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2021-06-13

【空へゆく階段】№42 俳句探訪:飯島晴子『花木集』 田中裕明

【空へゆく階段】№42
俳句探訪:飯島晴子『花木集』

田中裕明

「青」1984年9月号

鱧の皮買ひに出でたるまでのこと  飯島晴子

句集『花木集』より。

軽評論としての俳句批評というものをしばらく前から考えていて軽評論という呼称はちかごろ聞かない言葉のひとつに違いないのだけれども俳句批評はつまるところ軽評論だと自分の中で決めてしまえば気がらくになる。軽評論に対する言葉にたとえば重評論というものが考えられてこちらのほうは軽評論という言葉よりもっと聞かないのだから重評論というものはなくて軽評論の反対語は評論ということになってそれならば軽評論は評論ではない。あるいは評論のなりそこないである。ここで言う軽評論としての俳句批評というのは俳句を並べてそのあとに何か気のきいた感想を書きつけておくことであってこれは作品主体の批評ということだからニュークリティシズムのゆき方にさからってはいないしこういう批評がべつに奇抜でないということが俳句のあたらしさを示しているのかもしれない。考えてみれば和歌の批評は中世からたとえば歌合せの判詞などを見ても方法としては作品についての批評であるから軽評論としての俳句批評は新奇でかつ古典的な手法ということになりこれは好むところである。しかしながら正面切って軽評論というのも気恥ずかしいしまた滑稽なものだ。

『花木集』という句集には作者の「言葉の現れるとき」という文章が収録されていてこれは軽評論ではない。途中の議論のすすめ方やエピソードは作者の心ばえをあらわしていて魅力あるものだけれどもここでは最後の部分を引用する。
俳句の言葉となり得る言葉の現われるときのことは、どうしても比喩的にしか言うことの出来ない不可思議な突然のことである。言葉の母体となる意識とその言葉との間には何らかのつながりがあるには違いないが、それをたどることは不可能である。そこには神の掌がぴったりと伏せられている。しかし思えばこれは、詩歌文芸に限らず、言葉というものの本来の現れ方ではなかったのか。意識の暗闇を飛び越す肉体的と言ってもよい苦痛、不安を克服する人間のバイタリティーの代償として、もともと、言葉は力をもったのではなかったのだろうか。いま、私たちをとりまく言葉の大部分は、偶然や、徒労や、非論理に耐えられなくなってこれを手放した人間の言葉である。言葉に呪力どころか魅力もない。もっとも、言葉が無力だから、今日のこの言葉の氾濫の中に、言葉に殺されないで生きていられるのであろう。せめて俳句一行ぐらいには、言葉らしい言葉を存らしめたいと思うゆえんである。
言葉が生まれるということの不思議さについてあらためて気づかせてくれる点でこの文章は読んでいて楽しい。詩はありふれたものでしたがって詩の言葉もまたありふれたものである。たとえその言葉がどれほど力をもっていたとしても言葉がありふれているという場所から見ればほかの言葉と変わるところがない。朝起きてみると晴れていたり降っていたりすることほどありきたりのことはないけれども寝床の中で日差しをながめたり雨の音を聞いたりすることなしに生きてゆくことはできなくてそれならば言葉はありふれてなければならない。めずらしい言葉が詩になるのではないことは知っていてもありきたりの言葉があらわれてくるときに気づくというのはこれは誰でもがすることではない。

絶えずかすかな音のしてゐる残雪林

桜守うすぐらき腿してゐるといふ

蜆汁深空のなかはさだまらず

春鮒やダイウスといふところの名

自動車を蘖に下り鯉料理

春落葉焚きいくらかの肉がつく

竹植ゑてそれは綺麗に歩いて行く

簟眼にちから這入りけり

箱庭の草心外にそよぎをり

氷水東の塔のおそろしく

男らのものがなしくも蝮山

わがたましひ赤鱏となり泳ぐかな

鬼婆の帚草かよあをあをと

叩頭すあやめあざやかなる方へ

『花木集』は作者の句集「蕨手」「朱田」「春の蔵」およびそれ以後の作品から三百句を春夏秋冬の順に並べたものであって読者も製作年代順に読もうとはしないからそのまま春夏の句をあげた。これらの作品の言葉をありふれた言葉だと言えば真意をくんでもらえない向きもあるかもしれないがこれはめずらしい言葉でつくった俳句ではない。たとえば簟び句について作品はこう言う。「私の聞き馴れた名前は籐筵である。とむしろのひんやりした感触、暗い光、取りつくしまもない整然さなど、私の原風景に敷きつめられているものである。甘えの余地のないものの上に坐らされれば、眼にちからも這入ろうというものである。もっとも私は現実をその籐筵に耐えて立派にやっていけないがゆえに、俳句でこう書くのである――と、自分ではそう思っている。」(鷹七月号「自作の周辺」)

月光の象番にならぬかといふ

七夕の紙の音して唇ひらく

気さんじの籾殻みちをえらびけり

恋ともちがふ紅葉の岸をともにして

孔子一行衣服で赭い梨を拭き

一月の畳ひかりて鯉衰ふ

雪を来て光悦消息文暮色

雪兎なんぼつくれば声通る

蒸鮓やゆつくり歩くやうにする

養家にて消防服を着てみたり

詩が言葉でつくるものであれば俳句もまた言葉でつくるというごく当然のことに気づかないあるいは気づかないふりをすることがどれほど不自然なことか考えてみれば誰でもわかることである。月光の象番にしても孔子一行にしてもしごくありきたりのことにはちがいないけれどもそれは普通に言う詩的常識などといったものではなくてたとえば寒ければあたたかい服を着たいと思うようなものだ。そういった自然な言葉が非常に伝統的なものであることはこれもあたりまえのことで作者は個人的な回想からはなれて普遍的な場所に抜けだそうとしているしそれが多くの場合成功しているので作者はすこし寂しい。詩を書くときに言葉をあつかうそのあつかい方は家を建てるときに木や石をあつかう方法とあまり似たところがない。木や石にもコンテクストがあるはずでそれは誰もが知っているものであるから家になったり橋になったりするけれども言葉のコンテクストはあらかじめ予定されていないからできあがるまで家とも橋ともわからなくてあるときにはできあがってもそれが何やらわからない。だからコンテクストをかたちづくるひとつのエレメントほどの長さもない俳句では問題がもうすこしまわりくどくなって句集のなかの一句は木や石ではないけれども一句がひとつの句集のコンテクストからはなれて置かれることもあるし枯山水のようにはなして置くことによるコンテクストもあっていい。たとえば象番の句のふたつあとには「旅客機閉す秋風のアラブ服が最後」という句があり孔子一行の句のふたつまえには「鬼箭木のここらを杖のつきはじめ」という句がある。これなど句集がどのようなつくりになっているかを示す好例にちがいない。

ここでもういちど「ことばの現れるとき」から引用すれば、
コロンブスの卵のような当り前のことに目が開いたのである。それは私などのように、仮の相手としての言葉に拠って言葉を手に入れようと、ホトトギスのように仮の相手としての事物に拠って言葉を手に入れようと、とにかく言葉が言葉になる瞬間は無時間であり、従って無意識であるという点では全く同じであるということであった。もっともそれは、人類らしき生物が言葉らしき音を発したときから今までの悠久の時間が一挙に蒸発したような無時間であり、人類の意識の総和を投入することによってのみ埋め合わせのつく無意識であるかもしれない。一人立ちして生きもののように、或る世界を展いていくエネルギーのある言葉は、こういう理不尽ともいえる現れ方でしか現れないということであった。
言葉はありふれたものだから精神にひびかせたときにいい音がする。掲出句は主客が何か話をしていて最後にどちらかが「鱧の皮買ひに出でたるまでのこと」と言ったようなかんじがあっておもしろい。こういう句が生まれるときを無時間無意識と言ってもいいしまた言わなくてもいい。



2020-07-26

佐々木マキ・攝津幸彦・飯島晴子 安田中彦

佐々木マキ・攝津幸彦・飯島晴子

安田中彦


狂人の作品を掲載してはならない、手塚治虫に脅威を与えてそう言わしめた佐々木マキ。その自選集『うみべのまち』を入手。

佐々木は、60年代終りから70年代に『ガロ』に掲載された漫画や、『ねむいねむいねずみくん』『ぶたのたね』などの絵本で知られている漫画家・絵本作家。因みに自選集の帯文は村上春樹。村上は『風の歌を聴け』の「表紙はどうしても佐々木マキさんの絵でなければならなかった」と書く。

70年前後の『ガロ』には多くの実験的な作品が現れたが、日本的な「四畳半」臭さのない、アメリカンナイズされた作風を持つ漫画家として佐々木マキやたむらしげるなどがいた。無国籍的ともアメリカ的とも言える村上春樹の初期作品と、佐々木の描く世界とは重なり合う部分があり、村上が小説家になれただけでなく、本の表紙を佐々木に描いてもらってとても「幸福」を感じたと述べているのも肯ける。ついでに言うと、村上は95年の地下鉄サリン事件など一連の凶悪事件を起こしたオウム真理教に強い関心を抱き、インタビュー集などを出している。これはオウムの人々に自分と同質の部分があるのを感じたからではないかと私は推測している。異質なものを排除し同質性の中で自己完結する(特に初期の作品)のが村上の作品である、と私は見ているのだが、これは話が逸れすぎるので、佐々木マキに話を戻す。(「おいおい、俳句の話はしないのか?」と思っている方、もう少しお待ちください。)

