の横を通り過ぎていったかもしれない。

「孤独死」というメディアが作り出した言葉がある。莫迦を言ってはいけない。死はどれも孤独死にほかならぬ。家族に看取られ、ベッドの上で息を引き取ろうが、冷たく乾いた路上で誰からも顧みられることなくのたれ死にしようが、王は誰しもたったひとり、孤独に消えていく。

ともあれ柏原和男はそのようにして死んだ。前年の暮に生まれたばかりの娘と、まだ入籍していない女性を山王町のアパートの一室に残して。

柏原和男は一九三一年、宮崎県東諸県郡高岡町に生まれた。髙岡高等小学校を卒業後、町の工場で働きながら自宅で句会を催したり、同人誌を発行するなど、俳句と詩に熱中する。NHKのラジオ文芸に応募し、入選作が放送されたともいう。

一九五〇年には故郷を出て、大分在住の俳人、田原千暉宅へ転がり込み、田原の主催する俳誌『飛蝗』(のちに『菜殻火』から『石』へと変わる)の同人となる。朝鮮戦争の勃発した年であった。

田原千暉は一九二三年生まれ、新俳句人連盟の会員。長崎原爆忌平和祈念俳句大会で活動したり、『日本平和句集』を編纂するなど、いわゆる「反戦平和」の俳人である。俳句で訴える反戦平和など、いかなる有効性もないと思うが、ここではそんなことはどうでもいい。ひとまわり年上の田原は柏原をなにくれとなく可愛がったようだ。柏原は宮﨑を去り、各地を転々とするなかで『石』への投句をつづけ、『石』の年間賞を受賞している。柏原の死後八年を経て上梓された遺句集『播州路』も、田原の尽力で出版されている。

柏原が「再軍備絶対反対胸まで焚火」などという、愚にもつかぬ句を作ったのは、田原や栗林一石路らから受けた影響であろう。同じ柏原の句でも「仕事にありついたカストロひげ万才」のほうがはるかにマシだ。朴訥に革命の英雄カストロに明るいものを見ようと願った柏原の気持ちが痛々しいぶん、ということだが。

一九五四年、柏原は田原のもとを離れ、以後、各地を転々とする。生活の糧を求め、東京、大分、名古屋、広島、大阪の工事現場、鉄工所、港湾などを流れていった。その間、印刷工や紙芝居屋などの職歴もあるらしいが、どの仕事にも落ち着くことはできなかった。三年後の一九五七年、病を得て帰郷、国立の療養所へ入所することとなる。

一九六〇年、三年間の治療生活を経て快癒した柏原は、しばらく田原千暉宅に逗留したのち、ふたたび大阪へ。釜ケ崎へ定住し、日雇い労働者となる。このとき釜ケ崎の「裸の会」が発行する月刊誌『裸』の会員となった。「裸の会」の会長は西成警察署防犯課の松原巡査部長であり、松原は柏原の告別式において散文詩の弔事を読み上げている。ちなみに柏原は第一次釜ケ崎暴動のさい、警棒で頭を割られているのだった。

さて、柏原の俳句である。

 生くる身や或は氷に靴滑り

 焦心や石もて蟻を追いまくり

 箒売り風に抗う片手がない

 宙天にざくろの哄笑許しおく

 髪染めた私娼キャベツがまぶしいか

 高架線がゆすぶる裸ではみ出た児ら

 短日の交む鶏見る疲労かな

 溶接工が囃すよ地表の紅い女

 血を売る話コンクリートの陽が屈折

柏原のドヤにおける暮らしぶり、感慨を率直に詠ったものである。いま流行している口当たりよろしき軽音楽的俳句にひきくらべ、断然と肉体の言葉ではある。が、率直にいって言葉の彫り込みが浅く、いまひとつ掴みきれていないように思える。どこかにできあいのコンテクストに依った匂いが感じられ、そのぶんひっかかりを欠いて、句全体の強さが損ねられているように思うのだ。政治的主張を訴えた句は数が多いが、論外である。

同じ釜ケ崎を詠った句というならば、

 焚火蹴り焚火の匂う血を売りに     遠藤野放

 ステテコにポケットが無い握りこぶし  遠藤野放

 灼けレール股ぎ無籍の児を胎む     西矢籟史

 牡蠣剥き身翻しひるがえし死につらなる 有本孫之介

などのほうが私にとっては説得力がある。

だが、私は柏原和男という俳人の名をつぎの一句によって強く頭に刻みこむ。この一句だけで柏原和男は十二分に王たるに値する。

 鉄かつぎ歩む炎天誰も怖れじ

誰も代わって鉄をかついではくれぬ。またかつぐことはできぬ。たったひとりで歩むゆえに柏原は無頼である。孤独な生の王たりえている。世間の目、いわゆる良識、それがなんだ。俺はここにいる。こうして生きている。なにを遠慮する必要があるものか。王は誰も怖れない。

掲句は敗戦直後、大胆に性を詠った句によって「俳壇」に衝撃を与え、人知れず消えていった鈴木しづ子の

 コスモスなどやさしく吹けど死ねないよ

と対をなし、戦後句の金字塔となっているように思う。

私は柏原のこの一句に、貸本劇画家の平田弘史を思い出していた。平田弘史は一九三七年生まれ。柏原よりひとまわり下の世代である。平田の父は天理市で水道ポンプ店を経営しており、平田は小学生のときから仕事を手伝わされた。中学校に入学しても、家業を手伝うために授業はほとんど受けられなかったという。