何十年かぶりに佐々木の漫画に触れて私が感じたのは、当時は時代から超然として存在していたかに見えていたものが、実は強烈なまでに時代の匂いを発散していること。
今では死語なのだろうけれど、「サイケデリック」、略して「サイケ」という語が広まっていたのを思い出す。辞書を引くと「幻覚剤による幻覚や恍惚状態に似たさま」とある。また、当時の文化的キーワードに「カウンター・カルチャー(対抗文化)」というのもあった。体制的なメインのカルチャーに対して「対抗」するカルチャーということだ。さらに付け加えると、戦後のアメリカ文化に対する人々の憧憬は、現在では、高度経済成長の途上にあった時代への「三丁目の夕日」的な郷愁同様の、歴史的感情と言える。

俳句と関係のないことを長々と書いた。そのわけは、佐々木マキの作品を読んでいる途中、私の脳裡に幾度となく、攝津幸彦の句が浮かんできたからだ。ジャンルは異なるものの、感受性に時代の刻印を押されているという点で二人は共通している。因みに佐々木は1946年生まれ、攝津は1947年生まれ。

 南浦和のダリヤを仮のあはれとす 攝津幸彦

これは攝津の代表句。「あはれ」は『源氏物語』を筆頭とする日本文学のメインストリームにおける最重要語と言ってよい。それに対して配されているのは、およそ抒情から遠い「南浦和」と「ダリヤ」。ここには明らかにカウンター・カルチャー的発想が見られる。

俗なものを取り込むのは、和歌との違いを鮮明にするために俳句が取った戦略で、俳句が大衆性を得た理由でもある。しかし俗に傾き過ぎると安っぽく軽薄になり、文芸として危うくなる。「写生」や「花鳥諷詠」という考え方は、高みに向かい過ぎず、また俗になり過ぎないための方策としての側面がある。俳句に関する議論がしばしばかみ合わず、中途半端なものに終るのは、俳句がもともとそうした相反する力のバランスの上に成り立っているという事情があるからだろう。とは言え、俳句界の主流が「写生」「花鳥諷詠」にあるのは間違いのないことで、それを考えれば攝津の作句法そのものがカウンター・カルチャー的と言える。定型はほぼ守られているものの、写生からは遠く、季語への意識も希薄。季語を用いている場合でも、その本意を敢えて無視しようとする。

 一月許可のほとけをのせて紙飛行機

 みだれ髪 寒満月の 後始末

 かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や

第二句集『鳥子』から冒頭の三句。もっとも分かりやすいのは「みだれ髪」の句。俳句としての出来はともかく、取り合わせも季語の用い方も了解しやすい。しかし、他の二句は三物の取り合わせ。季語「一月許可」が何なのかわからない。「たまご」または「暗殺」が「しぐるゝ」というのも意味不明。

四物の取り合わせもある。

 鷗・元伯爵・鞦韆・語草

 失速す朝のたてがみ無視のむらさき
 
やはり『鳥子』から。「鷗」の句は明確に四物だし、「失速す」は三物にも見えるが、「無視のむらさき」を「無視」「むらさき」を別々なものと考えれば四物になる。攝津は、このように一般的な俳句の作法に終生、対抗し続けた(彼の享年を考えれば終生それを続けるつもりだったのかはわからないが)。

「一月許可」の句に戻ると、これを冒頭句にしたのは一月が攝津の誕生月だからという指摘がある。もしそうなら「一月許可のほとけ」とは彼自身を指していることになる。この句は作句姿勢の表明とも、自尊心の裏返しである韜晦や自虐とも受け取れる。ここで私が連想するのは太宰治で、彼は第一作品集のタイトルを『晩年』とした。収録している短編のタイトルを使わず、敢えて「晩年」としたところに、「晩年」という言葉とは裏腹の若さを感じてしまう。同様の思いを「一月許可のほとけ」と自己規定する攝津に対しても抱く。

唐突と思われるだろうが、私はここで攝津幸彦と飯島晴子を引き比べてみる。彼女の初期の句集『蕨手』『朱田』は取り合わせの試みが極めて魅力的だ。

 母体ばかり着き白ダリヤつくる駅  『蕨手』

 晩年の膚皓々とダリヤ園

 谷底のダリヤは死亡してをりぬ   『朱田』

 死んだやうにダリヤがかくしてゐる少年

攝津の好んだモチーフであるダリヤを使った句を二句ずつ取り出してみた。これだけを見れば、飯島ではなく攝津の句であると言っても認められそうだ。『蕨手』は1972年、『朱田』は1976年刊行で、60年代中盤から70年代中盤の作品が収められている。一方、攝津の第一句集『姉にアネモネ』は1973年、第二句集『鳥子』は1976年刊行。この二人がある時期、作句の方法において接近した場所にいたのはたまたまかもしれない。しかし、その時代の文化状況、さらにいえば時代精神によるのではないかとの想像も可能ではないだろうか。

二人はその後、異なる進路を歩む。飯島の場合は、第一句集『蕨手』の、師である藤田湘子による序文に指し示されている。藤田は〈一月の畳ひかりて鯉衰ふ〉を取り上げて次のように述べている。

〈この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。〉(注・下線は藤田自身による)

読み手の意表を突くような、ときにはシュールとさえ言える取り合わせを行った攝津幸彦と飯島晴子。しかし飯島の場合には、〈もの〉の実体を把握しようとする意思が働いている。この後、成熟に向かって進んでゆく飯島の展開を考えると、この第一、第二句集は表現の模索の所産であり、次のステップに進むための助走のように見えてしまう。一方、攝津は〈もの〉ではなく〈ことば〉重視の句作り、〈ことば〉との戯れという姿勢を通す。ここにあるのはもちろん、俳句観や個々のパーソナリティの違いなのだが、私はそこに、先ほど触れた時代精神というものの加味したい誘惑に駆られる。60年代は攝津の10代から20代初めの多感な時期に重なる。その時代の社会および文化運動の高揚と混沌を全身で受け止めたはずだ。当時、映画や芝居における前衛的、実験的表現として「アンダー・グラウンド」、略して「アングラ」という言葉が随分もてはやされた。メインストリームに対して傍流であること、またアングラ的であることを好ましいとする時代の空気の中で成長し、その時代の精神を自分のものとしたのだと考えれば、攝津の句作の姿勢は了解しやすい。飯島は攝津よりずっと年長で、60年代にはすでに40歳代に入っているから、攝津のような形で時代を受容することはなかっただろうと推測する。

私はここまで「カウンター・カルチャー」という語を何度も使ってきた。攝津は自分を培ってくれた文化を信頼していたのだと私は思う。それは60年代の文化だけではなく、実は「写生」「花鳥諷詠」的俳句観、そしてそれを支える文化的背景に対してもそうだったのではないか。そうした信頼があったからこそ、それに対抗し戯れることができたのではないかという気がしてならない。依拠するに足る、それゆえにまた対抗するに足る文化的背景が失われている現在において、攝津の立ち位置を私は羨ましいものに感じる。もう戻らない時代への郷愁をも込めて。


(拙文と全く関係ないことだが、週俳682号で宇多喜代子「天皇の白髪にこそ夏の月」について私見を書かせていただいた。その編集後記に福田若之氏が蟬論争を想起したと書かれていた。私は脱力したのであった。)


2014-06-15

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 22 〕最終回 小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 22 〕最終回


小林苑を

『里』2013年6月号より転載

これ着ると梟が啼くめくら縞  『蕨手』

やはりこの句で終わろうと思う。

俳句を始めて間もない頃、この句に出会って、こんな一句を作りたいと思った。似ている句ということではもちろんないし、こんな傾向の、こんな作りのというのでもない。この句を目にした途端、私はとある場所に連れて行かれていた。こんな一句とは、人を攫ってしまう句としか言いようがない。

そういえば、人攫いとはゾクゾクする言葉だ。攫われるのは子供や若い娘が相応しい。それは可弱くて、無垢で、原初的なもの。それを絡め取るために巧みに騙し、ときには力ずくでガサッと連れ去る。

人攫いが優しい顔をして「ほら見てごらん」と鏡のようなもの取り出すと、そこにはこちら側のものたち、ときには自分自身が映っているようなのだ。思わず覗きこむと強引に引き摺り込まれ、或いは自ら鏡の中に入ってしまっていたりする。いま見たものは本当だったのかを吟味している暇はない。一瞬にしてワープする。

人は攫われたいのだ。そうでなければゾクゾクはしない。この現実を裏返してみたい。そこにいるのはもうひとりの私で、その私もまた現実を裏返してみたいと思っており、どちらが本当の私なのかわからなくなるのだが、そんなからくり鏡の魔力に晴子も捉まえられたのだと思う。

「俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議に気がついた。言葉の偶然の組合せから、言葉の意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。そこに顕ってくるのは、私から少しずれている私であり、私の予定出来ない、私の未見の世界であった。私の監督をうけずに自由にしている言葉たちの向うに、私の知らない私を見ることは、味をしめればやめられない面白いゲーム(狩猟)であった。」〔※1〕