平田の父は平田が十七歳のときに亡くなり、それからは六人兄弟の長男として一家を支えて働くことになる。その当時を回顧して平田は「自分史」のなかでつぎのように書いている。

「泥だらけの長グツに作業着、重い道具を担いで……薄汚れた身なりで電車に乗っていると、白眼視されているような気がして、エリートや綺麗に着飾った人びとに対して乱暴な口の利き方や態度をした。ガタガタ吐かすんならパイプレンチでドタマ張ったる……そんな心境だった」

平田はのちに大阪日の丸文庫から貸本マンガ家としてデビューする。平田が『士魂物語』や『つんではくづし』など、数多くの時代劇画を描き、貸本店の読者層に多くのファンを得たのは、ちょうど柏原が釜ケ崎で暮らしていた一九六〇年から六三年にかけてであった。柏原ははたして平田弘史の作品を知っていただろうか。

柏原和男が流浪を重ね、ひとつの職業に定着できなかったのは、貧しさや小学校卒という学歴ゆえではなかろう。おそらくは子供のようにどこまでも無邪気に自由を求めていたからだ。柏原は窮屈な世間にいかようにしても適応できなかったのではないか。だから、あちらこちらと移動していった。ドヤに住んだのは気楽だったからだろう。いわゆる職場の人間関係というものに縛られずにすんだからだろう。

釜ケ崎での柏原はけっこうモテたようだ。「結婚するような相手ではないが」「女には不自由しな」かったそうである。柏原は「インテリ」だったのだ。そのインテリだったぶんだけ世の正義にかすめとられてしまい、彼の句は無頼性を損なわれたのではなかったか。

だが、「鉄かつぎ」の一句は、掛け値なしに王の吐き出した言葉だ。ここには世間の道徳、正義を一蹴する強さがある。そのとおりだと唸らせる。生涯、一句か二句、このぐらいの句を吐ければ、人はそれで十分なように思う。

本来、俳句は自己表現とか文学といった近代のくびきからずっと自由なものなのではないか。生そのものの持つ無頼性を暴力的に記すものではないのか。そしてそれは不可視の自由をわれらに現前させるのではないか。

柏原和男が遺した、ひとつの句がそんなことを思わせるのである。


※本論は『俳句研究』一九六四年八月号およびインターネットサイト「柏原和男」(http://ripzip.jp/kashiharakazuo/)を参照した。

2009-01-18

無頼の系譜 長谷川裕

無頼の系譜

長谷川 裕
『百句会報』124号・2008年9月より転載


仁さんの「アウトロー」の原稿を読んで、ふとつげ義春の「噂の武士」を思った。「噂の武士」は『ガロ』1965年8月号に発表された。私が15歳のときの作品だ。まだつげ義春ブームが訪れる前である。

はじめて読んだのは『ガロ』だったか、翌1966年暮に発行されたホームラン文庫の単行本「噂の武士」だったか、いまでは記憶に定かではない。が、以後、二十代、三十代、四十代と、くり返し読み直す中で、私なりの評価が固まっていった、私にとってはきわめて重要な作品である。

つげ義春というと、「李さん一家」や「ねじ式」以後のスタイルを評価する向きが多いが、私はそれ以前の「チーコ」や「不思議な手紙」などの作品が見逃せない。そのなかでも「沼」の一年前に描かれた「噂の武士」は劇画の思想、いや、少々大袈裟に言ってしまうと、私なりに考える戦後思想(政治思想とか哲学思想といったたいそうなものではない。大根一山売って米を買うのにしたって思想があるのであり、その意味で思想に高低はないということである)の根底に触れる部分があり、拘泥せざるを得ないのだ。

こんな話である。

異形の武士が山中のひなびた温泉宿に現れる。ひとり逗留し、仏像を彫るかと思えば、剣技の鍛錬をおこなう。当人はけっして名乗ろうとはしないが、主人公の見るところ、そのスキのない所作、鋭い眼光から明らかに宮本武蔵と思われる。武蔵が現れたとの噂が噂を呼び、武蔵の姿を一目見ようと見物人が集まりはじめ、淋しい温泉宿は満員となる。

武蔵とおぼしき武士は集まってきた見物人を意識したかのように剣技をひけらかし、主人公をひっぱりだし、模擬試合などを演じたりする。主人公はそんな武蔵の姿に幻滅するが、実はその男は宿屋の亭主が客寄せに呼んだニセ武蔵であった。すべては演技であったのだ。しかし、ニセ武蔵が見せたあの剣技はまちがいなくホンモノであったし、彫刻の技も一流であった。

亭主から約束の金を受け取り、宿を去っていくニセ武蔵を見送りつつ、主人公は「男の背中には、生活の厳しさがズシリとおおいかぶさっているように見えた」と慨嘆する。

「噂の武士」はつげが無頼について、生活について触れた作品である。ここでいう無頼とはいわゆる破落戸(ごろつき)ということではなく、権威、権力を頼らない、いや、頼れないありようということだ。

頼れるのはおのれの意志と技量、つまり実力だけである。その点、ニセ武蔵の実力は本物の武蔵に勝るとも劣らない。しかし、ニセ武蔵は宮仕えしていない、つまり飼われていないので暮らしが苦しい。生活のためには見世物まがいのことをしなければならない。

できることなら宮仕えしたいところだが、そもそも宮仕えする意志も資質もない。無頼とは既成の権威、権力に餌付けされえぬ資質のことなのだ。そうであるが故の見世物師ぐらしだ。

ここでつげの思想が重いのは、単なる根無し草としての無頼を描いているのではないことだ。飯を食っていかなければならぬ、生活していかなければならぬことの重みを、無頼と重ね合わせていることである。ニセ武蔵は好きで無頼を気取っているわけではないのだ。世のしがらみにとらわれぬ自由人などと言って射られぬ切実さがそこにはある。

ニセ武蔵は剣術屋あるいは見世物師という世間師であるが、俳諧師もこうした無頼のうちといえよう。本物の俳人とは、いやがおうでもそうなってしまった無頼的資質に他ならぬ。

無頼の系譜として俳人を見れば、世間師としての芭蕉、蕪村、一茶の流れはおおいに理解できる。一茶、蕪村はむろんのこと、芭蕉のありようにも「どうやって飯を食っていくのか」という切実な問題が大きく見えてくる。そうであるからこそ芭蕉の無頼性は筋金入りといえる。

その点、子規、虚子は無頼とは言えない。子規は無邪気に、虚子は大人の計算を持ってして大きなもの、権威あるものに頼っている。彼等はこの世に頼るところを見つけることのできた幸福な人たちである。したがって彼等は俳諧史、無頼史の本流には入らない。

あえて入るとすれば、むしろ井月、山頭火、放哉、三鬼となろう。しかし、この四人、生活についてはまったく放棄しており、世捨て人、厭世家として楽になってしまっている。

私が気にしているのは、生活の重さがズシリと肩にのしかかったニセ武蔵は、宿屋の亭主から受け取った金をどこへ持って行き、どう使うのかと言うことなのだ。「噂の武士」では具体的にどうとは描かれていないが、それが見えるような気がする。

まさしく仁さんの指摘するとおり、軽さ、薄さの中で遊弋するのが現代の俳句だが、こいつはそういつまでも続くようには思えない。思いもかけなかったところで、無頼とは何か、生活とは何かをつきつめて考えなければ、リアリティを獲得できぬ状況がゆっくりと迫りつつあるのではなかろうか。

2008-03-02

散歩日和 第1回 谷保天満宮

散 歩 日 和
第1回 谷保天満宮





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2008年2月24日、日曜日、強風。
各地で電車が止まるほどの強風のなか、

第1回「週刊俳句的散歩」は、
「この、どこが日和なんだ?」的散歩となりました。

なんだか、第2回以降が心配になってきましたが、
第2回も、あります。きっと、
おそらく、たぶん。
(さいばら天気)



谷保逍遥
 ……長谷川裕


谷保といえば武蔵野のどまんなかである。その武蔵野といえば、楡や欅の大木がおいしげった屋敷林、あるいは椚や楢の雑木林ということになっている。昔から多くの文人が、四季おりおりに変化する疎林の美しさをくり返し称揚してきた。

そんなものはここのあたりには残っていない。無数の建て売り住宅、コンクリートの団地、物流倉庫などのあいまに、わずかな畑地が取り残され、腐れかかった大根が転がっていたり、狭い庭に貧弱なコニファーやら鳥の糞から芽吹いたピラカンサなんぞがちょぼちょぼ生えているといったぐあいだ。典型的な東京郊外の風景である。

深い緑は谷保天神の境内ぐらいだ。といっても、主に樫のたぐいの常緑照葉樹のため、昼から薄暗く、武蔵野特有の明るい落葉樹林のイメージとはちと違う。縄文的な湿度を感じさせる森である。

谷保天神に出るには、南武線の谷保駅から南に向かい、てれてれ歩いて五分ぐらい。甲州街道を渡ると、神社としてはちょっと変則的な、北に向いた参道にぶつかる。この参道は国分寺崖線を横断して、本殿へ向かって下っている。森の中では、いつも薄汚れた鶏が数羽、地面を突いて餌を探したりしているが、ここの神鶏なのだろう。

拝殿の前に合格祈願の絵馬が並んでいたり、ブロンズの牛像が置かれているのは、ここが菅原道真を祀っているからだ。牛は参詣客にさんざん撫でられて、鼻のところだけピカピカに光っている。

境内の外れの崖下には湧き水があり、池の中には太った鯉とか、きれいな鴨が緊張感なく泳いでいる。亀もたくさんいて、石の上で甲羅干ししているが、よく見ると毒々しい原色の黄や緑に彩られており、アメリカから来た奴だとわかる。首を伸ばすと獰猛そうで気味が悪い。おおかた縁日かなんかで買ってきたのが捨てられ、育ったのだろう。

拝殿の東側の高台に小さな梅林があり、梅の花が咲いている。いい匂いがする。団子屋なんぞも店を出している。

この梅林から南側を望むと多摩川が見えるはずだが、物流倉庫やラブホテルなんぞが林立するうえに、中央高速道路の土手にさえぎられ、どこにあるのか判らない。ただ、多摩川の対岸につらなる多摩丘陵の稜線が遠くに見えるので、あのへんが河なのだなあと知れる。とにかく乱雑な風景だ。お行儀が悪い。

   ●

武蔵野については、小さいころからさんざん洗脳されて、ぼくの頭の中には「昔はよかった」とする固定観念がすっかり出来上がってしまっている。まずは『鉄腕アトム』の『赤い猫の巻』だ。都市開発で破壊され、わずかに残された武蔵野の森を守るために、マッドサイエンティストが動物を催眠電波でコントロールし、人間社会に大混乱を引き起こすうんぬんというお話で、その悲劇的結末は、少年のセンチメントをおおいにくすぐった。いまの環境問題を先取りしたとでも言おうか、少年は『鉄腕アトム』によって、とにかく木を切っちゃいかん、自然は大事なのだと教育されたのである。