「既成の秩序は、言葉における本意と置き換えられるだろう。私の生まれ育った環境は、しぜんに私を本意の側に固定していた。本意の側、即ち滅びる側である。言葉と物が、私のなかではっきりしたかたちをとるまでは、私はむしろ、本意を攻撃する側にいるつもりであった。京都という都会に生まれ育った私のまわりは、本意のうっとうしさに満ち満ちていたから、これに抵抗していると思っている間は爽やかに仕合わせであった。しかし、こういうことは、嫌だからといって向こう側へ鞍替え出来るものではない。運命自体を、どれだけ引き延ばせるかということである。運命を自覚し、腰を決めて居直れば、これは賭けてみるだけのことのある、なかなか面白い仕事である。」「本意の血の濃さを逆手に使わなければ、私には何も使うものがない ー略―  破調や自由律を使うより、五・七・五典型を使うほうが、定型的世界に対する報復が、私の私自身への報復が、二重のエネルギーをもって達成される。静かに、徹底的に、恨みが果たせる。自他への私の残酷さが完璧に満足させられる ―― 嗚呼、そんなことをしてみたいと熱望する」〔※1〕

ひとつの時代を生きた女性の言葉として、この生真面目さ、気負いをときには鬱陶しいと思ったりもする。晴子は母の世代だとはじめに書いた。母とは鬱陶しいものだ。それは、晴子が「うっとうしい」と書いた本意でもあるのだ。同時にこの頃の晴子の年齢を過ぎると、人はもう恨んだりするような体力・気力は失せ、よく言えば多少の達観か諦念とともに緩やかに自然体になっていくのだと、晴子句の変化にそれを重ね合わせて得心する。

めくら縞は細かい縦縞模様のことで、それも黒紺などの暗い色の縞なので遠目には無地に見える。木綿で織って普段着・野良着にするのが普通だろう。その闇のような色目からめくら縞と呼ばれ、そう思えば哀しい名だが、一方でそれは模様の名前に過ぎず、ことさら意識などせず使っていた言葉でもある。

めくらというのは差別語だというので禁忌になって、本当に差別語になってしまった。言葉にはそれ自体の持つ質感があり、その質感ごと葬り去られてしまったので、「これ」と指し示されたものが「めくら縞」であるとわかったときの暗さの質感も判りにくくなっているのかもしれない。暗いけれどよく見ればいろいろな色が見えてくるめくら縞には一条の光のようなものも織りこまれていて、梟が啼きはじめる胸の内はからっぼだけれど、それでも生きているから啼くのである。

無邪気や奔放や自堕落を幼さとするなら、大人とは運命を引き受ける覚悟のことだろう。晴子句の凜とした響きはこの覚悟に見合っている。空蝉も吹けばホーホーと音がするだろうが、吹くのは襖を閉めた誰にも知られない場所でなければならない。そんな大人が減ってきた。そのように生きろという時代でもない。

それでも、多くの人が晴子の句に魅了され、俳句が書けなくなると晴子を読むんですと話してくれた俳人もいる。晴子について書かれたものは多数あり、いまも語られる。時代が変わっても梟は啼くのだろう。

六月六日は晴子の命日である。


〔※1〕『飯島晴子読本』収録 「言葉の現われるとき」
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 「わが俳句詩論」

2014-06-01

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 22 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 22 〕


小林苑を

『里』2013年5月号より転載

わたくしに烏柄杓はまかせておいて  『平日』

『平日』は、七十五歳の誕生日にと前書きのある <竹馬に乗つて行かうかこの先は> で始まり、< 丹田に力を入れて浮いて来い > で終わる。竹馬と浮いて来い、どちらも玩具で遊んだ子ども時代を思い出させる、老いと向き合う句である。

あとがきは、娘の後藤素子が記し、「ここに母に生前より頼まれておりました遺句集を出すことになりました」とある。最後の句集を準備して、平成十二年六月、晴子は自ら生涯を閉じる。

俳壇に衝撃を与え、多くの追悼文が書かれ、特集が組まれた。すべてに、何故という問いかけが滲む。栗原浩のインタビューに応えた中で〔※1〕、後藤素子は「母から『断念』という言葉を聞かされました」と語っている。

櫂未知子は、『未完なる老い』と題する晴子論〔※2〕で、自死直前の作で話題になった < 大空にぽつかりと吾れ八十歳 >  < ミモザ咲きとりたる歳のかぶさり来 > を紹介し、後者を晴子句としては異色とし、花材の選択を挙げる。晴子は「華といえば野の花。それもわびしげなものをとりわけ好んだ。華やかな花を句の素材として選ぶ時は、むしろその痛々しさを中心に詠むためだった」のに、このミモザのは違うと言う。

そして、「もう一点、過去の歳月を回想していることが挙げられる。回顧回想は、基本的に晴子の世界ではない。さらにもう一点、音読してみるとよくわかることがある。それは、この句全体のもったりとした音感と、まつわりつくような内容のもどかしさであり、これはそれまでの飯島晴子の句にはあまりなかったものである。それは、かつて< 老い放題に老いんとす>と詠んだ作者自身、予想せず、また読者も想像していなかった現実の老いの厳しさゆえだったのかもしれない」と語る。

老いはすべての人間に訪れるが、生きることが平等でないのと同じように、すべてに等しい老いがやって来るわけではない。病を得ることで、晴子の老いには翳りもあった。あくまでも毅然と美しくありたい人には厳しい現実だ。断念という決断、自死という選択は生きる側にあるのであり、晴子はそのように生き切ったのだ。

話題の句集『カルナヴァル』の作者、金原まさ子は百二歳だという。俳句形式を存分に楽しみ、どう老いるかという命題を掲げることなく、毎日をハレの日として遊ぶ。百歳の句集のタイトルは『遊戯の家』。タイトルのように、生きることのあれこれを面白がる。読み手にとっては、老いにまとわりつくネガティブな意匠から自由であることが心地よい。

晴子になかったのは茶目っ気かもしれない。健康的で楽し気な一面は十分にあるけれど、やはり生真面目な優等生なのだ。もしかしたら、と想像してみる。健康に恵まれて百歳になった晴子は、あらねばならない私から解放されて、悪戯な目を輝かせたかもしれないと。そんな晴子に出会ってみたい。でも、晴子は晴子らしく生きたのだ。

掲句は小気味よい。こう言われたら。おまかせするっきゃない。いかにも晴子らしい一句。 句意はよくはわからないけれど、単純にこの花のことは私がすべて知っているわよ、とそれこそ見得を切っているのだと思いたい。烏柄杓が気に入ったということであり、私だけのものと言いたいようでもある。

烏柄杓の実物は見たことはないが、写真で見ると確かに鳥の首を思わせる柄杓型で、晴子の好きそうな植物である。別名、半夏、狐の蝋燭、蛇の枕と、こちらも魅力的な呼称で、野にある花だ。

岡井隆は晴子の哀悼に掲句を挙げ〔※3〕、「なににしても、飯島さんが亡くなって居られるのでは、はかない話だが、それでも歳時記などひきながら、カラスビシャクの句とつき合つてゐると、たのしく慰められる。カラスビシャクではなく『烏柄杓』と書かねばならない。そういう句である。これは植物の名であって、しかもそこに、烏が棲んでゐる。烏が、柄杓に使ひさうな肉穂花の、その外の総苞である。あれは、水は汲めまいが、烏ならあれで汲みさうだ。ほんたうは、カラスビシャクは雑草として庭や畑に生えて来るので、この草の駆除は、わたしにまかせておいてよ、といってゐるみたいでもある。この柄杓で水を汲むのは、常人にはできないだらうから、このわたしめにおまかせ下さいと申しでられたやうな気にもなる」という。

この一文は「 < そのうちに隠れ住みたき鴛鴦の沼 > と言ひながら、鴛鴦の沼ならぬ彼岸へ、旅立つて行つてしまはれた」と結ばれる。鴛鴦からは夫恋も感じられる。『平日』には < 父母祖父母はや赤蛙浮かぶ沼 > という句もある。この句から、以前取り上げた < わたくしを呼ぶ父よ蛭と泳ぎ > を思う。晴子にとって、沼は血脈と出会う場所なのだろう。決して明るくはないが、土俗的な安らぎがある。沼は私に、かって日本人みんなが住んでいた家屋の薄暗さを思い出させる。


〔※1〕『続俳人探訪』文學の森 二〇〇九年二月 
〔※2〕『セレクション俳人―櫂未知子集』邑書林 二〇〇三年五月 
〔※3〕『飯島晴子読本』収録 「飯島晴子といふ俳人」

2014-05-18

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 21 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 21 〕


小林苑を

『里』2013年4月号より転載

寂しいは寂しいですと春霰  『儚々』

晴子はよく「私の作り方はホトトギスの作り方とほとんど同じ」と言っていたという〔※1〕

写実についての一文では「私がホトトギス俳句において出会ったのは、やはり言葉の問題であった。ホトトギス俳句の秀作は、言葉が詩の言葉としての機能を見事に果たしているのであった」「私の写実句には、結果も過程も写実の句、過程は写実なのだが結果がそうは見えない句、過程は写実ばかりではないが結果は写実一筋の句とさまざま。写実とは何かと考え込んでしまう」〔※2〕と書く。