『赤い猫の巻』には国木田独歩の『武蔵野』の「されば君もし、一の小径を往き、たちまち三条に分かるる処に出たなら困るに及ばない、君の杖を立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその路が君を小さな林に導く……」という有名なくだりが出てくる。そこで、中学生になった少年は、辞書を引き引き原典の『武蔵野』にあたり、つづけて德富蘆花の『みみずのたはごと』、さらに渋いところでは、上林暁の武蔵野を舞台にした一連の短編てなぐあいに読み進み、そのうちに、すっかり武蔵野センチメンタリズムに毒された。武蔵野は人々にうるおいをもたらすかけがえのない欅や楡の雑木林であり、それは日々とどめようのない開発によって乱伐され、過去へ追いやられていくという典型的イメージである。とどめが『となりのトトロ』だ。

しかし、この手の自然を守れ、樹木を守れ的センチメントは、どんなもんなんだろうと、ぼくはぼくの頭の中を疑ってかかる。建て売り住宅だって、ラブホテルだって、物流倉庫だって、必要だからできているんであって、そいつはちょっと以前まで、必要だったからそこら中が畑や田んぼや屋敷林になっていたのと同じことじゃないかしらん。縄文人は、森や湿地を切り開いて、どんどん畑や田んぼにしてしまう弥生人の乱開発ぶりを、さぞかし苦い思いで眺めていたことだろうが、しょせん人の暮らしなんて、乱雑で、お行儀の悪いものなのだ。

谷保天神の境内を出て、国分寺崖線沿いの細い路を東へ向かう。きっと昔から人が往来した古い路だと思う。そんな味がする。昭和三十年代に建ったのであろう、時間が経ってもちっとも味の出てこない小住宅や、赤いアルファ・ロメオなんぞを置いた、ま新しいショートケーキハウス、あるいはどんな人が住んでいるのか、奇っ怪な壊れかけた古アパートなどが、笹藪や生け垣、錆びた自転車やオートバイなどと乱雑に混じって、いい感じだ。白木蓮の花芽がふくらんでいる。

路の突き当たりを左へ曲がり、甲州街道へ戻る。崖沿いの枯藪の中から、パチンコ屋の大看板が青空に向かって力強く突きだしていた。





photo by saibara tenki



2007-09-23

世界俳句協会大会日記 長谷川裕

世界俳句協会大会日記 ……長谷川裕













この9月14日から16日の三日間、上野の水月ホテルで第4回世界俳句協会大会が開催された。

第1回スロベニアのトルミン市、第2回奈良の天理市、第3回ブルガリアのソフィア市、そして今回の東京大会というわけだが、あたしは初参加。そのご報告を。



13日(木・晴時々曇)


9時起床、朝食、コーヒー、ジャムトースト。
12時半、渋谷。立ち食い蕎麦屋で昼食カツカレー。東口ビッグカメラで、大会の撮影用にと考えていたニコンのD40Xを触って見たが、急にお金が惜しくなっ てきて買うのを止め、高速SDカードを一枚だけ買う。
2時、日暮里から京成スカイライナーで成田へ。空港ロビーで秋尾敏さんと落ち合い、インドの俳人Praval Kumar Basu氏をお出迎え。

秋尾さんは本日午前中も別の参加者を出迎え、ホテルまで送って京葉道路をトンボ返しの由。成田空港の出口は二つに分かれているので、出迎えにはどうしても二人必要なのだ。A4の紙にプリントアウトしたWHA(世界俳句 協会)のロゴマークをかかげ、ただ突っ立つ。なんか間抜けで情けない。

Praval氏はすぐ気付いてくれ、さっそくカタコトでご挨拶。秋尾さんのクルマで上野へ。渋滞無しで六時、池之端、水月ホテルに到着。秋尾さんはクルマの置き場がないので、そのまま帰宅。あたしはPraval氏のチェックインを手伝う。

「チープマーケットはないのか」とのことで、アメ横へご案内するが、マツタケとかマグロのトロの切り身とか、そんなんばっかで意に沿わぬようであった。すいません。

アメ横見物を終えてPraval氏と別れ、山手線で恵比寿経由、帰宅。中途スーパーで食材を買う。9時半、ナポリタンスパゲティを作り、昨夜の味噌汁で夕食。阪神勝つ。安倍前首相の病気は神経性の胃腸炎による全身衰弱とのこと。今朝買った高速SDカードの転送速度をチェックしてみたが、ぜんぜん変わらず失望。インドの方と会話したのは生まれて初めてであった。12時半就寝。

14日(金・晴)

6時半起床、朗読する予定の俳句英訳をチェック、かみさんの助けでスペイン語訳。朝食、ジャムトースト、紅茶。十時、渋谷、ビッグカメラでフィルムを買う。立ち食い蕎麦屋のコロッケ蕎麦不味し。

本日も日暮里経由で成田。今日は石倉秀樹さんとOrlandoGonzalez Esteva氏と夫人をお出迎え。中国語が堪能な石倉さんは、二時間後に北京から到着する蔡天新さんをご案内し、あたしはカタコトのスペイン語で、先着のGonzalez夫妻を先にご案内という手はずなのだが、飛行機が到着してから一時間半待ってもGonzalez夫妻は現れず、諦めて石倉さんと二人でラーメンを食う。

食い終わって出たところで館内放送があり、Gonzalez夫妻とインフォメーションカウンターでお会いできた。Gonzalez夫妻と京成スカイライナーで上野駅へ。てっきりメキシコ人とばかり思いこんでいた が、フロリダ在住の亡命キューバ人なのであった。5歳の時に亡命して、以後五十年間アメリカ暮らしであるという。英語、スペイン語の両刀遣いであられる。上野駅から歩いて水月ホテルへご案内する。

6時前から世界俳句大会基調報告、歓迎会はじまる。夏石番矢氏の司会。パーティ会場の食事、鶏のからあげ、寿司、その他恐るべきものなり。

Praval Kumar氏、ラトヴィアのLeons Briedis氏、アメリカのJim Kacian氏、Gonzalez氏らと二言三言カタコト国際交流してから、9時、会場を抜け出し、千代田線経由中目黒10時。立ち食い蕎麦、いなり寿司一個が夕食。自民党総裁選挙、ほぼ福田氏で決定の様相。麻生は党内でまったく人望なしと判明。終日外食ばかりですっかり気持ち悪くなってしまった。顔を洗って12時就寝。

15日(土・晴)

7時起床、朝食、かみさんの作った野菜スープ、トースト。8時半、首都高速経由で上野、水月ホテルへ。駐車場満杯で上野公園下の地下駐車場へクルマを置き、9時半、世界俳句大会会場へ。

Gonzalez氏の講演は、俳句の他国語への翻訳についてであったが、あたしには大いにうなづける内容。翻訳は正確であることはもちろん大事だが、正確さのみを追求するあまり、肝心のポエジーが死んでしまってはなにもならない。たとえ語順が入れ替わろうが、翻訳された言葉が詩になっていなければ意味がない云々。

つづいてJim Kacian氏の、アメリカにおける俳句出版の状況についての講演が終わったところで昼食。乾いた刺身、ワケの分からない切り身の焼き魚、どんくさい味噌汁などの和食畏るべし。

Gonzalez夫妻、昼食を逃亡。クルマでリトアニアの前教育科学大臣Kornelijus Platelis氏を明治大学の会場へお送りする。中国短詩の流れを解説した祭天新氏の中国語、漢詩朗読とてもきれいであった。ルーマニアのVasile MOLDOVAN氏、ラトヴィアのLeons Briedis氏がそれぞれの母国の俳句状況を報告したあと、夏石氏の講演「世界俳句の未来」で、講演終了。

葛飾北斎の浮世絵を例に引いて、小さなもの、見捨ててしまいそうなモノばかりを詠うのが俳句ではなく、原初的な荒々しいもの、宇宙的なるものまで詠んでしまえるのが俳句であるとの指摘。

講演が終わり、23階のパーティ会場へ。夕食、水月ホテルよりはるかにましな寿司などつまむ。クルマなので酒が飲めない不幸。天童大人氏のパフォーマンス詩朗読、ジュニア俳句コンテストの入選句発表などあり、参加者俳句朗読で、あたしも自作二句詠む。


口開くとき一本の曼珠沙華

When open our mouth
we find
one flower of équi-nox

Cuando abrimos nuestras bocas
encontramos
una flor de equinoccio



炎天の池に飛び込む普通の亀

One ordinary tortoise
jumped into an ordinary pond
under the burning sun

Bajo el sol ardiente
una tortuga cualquiera
brinca a un estanque cualquiera


ラトヴィアのレオンス・ブリエディス氏の編纂になる雑誌をいただく。秋尾敏氏、石倉秀樹氏、松岡秀明氏、清水国治氏、宇井十間氏、羽田野令氏、木村聡雄氏等々と歓談。ラトヴィア語、エストニア語、リトアニア語ちんぷんかんぷん。彼らも間違いなく日本語ちんぷんかんぷん。国際的って大変。それでもカタコト英語で和気藹々となれるというか、なってしまう。8時解散、空いている都心をクルマで飛ばして9時前帰宅。12時就寝。

16日(日・快晴)

8時起床、朝食葡萄パントースト、紅茶。10時10分、千代田線根津、10時15分、水月ホテル。すでに出発していた上野講演界隈吟行のご一行に不忍池、弁天堂で追いつく。

上野公園を抜け、鶯谷まで歩き、原色のラブホテル街のどまんなかを突き抜けて、俳味あふるるボロ屋の子規庵(戦後、失火で焼失。いまはレプリカである)へ、皆様をご案内する。

狭い子規庵が二十数人で潰れそう。写真を撮ってはいけない、そこに触ってはいけないと、管理者の方が注意なさる。子規庵の庭だから糸瓜がなっており、鶏頭も植わっている。一同、それぞれ即吟、その場で朗読し合う。英語の句もあり、日本語の句もある。おたがいよく判らないけれど、なんだか楽しい。みんな大声で笑ったら、子規庵の管理者に他のお客さんもいらっしゃいますからお静かにと、また注意されてしまった。

豆腐料理の笹乃雪で昼食、 例の豆腐地獄の。あたしと違って礼儀正しい方々なので、メインディッシュはまだかなどとは、誰も言わない。

2時、水月ホテルに戻り、句会。たまたまこのホテルにいた方も飛び入り参加。こういうところが俳句っていいやね。4時解散。千代田線で中目黒5時。プレッセで食材買う。伊勢脇商店街の八百屋で生姜を買う。6時半、自炊で夕食、またもやスパゲッティナポリタン。買ってきた生姜を甘酢漬けにするが、もう季節外れでゴワゴワしており不味そ う。シャワー。11時就寝。