写実の句として < 禿鷹の翼片方づつ収む > < 茶の花に押しつけてあるオートバイ > の二句をあげて、句作の過程も述べているのだが、前者は見たものの一瞬のスケッチ、後者は見たのは茶花垣だけで想像の産物ということだ。

花鳥諷詠というホトトギスの作り方、このことで思い出すのは晴子がホトトギスの俳人と三宝寺を訪れたときの話だ〔※3〕。その俳人は「見るのと言葉とが一緒に出てくる」と言う。もちろん、そのように鍛錬するということだろう。このことは啓示的だったと晴子は言う。自分はホトトギスの俳人が自然の事物を相手にやっていることを、言葉相手にやっているのだなと気付くのだ。

作り方ということで、もう一つ。随筆「一位の木」〔※4〕では、阿部完一の句 < たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる > に触れ、この句は白っぽい一行がゆらゆら揺れて心地よく『梁塵秘抄』のようだったという感想を持つ。一位の木を知るまでは。その後一位の木を見る機会があり、がっしりした黒い木は句のイメージからかけ離れていた。阿部氏は実物を見ていないのだと晴子は思う。ところが、聞いてみると、見たとのこと。「氏の言葉への意志の勁さを、あらためて見る思い」で、「わたしがつくるとなればこうはいかない。わたしはいつも、言葉と物の間で揺れている自分をこのたびもまた知るのである」と結んでいる。これは昭和五十一年の文章である。ともに言葉を砥ぎ澄ましていた頃だ。二人の資質の違いであり、作り方の違いが覗われる。

阿部がより抽象であろうと志向するのに対し、晴子は見たものから別の具象、場面を描こうとしているようなのだ。ホトトギスの作り方と同じと言うのも、次第に句が写実的になっていくのも、晴子にとっては見たものが醸し出す、あるいは見たものによって引き摺り出される生理的な心地よさ、あるいは悪さが、一句として定まることを求めているからだ。

生前最後の句集である『儚々』は、< 初夢の中をどんなに走つたやら > の一句目から < 北野天神大服梅の遉かな > < 牡丹焚く火のおとろへに執しをり > と続く。「どんなに…やら」「遉(さすが)」「執し」と、この三句だけ見ても心持ちを表す言葉が多いことがわかる。写生というより感慨で、以前よりさらに率直に気分を書いている。

掲句はズバリ「寂しいは寂しいです」。この措辞、朝日新聞で読んだ写真家の入江泰吉の言葉そのままだという。寂しいことは寂しいと言うよりもより寂しさがあると感じて、「そっくりそのまま頂戴した」〔※5〕のだという。入江泰吉は大和路を撮り続けた奈良の写真家。個人的には叔父が編集者時代に担当して、土門拳のものと一緒に書棚に並べられていた写真集をよく見ていたので懐かしい。大和から霞を思ったのだろうか。

春霞を配することで、寂しさのかたちが見えてくる。ことさらに言いたてるようなことではない、温もりのようでさえある、けれども消えることのない寂しさ。これが霧などだったら寂しいというより侘びしい。

人がひとである哀しさ、鬱陶しさ、言葉にできない空漠、そんな生理感覚は誰もが抱えている、かたちにならない思い。それは言葉にできないのだけれど、できないものを言葉にする、それが「詩の言葉」なのだ。

平成八年『儚々』上梓。『鷹』八月号で特集が組まれ、インタビューに応えて「見るといったって、誰でもが見えるものしか見えないけれども、言葉になったときに見えるということもあります」と言っている。

翌年、この『儚々』で飯田蛇笏賞受賞。

< わけもなく機嫌直らず土筆飯 > < 冬すみれいろのねむりに溺れたし > < さつきから夕立の端にゐるらしき > < 蓑虫の蓑あまりにもありあはせ >  < たんぽぽの絮吹くにもう息足りぬ > < 烏蝶何を為出来かやもしれぬ > < 亡年のもう一と歩きするとせむ > 等。

七十歳の時に脳動脈瘤で入院、その後は娘素子を同行しての吟行となる。娘の隣家に引越しもした。眼を患い視力が衰える、老人性鬱を発症等、謂わば老いとの競うように句作を続けたのだろう。

「寂しいは寂しいです」は晴子の声でもある。


〔※1〕『飯島晴子読本』収録「ホトトギスとほとんど同じ」平井昭敏
〔※2〕『葛の花』二〇〇年収録「写実とは」『俳句研究』一九八九年一一月
〔※3〕『飯島晴子読本』収録「写生と言葉」『青』一九七五年八月
〔※4〕『飯島晴子読本』収録「一位の木」『俳句とエッセイ』一九七六年一一月
〔※5〕『飯島晴子読本』収録「自句自解」

2014-05-04

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 20 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 20 〕


小林苑を


『里』2012年2月号より転載

ぼろ市の嵐寛のブロマイドかな  『寒晴』

東京も初雪となる。身が凍る。

というので < 凍鶴となる際の首ぐぐと入れ 『寒晴』> を取り上げようと思っていたが、前回は凍蝶の句だったと気付く。別にいいようなものだけれど、違う雰囲気のものをと掲句とする。ぼろ市と凍鶴の景。雰囲気は違うが、どちらにも勢いというかスピード感がある。『八頭』から『寒晴』の頃の晴子には、そんな印象の佳句が多い。

小林貴子が < 金屏風何とすばやくたたむこと 『八頭』 > について、スピードということをいっている〔※1〕。句意がスピードそのものでもあり、表現に「一気言いおろしの迫力」があるとの指摘通りだが、この句でなくとも「凍鶴」や < 軽暖や写楽十枚ずいと見て 『八頭』 > の「ぐぐ」や「ずい」というオノマトペにも勢いがある。掲句も、「の」「の」と重ねて力づくで一気にブロマイドへと焦点を絞ってゆくとき、速さを感じる。五五七リズムや「かな」でしっかり切ることでその効果を上げている。例えば、「ぼろ市の団十郎のブロマイド」ではこうはいかない(団十郎は中七になるように任意に選んだだけです)。

これらは、すべて写生句と言ってよいだろう。写生なのだが景よりも気分が伝わってくる。むろん具象あってのことなのだが、このスピートが爽快感を生む。

嵐寛といっても、若い人たちにはピンとこないかも知れない。嵐寛壽郎を縮めて「アラカン」、ももクロみたいに、誰もがそう呼んでいた愛称である。三百本以上の映画に出演した、銀幕ということばが生きていた頃の大スターなのだが、どこか滑稽味というか愛嬌というか、俳味のある役者だった。京都人でもあり、晴子にはなおさら近しい気のする俳優だったかもしれない。

ブロマイドというのも近頃は聞かなくなっているが、この売れ行きが人気のバロメーターだった時代がある。ぼろ市は冬の風物詩で、なんでもあるが売り。そのなんでもの中に昔のスターのブロマイド。掲句が作られたのは昭和六十一年。嵐寛が死んだのは五十五年で亨年七十二歳だが、そのブロマイドには颯爽とした嵐寛がいるはずである。当り役「鞍馬天狗(のおじさん)」の姿が浮かんだりする。

そんな風に説明すると物悲しいようだが、庶民的なぼろ市の賑わいや嵐寛の持つ温みから、可笑し味のある句。「あらアラカンじゃない」と懐かしいものに出会った瞬間が切り取られている。

ながなが書いたのは、掲句の持つ味わいを少しでも伝えたいから。書かれた時の書き手と読み手にあった了解は失われていくしかないことが多々ある。それはそれでいいんじゃないかと思うと、説明は蛇足かもしれない。

芭蕉の「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」も教わってなるほどと納得はするが、当時「竹斎」と聞けば誰もが了解できたはずの、その了解のほんとうの中身、聞いたとたんに伝わる面白さは実感することができない。

スピード感の話なら時代が変わっても作句法として語れるが、俳句は技法と素材が混然一体となって、瞬時に伝わるのが魅力。連歌は、連衆が和歌の素養はもちろん、諸々含めて素材となる多くを共有しているという前提で成り立っており、連歌から生まれた俳句もまた、読み手を信じて書くしかないところがある。掲句の実になんでもない景が作品であるというのも、読み手の側の瞬時に働く連想力、想像力あってこそだろう。

だからといって、俳句に使用してはいけない言葉(素材)があるとは考えないが、一方に、読み手に伝わり難い新語とか略語は使うべきではないという意見もある。最近は、三歳違うと世代ギャップがあるとか聞かされるし、溢れる情報は総オタク化というか、マニアックになる環境が整っているしで、私などネット検索に頼らないとわからない句も少なくない。すべての作品がわかるわけもないが。

晴子の俳論は常に実作者の立場から語られる。―自伝風にーとサブタイトルを付けた「わが俳句詩論」で、「自分の方法を見出すのに、私ぐらい時代の落差を利用したケースは少いのではないか」「私の育った時代を裏切るのも、次の時代に乗るのも、割合しぜんであった。しぜんであるということは、方法意識より、まず先に作品がムズムズしてくるということである」〔※2〕といっている。ここでいわれるのは、論理とか理念とか、晴子に従えば「言葉の秩序」の時代性ということであるが、なによりも「作品がムズムズしてくる」のだというところに納得する。