17日(月・快晴)
9時起床、朝食、ベーコンとアスパラのサラダ、梨、ぶどうパントースト、紅茶。日常の仕事に戻り、原稿整理。四時、東急ストア買い物。夕食、麻婆豆腐、茄子のナムル、水菜のベーコンサラダ。玉葱とシイタケの味噌汁、ご飯。阪神勝ってふたたび首位回復。

夕刻、夏石氏からメールの転送、Gonzalez氏からで「YUGATA」によろしくとのことであった。ナ ハハハ。さんざん「ユカテコ」(ユカタン人のこと)でもなければ浴衣の「ユカタ」でもない、あたしの名は「ユタカ」ですよと言ったんだが、やっぱり。

次回世界俳句大会はリトアニアの首都、ヴィルヌスで開催と決まる。ということで12時半就寝。


2007-06-10

メヒコの神さま(2) 長谷川裕

メヒコの神さま(2) ……長谷川 裕



国有鉄道フェロカリールが、まだ旅客切符を売っていたころ、モレリア市まで寝台車で旅したことがあった。午前零時、定刻より三十分遅れでもっさりと列車は動きだし、真っ暗な貧民街をゆっくり、ゆっくりと抜ける。いきなり闇の中から礫が飛んできて、ガツンという音に驚く。客車の窓ガラスに罅が入っているのはそういうわけか。怒りにはぐくまれた悪意の石。そうか、そうだよな。

列車がただただ真っ暗な中をごっとんごととんと進むと、一瞬、踏切の脇に建立されたグアダルペの淫祠が闇の中に浮き上がり、消えた。紅、白、黄、原色のグラジオラスに荘厳された黒いマリア像がそこだけ電球に照らし出され、鮮やかに眼に焼き付いた。ここいらの貧しい人たちがなけなしのお金を寄進して建てたのだ。この踏切で家族の誰かが轢かれたのだろう。

死とともに暮らす彼等は、グアダルペのマリアの奇蹟にひたと寄り添う。メキシコシティでタクシーに乗ってみたまえ。観光客を乗せる空港のリムジンタクシーから流しの雲助、いや強盗タクシーに至るまで、運転席にはグアダルペのマリアの像がかならず置かれている。貧しい人びとの家へ呼ばれてみたまえ。奇蹟の布に浮かび上がった、肌の黒いマリアのイコンがどこかに飾られているはずだ。

生きるということはいつ死んでもおかしくない危機の連続である。生とは死とのランデブーであり、人はいつかどこかで死ぬからこそ生は燃え立つのだ。死者の日の髑髏と抱き合って踊り、死んだ愛児の亡骸を花々、菓子、果物で飾り立てる彼等の、いやおうもなく犯されたる者の息子達の、それでも生まれてきた以上、一生懸命生きるしかない、彼等の一番大事な神様、母神、それがグアダルペのマリアさまなのである。伝統的カソリックである白い人たちの家には黒いマリアはいない。この国の大部分を占める、犯されたる者の息子=褐色の人々だけのマリアさまなのである。

ある日、黒いマリアさまはテペヤックの丘に現れた。通りかかったインディオをナワートル語で「私の小さな子」と呼び止めて「私はマリアです。私のためにこの丘に教会を建ててください」と鳥のような声で囁いた。それが始まりである。

テペヤックはメキシコシティ北方の丘、現在でいうヴィヤ地区である。ここにはグアダルペの大聖堂がある。70年代にはこれがモダーンということで、人々をびっくりさせられると教会の支配者が思った様式だったのかどうか。旧来の伝統的なカテドラルは現存するのだけれど、なにせ地盤がもとはといえば湖だったメキシコシティのこと。地盤沈下でピサの斜塔以上に傾いており、いつ倒壊するか分からないため、近代的な大聖堂を建てた。

それにしてもなんでだろうか、三月十日の空襲で焼け、再建されたコンクリート作りの浅草寺本堂と同じ匂いがする。様式は縁もゆかりもないながら、匂いが同じというのはなんだかうれしいぞ。あたしらだって犯された者の息子だ。そうさ、人類みんなイホ・デ・チンガーダ=犯されし者の息子ではないか。

ヴィヤ地区は見事なほどメスティソとインディオしかいない。ここに来る白人はなんにも知らない観光客のアメリカ人とヨーロッパ人たちだけである。現地の白人は恐いから来ないのだ。チチャロン(豚の皮の揚げ物)が売られているし、ケサディーヨは揚げられているし、グアダルペのマリア様の彫像だのイコンだの首飾りだの、貧乏でキッチュで一生懸命な、いわゆるださいもの、怪しいものがここぞとばかりに軒を並べた店で売られている。そしてたくさん買われていく。

大聖堂前の広場では、家族に抱えてこられた敬虔な婆ちゃんが、一生の最後の土産として、膝を地面にこすりながらグアダルペのマリアさまにお参りしていく。

そして「ださい」土産を買って、遠い田舎に帰っていくのだ。おお、ヴィヤは浅草。あたしたちの浅草と同じ心根がここにはある。

グアダルペの黒いマリア様の力は絶大で、メヒコ全土に広がっている。写真はメヒコシティを遠く離れたミチュアカンのパツカロという町で売られていたとんでもなく危ないグアダルペ像。正統カソリックはこれを見てどう思うか、ふたたび宗教裁判か。ローマ法王がかき抱かれて接吻しているのが偉大なる母、メヒコの豊穣の神、アステカの大地の神、神々の母であったトナンテツイン=シワコアトルとの混血で生まれてきたグアダルペのマリアさまだ。



写真:長谷川裕

2007-05-27

キューバの神さま 長谷川裕

キューバの神さま  ……長谷川 裕


いわゆる世界遺産に指定されたハバナの旧市街だが、早い話、なあんにも面白くない。昨今、キューバのお上はドルを稼ぐべく観光開発に力を入れており、廃墟寸前だった旧市街をピカピカにリフォームしつつある。ぶっこわれた窓枠にはガラスを入れ、汚れた壁をピンクやブルーのパステルカラーで塗り直し、舗道の石畳も拭き直しとがんばっておる。

独裁者バチスタの愛用していた、贅をこらした専用客車なんぞを街中にでーんと展示して、解説員つきで車内を見せてくれたりしている(バチスタは鉄道が大好きだったらしく、よく専用列車を仕立てていたらしい。革命派を鎮圧する切り札と頼みにしていた装甲列車をゲバラのおっさんがダイナマイトで脱線、転覆させたら、がっかりして、あっさり亡命してしまった)。はたまたど派手な色彩の民族衣装をまとった公務員のおばちゃんたちが、観光客のカメラの前でポーズを取ったりしていらっしゃる。ま、いろいろ頑張っているわけだ。

で、その結果、旧市街はただのディズニーランドというか、恵比寿ガーデンプレイスの類となりつつある。ユネスコの罪は重い。

やれ、シボレーだ、プリムスだといった1950年代の太古車が、オイル上がりしたエンジンからもくもく白煙を吹きながら、市内をうようよ走り回っているのも、そりゃ消費社会の最先端から来た観光客には珍しいかも知れないが、二、三日も眺めていれば飽きる。当のハバナっ子にしたら50年も眺めてきたんだから、もうウンザリだろう。

青い海、白い砂のビーチへ行けば、ようするに地中海クラブであって、ヨーロッパからやってきた、もはやすることといったら日光浴ぐらいしかない方々が、ごろんごろんとオットセイのように転がっているであろうことは想像に難くない。いわゆるキューバの観光資源つうものはあたしにとっては、あんまり楽しくもないし、うれしくもない。どーでもいいことなのよ。

しかし、ハバナはえらく面白い。なぜかって、街中にごろごろあふれかえっている黒い人だの白い人だのがめっちゃくっちゃに魅力的だからだ。どいつもこいつも見栄えがする。若い連中はブスも美人も、ハンサムもブ男も、わけへだてなくセクシーだ。年寄りは年寄りで、じいちゃんもばあちゃんもみんなえらくかっこいい。なんだか尊厳を感じさせる。そしてリラックスしている。いいねえ。

で、元気な若い衆は、観光客と見ると兌換ペソをせしめるべく「モヒート飲みに行かないか。いいとこ知ってまっせ」とか「今日はブエナビスタ・ソシアル・クラブの記念日だ。音楽やってるから、オレと行こう」「いい葉巻あるよー」といった調子で、やたらめったら声をかけてくる。

しつっこくつきまとってうるさいったらないのだが、不思議なことになんだか憎めない。しつっこい割りにはスタンスの取り方がどこか都会的で、さばさばしていることもあるのだが、それより大きいのは、ハバナのあんちゃんたちは元気汁いっぱいで、生きているのがうれしくてしかたないといった風だからだろう。

キューバの観光資源はにんげんだ。いっそのことユネスコは世界遺産にキューバ人を指定すべきであった。もう終わっちまった建物とか、便利な文明生活に満ち足りた環境主義者が大喜びしそうな手つかずの自然なんてどーでもいいから、人類に遺産ありというんなら、そりゃ、いまを生きている人間じゃねえのか。

で、なんでキューバ人があれだけうれしそうなのか。これは神さまのお力だと、あたしは睨んだね。うん。キューバにはアフリカから連れてこられた奴隷のひとびとが持ち込んだ、西アフリカの土俗信仰とキリスト教がチャンポンになった、サンテリア=Santeriaなる民間信仰がある。ハイチのブードゥーと同じようなもので、いろんな神様(オリシャ=Orisya)がいて、それぞれ強烈なパワーをもっていらっしゃって、みんなの守り神になってくれている。

このサンテリアの踊りと音楽がアフロ・キューバン音楽の源流となったわけで、どうもここらあたりが元気の素らしい。革命直後のキューバのお上は宗教にはいたって冷淡で、サンテリアもおおっぴらにはやれなかったらしいが、昨今では、まあ、いいかということになって、サンテリアの儀式もどんどん復活しつつあるようだ。徹底的に宗教弾圧してサンテリアをぶっつぶさなかったあたり、キューバのお上もなかなかてえしたもんだ。

いいじゃありませんか、こういう要素がないと人生から肝心な味ってものが抜け落ちまうもの。Agayuさま、Eleguaさま、Obaさま、Oyaさまなど、オリシャはそれぞれに性格、色彩、衣装、象徴物が異なっており、霊力も異なる。そんなわけで、あんたのオリシャは何々さまだから、ブルーが守護色だよとか、翡翠を持ってるといいんだよなどと、サンテリアの占い師が教えてくれるんだそうだ。人それぞれ守り神が違うってのはいいねえ。あたしとは体質的に合っている。今度、キューバにいったら占い師を探して、占ってもらおうじゃないの。