『八頭』『寒晴』に感じる作風の変化は、意図的というより、俳句形式に身を委ねたた結果「しぜんに」という方が当たっているようだ。「ホトトギスの人たちが、自然の事物を相手にしているのと同じ作業を、私は言葉を相手にしてやってきたことに気づく〔※3〕という頃から、変化の芽生えは始まっていたのかもしれない。

〔※1〕『12の現代俳人論』「飯島晴子論 ―アナーキーな狩人―」二〇〇五年
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 「わが俳句詩論」『俳句研究』一九七七年五月
〔※3〕『飯島晴子読本』収録 「写生と言葉」『青』一九七五年八月

2014-03-30

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 19 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 19 〕


小林苑を


『里』2012年4月号より転載

凍蝶の天与の朱を失はず   『寒晴』

結社体験のない私には、人から話を聞いて想像するしかないのだけれど、先のシンポジウムでも結社が話題になった。最近は結社に属さない若い俳人も多いというのもあって、ホトトギス以来の結社で育つことの意義があらためて問われているのかもしれない。結社に限ったことではなく、組織と言うものは、小さいにせよ面倒はある。主宰がいて、よくわからないが年功序列か、上手い下手によるのか、暗黙にせよ上下関係が成立すれば、自由にものを言うのは難しくなる。そもそも勝手と自由の区別は難しい。

インターネット上で『spica』十一月に毎日連載された矢口晃「モノローグ」〔※1〕は、矢口が「鷹」に在籍していた十代から二十代の体験をタイトル通り独白するスタイルで、師である藤田湘子への思いを吐露して話題になった。ここからだけで「鷹」の雰囲気を推し量ることはできないが、晴子はどうだったのだろうと思ったりした。

そんなことを考えていたら、先月号の「里」で、森泉理文さんが小澤實論で結社のことを書き、島田牙城さんがまえがき(吾亦庵記録でもかな)爽波の「青」にいた時代に触れていた。湘子自身が「馬酔木」を飛び出したときも、小澤が「鷹」を離れたときも、事情はそれぞれあるにしても、師との相克があり、自身の俳句観に自負を抱き、自由に羽ばたきたいということではある。当然、新たな結社に集う人々もまた同じ思いがあるはずだ。飛びだされる方にしたら、反逆ということか。分派というのは、ひとつには経済基盤の問題もはらむだろう。

牙城さんは「『青』は爽波さんの主宰誌なのだから、主宰・選者と會員会には師弟關係が生まれるといふのが一般的な味方なのだろうけど」〔※2〕そうではなかったのだという。それがある時期から変化した。主宰がどのような人柄であれ、組織は時間とともに変わる。

組織・団体の発足のメンバーには同志意識があるものだ。新しいことを始めようと言う気概に満ちた勢いのある時期は、個々のメンバーが思いを共有している。意見を戦わすことも組織の勢いを加速する。

ここで結社の是非を問うつもりはないし、言えるほど知ってもいない。ただ、晴子について言えば、「鷹」の発足メンバーであり、年齢的にも、湘子より十歳年上。俳句の先達として湘子を敬したではあろうが、湘子も一目置くという、師弟というのとは違った関係であり、いろいろな意味で「鷹」の土台を支える一人であったのだろうことが窺われる。

小林貴子は「『鷹』に自由な活躍の場が与えられ、句の詠み方に制約がなかったことが、晴子のさまざまな試行を可能にした」〔※3〕と書いている。

自由に結社の外の人びとと交流し、自身の思うところへと歩みを進める。晴子には若書きという時代がないのだから、誰もが最初から晴子の立位置にいられるわけではないだろう。だとしても、師を超え自分の句を志向するのは、主宰のありようではなく、己の力量の問題だと、晴子ならそんな風に言うのかもしれない。

掲句、寒の厳しさの中で震える凍蝶であればこそ、その朱が映える。なんだか思い入れしたくなる句だ。

季語だけではないが、とくに季語の意味とイメージは俳句をやらないとわからないことが多い。俳句を始める前は冬の蝶と凍蝶の違いもよく知らなかった。凍蝶には冬の蝶にない痛みの感覚があるのだ。生きているのかもわからぬような褐色の蝶。その中に朱を発見する。俳句的発見などというが、この朱が「天与」であり、「失はず」と言い切るとき、晴子句になる。

『寒晴』には掲句の前に < 鯛焼の頭は君にわれは尾を > の微笑ましい句があり、すぐ後ろには < 凍蝶を過のごと瓶に飼ふ > がある。『寒晴』から平明になったといわれるが、この三句を並べて読むと、平明というより自在になったというべきか。句集名となった < 寒晴やあはれ舞子の背の高き > の独自な目線や「あはれ」と言いながらカラッとした印象にも、自在を感じる。

昭和六十年秋から平成元年までの句群。六十一年の四月に夫入院、六月に死去、晴子六十五歳。ここから老いを意識したように思う。山歩きを共にする友達のような夫婦であったようで、一人になったという思いは誰にも同じように訪うだろう。

六十一年の句。< 柩には甚平も入れてやりにけり > < 死者のため茹でたての蝦蛄手で喰らふ > < 芒剪る鋏の音も此岸かな > < 数へ日のすすきみみづくみみづく婆 > <身ほとりや濃き亡年の墓煙 >。

この年の一月から立川朝日カルチャー講師、共同通信社俳句時評担当、四月からは横浜読売文化センター講師等々、幾つもの仕事を引き受け、三月には「鷹」誌上で前年刊行の『八頭』特集が組まれ、翌年には『自解100句選』発刊と俳句作家としては脂の乗り切った時期でもある。


〔※1〕『spica』「モノローグ」
http://spica819.main.jp/tsukuru/tsukuru-yaguchikou〔※2〕『里』二〇一二年十一月号 
〔※3〕『12の現代俳人論』「飯島晴子論 ―アナーキーな狩人―」二〇〇五年

2014-03-16

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 18 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 18 〕


小林苑を


『里』2012年11月号より転載

茶の花に押しつけてあるオートバイ   『八頭』

話は脇道に逸れてばかりなのだが、最近、京都に二度行った。現代俳句協会青年部のシンポジウム『今、伝えたい俳句 残したい俳句 ・洛外沸騰』があり、紅葉真っ盛りの物見遊山も兼ねてではあるが、晴子の育った町を歩くきっかけが欲しかったのだ。

お洒落な店が増えて、京都の町はずいぶん変わった。それでも、路地に入れば、大正や昭和の初めもこのままであったろう佇まいが残っており、ハイカラな服を着た利発そうな少女が角を曲がってきそうな気がする。この古い都には、新奇なものを受け入れる懐の深さがあり、それは揺るぎのない自負からくるようだ。どんな路地にも東京の下町の雑駁さは見られず、少なくとも外向きは背筋を伸ばしてシャンとしている。

晴子が生まれたのは京都府冨野荘村だが、四歳から小学二年生頃まで、上京区寺町通広小路上ル中御霊町で育つ。中御霊町は御所の東側、現在の府立医大の辺り。古い町並みの続く静かな都の中心であったところだ。

寺町通に面した門を入ると玄関まで路地があり、秋口になると路地の石畳の両側は秋海棠で埋められた。二、三軒先は紫式部の邸跡とも伝えられる廬山寺であった。京都はどこへいっても歴史に出会う。向かいは萩で知られた梨木神社、その先は御所の御苑であった。〔※1〕

父親の仕事の不振で、御室仁和寺の近くに転居。裏には田圃が広がるところで、小学三、四年生を過ごす。ここでの自然との触れあいが、後に俳句に関わって生きたという。

勉強は放り出して野山をかけ廻った。仁和寺、龍安寺、妙心寺、兼好法師の双ヶ岡などを結んだ一帯が私の遊び場であった。〔※1〕

店と住居をひとつにすることになり、母親の教育熱もあって、中京区新椹木町へ、次に金閣寺の側へと引越をする。京都で育てば見慣れた光景ではあったろうが、どこに住んでも明暗のある家と四季の変化が常に晴子の周りにはあった。さらに、文化、慣習も京都ならではの歴史に連なっている。

私の育った京都というところは、土地伝来の美意識が日常生活のなかに働いていて…略…家の中は、思えばまさに歳時記的に運行されていた。」「いつも、外からの眺めが形として一定の秩序のなかにあるかどうかが問われる。〔※2〕

三月になればどんなに寒くても春で、着るものも春着にする。そうでなければヤボと言うことで美意識に反する。こうしたことに若い時は反抗心を抱いたという晴子。それが俳句と出会って、「季語を生かす」こと向き合ったとき、再び「あの寒い三月」の「あざやかな<春>のイメージ」が蘇る。

思えば私はまだ、あれほど確かな春に逢ってはいない。これから俳句の中で逢わねばならぬ春とはあの春」「季題とはもともと虚構の側のもの〔※2〕と言うのである。

自然を肌で感じ、よく見、よく知るほど、言葉は虚であり、人のイメージなのだと得心する。この言葉を駆使して、あらたな作品を作ろうとしていた晴子に写生句が増えてくる。写生とは、実なのかといえば、言葉をもって書かれた、それはやはり虚だ。

掲句、自句自解によれば、初冬の所沢辺りを吟行したときのものだという〔※3〕。以前から茶の花垣の、刈り込まれて固くなった感じを句にしたいと思っていて、オートバイが走るのを見たことから一句になったと書いている

だから垣に寄せてあるオートバイを見たわけではない。見てはいないが、光景を思い浮かべてできた写生の一句である。けれども、この句も虚であるのは、見たか否かではい。読み手が受け取るのが、目に浮かぶ姿形だけではなく、そのイメージ、感覚だということだ。

冬の冷気の中に茶の花の垣根がある。その垣にオートバイが「押しつけてある」というのだから、そこには人が介在し、それも少しの強引さがある。茶の花垣という昔からの強靱なものに、オートバイという新しい頑丈そうな動的なものが取り合わされて、それは、よくある、なんでもない、けれども微かな違和のある光景となる。

晴子のことを考えながら京都を歩いていると、掲句がこの町にこそ相応しい気がしてくる。

シンポジウムでは、若いシンポジスト四名が、こういう人にはという条件付きで伝えたい俳句、また残したい俳句を挙げるという資料が配付され、それを巡っての討論もあった。四人で約八十句ほど挙げ、そのうち晴子の句が三句あり、晴子句の存在感を思った。

脇道に逸れついでに、先日、森光子が死んで連日テレビで生前の舞台や番組が流れていた。晴子は森光子と小学校の同級生だった〔※4〕と書いている。九十歳を過ぎているとは思えぬ華やぎで人前に出る森光子を見ていると、庶民派のおかみさんを演じていたけれど、やはり京女だなと感じる。晴子もキリっと粧わなければ自分を許せない人だったのだろう。


〔※1〕『葛の花』「私の住んだ家」二〇〇三年
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 「再会」『鷹』一九七三年 
〔※3〕『飯島晴子読本』収録 「自句自解」『自解一〇〇句選・飯島晴子集』一九八七年
〔※4〕『飯島晴子読本』収録 「雛」『鷹』一九八一年

2014-03-02

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 17 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 17 〕


小林苑を


『里』2012年10月号より転載

八頭いづこより刃を入るるとも   『八頭』

前回の肌脱ぎの祖母の句については、阿部完市の「飯島晴子の俳句」とともに、『飯島晴子読本』の同じ章で仁平勝が「肌脱ぎの祖母」というタイトルで晴子の句と思い出を書いている〔※1〕

担当していた日経新聞のエッセイ欄でこの句を取り上げたことがきっかけで晴子から手紙が来たと始まり、この祖母は晴子の母方の曾祖母がモデルで、母親から聞かされた話から醸成されたイメージの祖母なのだと語っている。

そこから、仁平は、 < これ着ると梟が啼くめくら縞 「蕨手」>  < 鴬に蔵をつめたくしておかむ 「春の蔵」>  の二句を挙げて、「これらの句は、けっして現実的な風景ではなく、先の「肌脱ぎの祖母」と同じように、作者の脳裏で醸成されてきたイメージにほかならない。…略…『めくら縞』や『蔵』はそれぞれ作者の脳裏に『私の予定出来ない、私の未知の世界』〔※2〕として眠っていた。それは『肌脱ぎの祖母』と同じように、母親から聞かされる話のなかで、いつのまにか童話の世界と融合していたにちがいない。その融合した世界から『梟』や『鴬』を引き出してきて、俳句形式の場でそれらを組み合わせてみせた」という。

晴子句の物語性について、このように書かれると、まだ梟が啼くのを耳にし、ひんやりとした土蔵が身近にあった時代に、大人たちから聞かされる昔話を頭の中でイメージを膨らませてゆくことが数少ない楽しみだったことを思いだす。仁平と同時代の私にとってもそうだった。母世代である晴子なら尚更であろう。

もちろん、言葉にまつわるイメージは、個々の作家のそれぞれの体験から「醸成」されるので、仁平の「母親から聞かされた昔話」云々は、それだけに限定しているわけではないだろうが、幼いころから聞かされた物語、読んだ話、見ていた光景等が、晴子がひとつの言葉を凝視するときに引き出されて来るのだ。それは作品となって読み手に手渡され、新たな物語が始まる。

句集名となった掲句、これもよく知られた句だ。句意は、名も形もごつごつたくさんの頭がある八頭だけれど、どこから刃を入れようと八頭は八頭なのだ、とでも言えばいいのだろうか。それではちっとも面白くはない。一寸した機智、駄洒落のような仕立の句である。

だからといって、とくに深読みをすることはない。それだけの句なのだ。

にもかかわらず、掲句には読み手を惹きつける力がある。すっと読み下せるリズムの良さ、「入るるとも」のあとの余韻。

接続助詞「とも」は「~かもしれないが、それでも」である。読み手はあとに続く言葉を待って取り残される。この余韻の響かせ方の巧さは晴子句の技のひとつである。俳句は「眼玉目の直径」〔※3〕という一七文字が十分に効果を発揮するように置かれている。余韻は、想像力を掻きたてる。表現したもの以上の物語へと誘う。

梟や鴬の句ほどにはイメージを膨らませることはできないが、やはり晴子らしい表現が生きたとき句に力が生じるのだ。『八頭』以降の句集にも同じような印象を持つ。

小林貴子の「飯島晴子論 ―アナーキーな狩人― 」〔※4〕は、時代を追いつつ丁寧に晴子の方法を読み解いて圧巻だ。読んでいると、もうなにも言わなくてもいいなと思ったりする。

その中で、小林が、『八頭』にある肌ぬぎの祖母や八頭の句、さらに < 軽暖や写楽十枚ずいと見て >  < 金屛風なんとすばやくたたむこと > 等で、晴子が歌舞伎役者のように見得を切っているといっているのが楽しい。気力体力の充実期だとも。

そして、八頭の句について、「容易に、出雲神話の八岐大蛇が想起される」という。確かに「いづこより」という大仰な言い方から八頭はまるで大きな怪物でもあるようだ。

ただ、この箇所には一寸違和感がある。人それぞれなのだけれど、私には八岐大蛇は浮かばない。それではつまらない。そうではなくて、八頭という言葉の喚起するイメージそのものを味わいたいと思う。それが読み手に委ねられているからこそ、視覚だけではなく全身で感じる、それこそが言葉により可能なことなのではないか。「母親から聞かされた昔話」という、語り聞かせのエキスみたいなものだ。

ひとつの言葉から物語世界を浮遊してゆく、「言葉の海を何の目算もなくー略―言葉たちはしぜんに離れるものは離れ、くっつくものはくっつき、また、遠くから言葉をよびよせなどして」〔※5〕というのは、つまり空蝉を吹きくらすことかもしれない。そして、空蝉を吹きくらすなんてこと男はするだろうかと考える。もちろん男も女も空想世界へ彷徨うのだけれど、晴子の彷徨っていくところはいつも女しか知らない場所のような気がしてならない。


〔※1〕『飯島晴子読本』収録 「肌脱ぎの祖母」
〔※2〕〔※3〕〔※5〕『飯島晴子読本』収録 「言葉の現われるとき」 
〔※4〕『12の現代俳人論』(上)収録。同書上下巻は月刊『俳句』二〇〇三月号~二〇〇五年二月号の連載に加筆して二〇〇五年に単行本化。

2014-02-16

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 16 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 16 〕


小林苑を


『里』2012年8月号より転載(加筆)

いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは
   『八頭』

第三句集『春の蔵』は昭和五十五年、掲句を含む第四句集『八頭』は五年後の昭和六十年に上梓されている。前衛的で難解な晴子句が平明な表現に変わる境目の時期といってよいだろう。突然に変化したというより、第一句集から始まる「言葉を独り歩きさせて、私はその後からついていく」〔※1〕「俳句の言葉となり得る言葉が現われる」〔※2〕という方法による、ときにはその意志が句を息苦しくしてしまうような作品から、次第に、自然体で呼吸するような作品になっていく。「私が言葉について得たカギは、ホトトギス俳句にも当てはまるのである」〔※3〕と述べるように、俳句観の変化、あるいは広がりもあっただろうし、加齢により自然と力も抜けていったのだろう。

言葉を独り歩きさせる方法を晴子が選ぶのは、さまざまな出会いや時代の中からではあるが、既存の言葉に絡みついてくる湿気を拒否する方法が、晴子という人に備わった気質に見合っていたのだと思う。晴子の文章、のみならず生き方に接すると、実にポジティブなのだ。

俳句における出会いの中でも生涯の友とでもいうべき、アベカンこと阿部完市とは、昭和五十二年には一緒に『現代俳句ノ―ト』を出し、これは三号まで続いた。また、たびたび吟行を共にする、気ごころの知れた間柄だったようだ。七歳年下というのも、姉弟ほどの気安さが生まれるのにいい違いだな、などと思う。「紅葉の岸をともに」したりもあったんじゃないかと穿ってみたりする。

相通じるところがあったのは、ひとつには都会人同士ということがある。阿部は一九二八年、東京の牛込区生まれ。東京と京都は違った風土ではあるけれど、都会には土着にならない乾燥した空気がある。

また、その生き方も、前向きだ。『第一句集を語る』を読むと、親や弟の面倒も引き受けていくのだが、それをサラッと語っている。艱難辛苦なんで恥ずかしくって言えるか、というのかもしれない。