写真:長谷川裕

2007-05-20

メヒコの神さま 長谷川裕

メヒコの神さま  ……長谷川 裕



メヒコは俳句の神さまがおおぜい住んでいらっしゃる土地である。雨やら、風やら、月やら、星やら、山やら、川やら、フクロウやら、ジャガーやら、蛇やら、お魚やら、ありとあらゆるものが神さまなのである。ぼくは俳句には人間主義の及ばない汎神論的なところがあると思っているから、メヒコでは俳題にはこと欠かない。

いまは乾期なのでお休みになっていらっしゃるが、トラロックさま(メヒコの神さまは恐ろしく強力なので、敬称が欠かせない)という雨の神さまがいらっしゃる。過ぐる二十数年まえ、メヒコにいったとき、なぜかこのトラロックさまに気に入られ、取り憑かれたまま、東京までついて来られてしまった。以来、ぼくは雨男になってしまい、吟行のたびに皆様に迷惑をおかけし続けているのである。

トラロックさまは、ぼくの家をやたら雨漏りさせたり、いきなり夕立を降らせてずぶ濡れにしたりと凄い威力を発揮なさるのだが、ときに美しい光景もぼくに見せてくださる。いつだったか、ワハカの山村に行ったとき、道の遠くから音程の狂ったトランペットが、もの悲しい調子で響くのが山道の彼方から聞こえ、見れば葬列であった。トランペットを先頭に、棺を担いだ人々がしだいに近づいてくると、一陣の風が吹き、まばらに生えるコショウヤナギの古木をゆらして驟雨がはじまった。トラロックさまだ。葬列は濡れながらゆっくりとぼくの前を過ぎ、教会の墓所へと向かっていった。むろんぼくも濡れた。

ちなみにトラロックさまにお目にかかりたかったら、ティオティワカンのピラミッドへ行きたまえ。神殿の壁に、龍のようなあるいは獅子舞のような、奇っ怪な石の頭が口を開けて並んでおる。それがトラロックさまである。このお姿を初めて拝したとき、ぼくは「竜吐水」という言葉を思い出したのであった。

いちばんおっかない神さまは、テスカトリポカさまである。テスカトリポカとは「煙を吐く鏡」という意味だ。夜の暗闇を支配する神さまで、光をもたらす太陽神のウィツィロポチトリといつも敵対しておる。暴力と災厄の神さまであり、復讐や懲罰が大好きで、ぼくら人間にさまざまな災難、不幸をもたらす。風になったり、ジャガーになったりといろんなものに変身し、あらゆるところに入り込み、しかもいたって気まぐれであるから、まったく油断が出来ない。それまで幸せだった人が不慮の事故にあって、不幸のどん底に突き落とされたり、何の前触れもなく病気になったりするのは、このテスカトリポカさまの気まぐれに他ならない。

いつもメヒコに行くときは、テスカトリポカさまがやってこないか、ぼくは畏れている。タクシーに乗ったら、いきなり変なところに連れ込まれて、ピストルやらナイフを突きつけられ、身ぐるみ丸裸にされるなんてのは、このテスカトリポカさまの仕業なのだ。

テスカトリポカさまが足に着けていらっしゃる鏡は、世界中の出来事を映し出しており、ぼくら人間どものすることはすべてお見通しだ。「よし、今日はこいつに罰を与えてやろう」などと思われたら、もう、おしまいだ。なにせ神さまのやることだから、ぼくら人間にはどうにも対処のしようがないのである。誰だってテスカトリポカさまの力からは逃れられない。だから人々は不幸や災難に遭うと、テスカトリポカがやってきたといって、嘆き、畏れるのである。

ところでぼくは、二晩を過ごしたアフスコの村から戻るとき、パスポートやら航空券を入れたままのバッグを道に置き忘れてしまった。妹の家の玄関の前からクルマに乗るさい、ちょっと横に置いたまま、他のことに気を取られたのがいけなかったのである。アフスコから一時間半かけて、ようやくメキシコシティまで着いたところで、「あれっ、いけねえ、忘れた!」とあいなったのであった。

すでに一時間半も経っている。こりゃ、どう考えても誰かに持って行かれちゃっただろう。人が手に持っているのだって、無理やり盗っていくぐらいなんだから。うわ~、こりゃ大変なことになっちまったい。大使館行ったり、航空会社に行ったり、えれえことだぞ、どうするよ。

クルマを運転してきた妹が、すぐに携帯電話で隣の家の人に電話して、バッグが置いてあるかどうか確かめてもらった。はらはらと待つこと十分、いつもはもの静かな妹が、明るい声で叫んだ。「あった、あった!」バッグは門の前にそのまま置いてあったそうである。奇蹟である。ぼくら全員、その場でバンザイを絶唱した。

妹はそのままクルマでとって返し、アフスコとメキシコシティを三時間かけて往復したのであった。ごめんね、ご苦労様でした。

どうやらテスカトリポカさまは、そのとき足の鏡を見ていなかったらしい。いや、それとも、見逃してくださったのか。はたまた、ぼくのいまだ知らないなにかの神さまが守ってくださったのか。いずれにせよ、メヒコは奇蹟の起きるところなのだ。いや、奇蹟がなければ人間、生きていけない。生きてること自体が奇蹟の連続ではないか。なんの神さまか知らないけれど、神さま、奇蹟をほんとうにありがとうございました。


写真:長谷川裕