もちろん、その第一句集『無帽』から、自ら「(俳壇的に言えば)、『絵本の空』のほうが私にとって第一句集と言えるかな」〔※4〕と言う < ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん > へと大きく転じたことを考えると、晴子が句集刊行以前の句をすべ捨てたということと重なる。両者とも言葉から俳句を作ることを選びとった。

その阿部完市は晴子を「最高の<言葉使い>のひとり」と呼び、「意志的で、人間の勁さというものを充分に私などにみせていた」〔※5〕と言う。『飯島晴子読本』に寄せられた一文であり、< 豆ごときでは出て行かぬ欝の鬼  「儚々」> をあげて、その「飯島さんにこの一句があって、私にはまことに意外であり、また悲しい」と続くのだが、この句にも出て行かない欝の鬼を冷静に見つめているようなところがある。

そんなことを思いながら掲句を読む。

肌ぬぎというのは、暑い季節に、着物をはだけ上半身を脱いで肌を出して涼もうとすることで、くだけた格好だ。はしたないから女性は普通人前ではしないが、とくに年寄りなら、家や身近な人の中では珍しいことでもない。

それでも「暑い、暑い」と肌脱ぎして、パタパタと団扇で扇ぐというような感じは、人目なんか気にしないという様子が浮かんでくる。片肌脱ぎとか諸肌脱ぎとか言うと、ちょっと任侠っぽい、あるいはいなせな風情もあり、二階にいる肌ぬぎの祖母も、じめじめと愚痴をこぼしたりしない、一筋縄ではいかなそうな女性という印象を受ける。

その祖母が「ゐるからは」である。だからどうなのかは謎のまま、謎は読者に手渡される。

祖母という存在から、さらに二階という場所からも、女系を思う。娘にとっての母、その母である祖母。自分に似た人として、母とは、疎ましく避けられないものだ。この血脈の象徴としての祖母が、頭の上の二階に (と言ってしまうと理屈になってしまうのでよくないが) 「ゐるからは」、のあとに続くものは、強くあらねばならないという、陰画をひっくり返した意志のようなものではないか。こころに潜む鬱などは間違っても見せてはなせらぬ、のである。言い換えれば、似たくなくても似てしまう、受け継がれる女の闇を強く意識しているということでもある。

たとえば < 綿虫や母の枕に石つめむ 「蕨手」>  < 餅搗が来るさえざえと母掠め 「蕨手」>  < 冬の母まつられ厚き舌をもつ 「朱田」> など、 初期の句集に出てくる母も厳しいもので、優しい柔らかな母は登場しない。< 桃の葉にひつそりとゐる伯母殺し 「朱田」> というのもある。これもまた、女系の暗闇を思わせる。

これらの句にも、しかし、湿度はない。何度も同じことを言っているけれど、それが晴子の句の魅力だ。言葉から生まれてる世界は乾いていて、後ろ向きではない。また、写生句となっていく頃には母の登場はなくなる。

< 初風呂を娘の家に貰ひけり 「平日」> この穏やかな句が遺句集にある。なんだか、ほっと胸を撫で下ろす。


〔※1〕『飯島晴子読本』収録 「わが俳句詩論―自伝風に」
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 「言葉の現われるとき」 
〔※3〕『飯島晴子読本』収録 「私の作句法/写生とは」『俳句四季』一九九三年八月
〔※4〕『第一句集を語る』二〇〇五年一〇刊 聞き手は櫂未知子
〔※5〕『飯島晴子読本』収録 「飯島晴子の俳句」

2014-02-09

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 15 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 15 〕


小林苑を


『里』2012年7月号より転載(加筆)

恋ともちがふ紅葉の岸をともにして
   『八頭』

木々の紅く燃える岸辺を男と女が二人で歩く、あるいは腰かける。フランス映画の一場面など想ってみると、いい雰囲気。「恋ともちがふ」の微妙な響き。恋と「は」では話にならない。そんなにハッキリ言いきってしまったら、雰囲気はぶち壊しになる。

恋のような、恋になるかもしれない、でも恋ではない、この瞬間にしかない関係は恋よりもトキメクかも。

岸というのは、日本人にとっては彼岸だと思えば、さらに幻想的な場面へと想像をふくらませることもできる。

この句ができたのは、山梨県の上野原だという。フランス映画のイメージとはかなり違って、日本の山村の代表のようなところだ。私の父も山梨県出身なので、あの辺りはハッキリと目に浮かぶ。山また山、深い谷と急流。鄙びた町並みは、いまも晴子が歩いた頃とあまり変わっていない。その上野原のさらに山奥にある阿寺沢を歩いたとき、案内した地元の若い俳人の佐々木碩夫が谷を覗き込んで「恋ぞつもりて淵となりぬるとはうまいことを言ったもんだなあ」と呟いた。家に戻ってから、それを手がかりにして作ったという〔※1〕

晴子はよく上野原へ出かけた。「わが家から一時間少々という近さと、景色や土地の人々の生活に歳時記的自然が残っていて、しかもそれが特殊でなく普通であるのが気に入ったからである」※2というので、佐々木宅にもよく立ち寄っていたいたようである。掲句にふれて「秋も深まると、谷々と清流は古典的気分を誘う〔※2〕」というのだから、冒頭の私の読みとはずいぶん違った景色になるのだが、晴子が阿寺沢を写し撮り、それを一句としたとき、そこはもう阿寺沢ではない。

この稿を書くのに何度も何度も捲っている『飯島晴子読本』を、企画編集したのが元「俳句」編集長の鈴木豊一。今年五月『俳句編集ノート』(石榴舎)で、第十二回山本健吉賞 ・評論部門を受賞している。この人が上野原出身なのだと、ブログ〔※3〕を見て知った。

鈴木はブログで、出会った数多くの俳人について書いており、今年の一月三十一日に「聡明と明と温もり ー飯島晴子―」をアップしている。少し引用が長くなる。

晴子没後、長女後藤素子の許諾のもと『飯島晴子読本』を企画編集した。これは楽しい仕事だった。―略― 俳句の写実と非写実について、直接聞いたり、俳論として読んだりしたことが、改めて通読すると、すべて腑に落ちて、快い読後感を味わうことができた。生涯を終えた人の偉業を鳥瞰することは、僥倖というほかない。/ この『読本』から、私は二冊の単行本をつくった。晴子生前の希望でもあったという『飯島晴子全句集』と、唯一のエッセイ集『葛の花』である。/『全句集』を通読して、前半のスリリングな句に比し、後半の平明への移行は、私にはやはり感情移入しやすく読める。平明は、老いへの自覚と無縁ではない」として、最後の二冊の句集から < 白髪の乾く早さよ小鳥来る 『儚々』> <気がつけば冥土に水を打つてゐし  『平日』> 等、十二句を挙げてこう語る。

これらの句も、一見、平明な写実風でありながら、非写実的二重構造は根底に流れている。/ 典型は、思索と実作のなかからしか生まれない。飯島晴子という典型の出現によって、現代俳句は新たな指標を与えられた。晴子による俳句変革は、その後の俳句の潮流を晴子以前と以後とに二分したといってよい」。

掲句を収めた『八頭』は、晴子自身が「誰にも言われるのは 「写実的になった」 ということである。〔※4〕」と書くように「前半のスリリングな句に比し、後半の平明への移行」の転換点と言われる。

タイトルになった < 八頭いづこより刃を入るるとも > をはじめ、< いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは > < 金屏風何とすばやくたたむこと > < 軽暖や写楽十枚ずいと見て > 等のよく知られた句群は、なにがなんだかわからない眩暈はなくなっているが、十分にスリリングである。入るる「とも」、ゐる「からは」、たたむ「こと」、ずいと「見て」、読み手を宙ぶらりんにする。『儚々』『平日』の平明へと向かうには、まだ間がある。

晴子はよく歩く。歩ける、ということがどんなに有難いことか、自信につながるか、ということを思う。

初冬の霧雨模様の夕暮れどきに晴子と碩夫のふたりが、山奥の村阿寺沢からの帰りみちということでわが家に立ち寄った。登山靴にアノラック、小ぶりのリュックサックという晴子の吟行スタイルは、俳壇のパーティーなどで見る華麗な姿とは別の、清楚な印象があった。ちょうど生垣の石を積みかえる工事中で、晴子は老石工の手もとをしばらく眺めていた。阿寺沢には碩夫の親戚があり、その家を案内したのだろう。阿寺沢から碩夫の家までは半端な距離ではない。晴子は当時五九歳。健脚はまだ衰えていなかった〔※5〕」。


〔※1〕『飯島晴子読本』収録 『自解一〇〇句選 飯島晴子集』一九八七年十二月 
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 『朝日新聞』「わが俳まくらー上野原―一九八九年十二月
〔※3〕石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 http://sekiryusha.blog28.fc2.com/?no=17
〔※4〕『葛の花』二〇〇三年七月刊・収録 『鷹』「『八頭』の頃」一九八六年三月
〔※5〕石榴舎ブログ 『俳句は自伝』

2014-01-26

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 14 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 14 〕


小林苑を


『里』2012年6月号より転載(加筆)

太股に肉戻りたる曼珠沙華
   『八頭』

昔、仕事で訪れた熊本県のある町の小さな食堂の一輪挿しに彼岸花が活けてあってギョッとした。どのテーブルにも一輪ずつ。彼岸花と書いても、曼珠沙華と書いても、あの世に咲いているようで、どこかあの世の匂いがする。死人花という呼称もあるくらいだ。それが活けてあるなんて。

彼岸花の別名、曼珠沙華は、めでたいことが起こる前兆として天上から降って来るという仏典が由来なのだというから、あの世といっても極楽で、誰もが不吉な印象を持つわけではないのかもしれない。

畦にも道端にもたくさん咲いていて、この辺りでは見慣れた日常的な花なのだと見直すと、どのテーブルにも一輪ずつの紅い花はいっそ清楚ですらあった。

掲句、太股、肉という文字に肉感的な生命力があり、曼珠沙華の赤がそれを補完する。前号で「女の業」と言ったのだけれど、この句にもそんなところがある。ふてぶてしいまでの蘇生力、この世のものではないところからくるエネルギー。たとえば鬼女に生まれ変わるような、そんな物語を思ったりもした。

晴子に『曼珠沙華』という随筆がある。< 曼珠沙華日はじりじりと襟を灼く 橋本多佳子 > を冒頭に置き、多佳子に曼珠沙華の句が多いと述べ、「彼女の熱い世界から見てもさもあろうことではあるが、もう一つのわけは、多佳子が夫を亡くしたのは、…(略)…丁度、この花の咲く頃であり、曼珠沙華は多佳子にとっては忌日の花であり、文字通り彼方の岸の花であった」と多佳子の話を軸に、この花への思いを書いている〔※1

彼岸に咲いてはいても多佳子の曼珠沙華が華麗であるのに対し、晴子のそれは、季節の変り目を実感させてくれる、触れてはいけない、そして「透明なイメージ」の花なのだという。「透明なイメージ」とは、触角や嗅覚の記憶のない、姿は確かに知っているのだが実体のないものということなのだろう。近づいたら消えてしまうかもしれない、というような。

晴子の句集には、掲句のほか、< 曼珠沙華瞳のならぶ川向う  『蕨手』>、揚句のつぎに置かれた < 川波の高ければこそ曼珠沙華 >、やはり二句並んでいる < 水勢に水勢に搦む曼珠沙華  『儚々』> < 今生の闇凜々と曼珠沙華  『同』> が収められている。紅梅、菫、山百合など、晴子句にたびたび登場する花たちに比して曼珠沙華の句はこれだけだ。それも、川や今生の闇の向こう、手の届かぬところに咲いている冷え冷えとした「透明なイメージ」としてのそれである。

掲句は様子が違う。自解もあり、「この年は別に体調が悪いわけでもないのにじりじり痩せてくるようで…(略)…毎朝浮かぬ気持で一日が始まるのであった。ところが或る朝、股を揃えると、少しではあるが(隙間ができていた)両股の間が狭まっているように見えた」ということで、ここから季節の区切りを感じ「又生きるか」と思う曼珠沙華の句になったというのだ。

太股に肉が戻るとはそういうことかと合点してみると、ずいぶん健康的な句ではないか。この句の曼珠沙華は彼岸に咲いているわけではなく、他の曼珠沙華の句に比べると身近に咲いて、秋の爽やかな風に揺れている。

では、最初の印象が消えてしまったかというと、そうでもない。この曼珠沙華には女ならではの強靭さが確かにある。しかし多佳子のような湿度はなくて、乾いている。それまでに橋本多佳子や三橋鷹女など、女の情念を露わに書くということが女流の方法としてあり、晴子世代まで来て、女性的なるものを突き放して書くことができるようになったのではないかという気がする。晴子はその先鋒であった。

『鑑賞・女性俳句の世界』全六巻には時系列に多くの女流俳人が論じられている。晴子論は宇多喜代子が担当し、飯島晴子という俳人をいきいきと描いてみせる。晴子の遅い出発に触れ「飯島晴子の俳句人生には『若げの至り』とか『若書き』という傍目にも見苦しいしくじりやスキあらば忍び込もうと思わせるスキや、馬鹿馬鹿しい無益な時間というものがないのだ〔※2と断じる。

女がどういう人生を選択しえたかは時代とともにある。遅い出発であったことも併せて、晴子は大きな時代の変化を体験して最初から自立しており、怨みごとや嘆き、甘えを捨て去って、俳句を造形したのだ。

随筆『曼珠沙華』は、< 曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ 山頭火 > < 肌のよき石にねむらん花の山 路通 > を並べ、次のように終わる。「どちらも、漂泊者の、はみ出し者のこころである。路通のさくらの方がおおらかなのは致し方ないが、山頭火の曼珠沙華も、ちょっと幻想的で、メルヘンの気分がどこかにあって、なかなかよいと思う」。

そうか、この曼珠沙華の気分、よくわかる。掲句を取り巻く空気は「透明」で明るい。明るいけれども、晴子がすっくと立っているのは、やはり紅い花の群生する「異世界」なのだ。


〔※1『飯島晴子読本』収録 『俳句とエッセイ』一九七六年十月
〔※2「一本の杭 飯島晴子」『鑑賞・女性俳句の世界』第四巻 二〇〇八年四月

2014-01-12

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 13 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 13 〕


小林苑を


『里』2012年5月号より転載(加筆)

ほんだはら潰し尽してからなら退く
   『平日』

立秋はとうに過ぎたのに、長い夏がまだ終わらない。

気が付くと、ぼんやり,というかぼーっとしている。< 白き蛾のゐる一隅へときどきゆく 『蕨手』> そうこんな感じ。部屋の隅にじっとしている白い蛾。気だるく、どこか不快な夏。

この句、ネット上の週刊誌『詩客』に取り上げられたもの〔※1〕。筆者の柴田千晶によれば、この蛾は、そんなぼーっとしたものではなくて、人の心に棲むもののけ(「異形のものたち」)だという。「白い蛾の居る一隅はだれの中にもある。その一隅を見ないまま過ごせてしまう人間と、見ずにはすませられない人間がいる。晴子はもちろん後者だ」。筆者自身が「独断と偏見にもほどがあるだろう、というものを書いてゆきたい」と書く連載であり、謂わば、思い切り深読みしようというのである(とても面白いので、ぜひ読んでください)。深読みとは、作品を読み手の物語へと変換する方法であろう。

俳句は深読みしてはいけない、といわれたことがある。書かれたままに、人生とか人間の在りようなんていう恥ずかしいものを重ねたりせずに、書かれているままを読めということだ。この句をそのまま読めば、どこかの隅、日の当たらない薄暗い場所に、だからこそ浮かび上がる白い蛾が見え、そこへゆく <私> がいる。それだけである。それだけで、確かに <私>もゆくなと思えたとき、この句が腑に落ちる。

たぶん、それが俳句だ。

その上で、どんな深読みもできるから、俳句なのだ。深読みは、腑に落ちたところから始まる。よくわからないからと深読みして辻褄を合わせてみても、その句が面白くなるわけではない。句を評するのに説明的だから駄目だなどと言われるが、それは端から辻褄が合っているからで、深読みするなと言いながら、深読みを誘う装置がほどこされていることが句に奥行きを与えるようなのだ。ただそれだけのことを詠んでいるのに心魅かれる句は、只事であること自体が装置として働いている句だ。たとえば虚子。< 流れ行く大根の葉の早さかな > には深読みすべきなにごともないのに、この句が腑に落ちたとき、大根の葉を見ている<私>の気分の前後にある時間が流れ始め、そこから人の無聊などに心を泳がせていくことができる。否、泳がせずとも、勝手に泳いで行ってしまうのだ。

晴子の句は次第に平明になり、最後の句集『平日』は読んで躓くことがない。すとんと落ちる。どの句もどの風景も、そのようであるしかないのだと感じるのは、私が歳をとったからかもしれない。その中で、掲句に立ち止まる。なんだか少し笑いたくなる。どこか意地を張っているような、駄々っ子めいたものを感じる。

ほんだわらは海草で、ヒジキの仲間らしい。長さは十数メートルにもなるのもあるということで、春の若布は食用になる。ぷちぷちしたものがついていて、よく育ち黒褐色になって流れる夏が季語である。

晴子は、「私の一句」〔※2〕というエッセイで、この句ができた句材捜しの志摩半島への旅のことを書いている。「フェリーの発着所には、ほんだわらが山と引き上げられていた。子供の頃海水浴で、ほんだわらの玉をつぶして遊んだことを思い出した」というから、晴子には懐かしいものだったようだ。「船を待つ間、私はしゃがんでほんだわらをつぶしていた」という。ぷちぷちしたものは潰したくなる。潰し始めると止まらなくなる。 

ほんだわらのことはそのくらいで、話のほとんどは出会った海女のことだ。海女小屋に入れて貰って隅の方に小さくなっていると、入ってきた一人の海女に「営業の)邪魔になるから出て行って」と言われたという。それも、サァ出ていけと言わんばかりに扉を開けて。退散した晴子はだんだん腹が立って来る。こんな扱いは受けたことがない、私の取材も営業なのだ、と苛々と考えを廻らせる。そして、「私が彼女に報復するには、お金を払って貰えるに足る俳句をつくることであると思うと、私の気も晴れた。…(略)… 帰宅してからの作句には身が入った。今はあの長身の海女も懐かしく思い出されるのである」と結ぶ。

最近読んだ岡井隆の『ぼくの交友録』〔※3〕には、この句のことが書いてあり、「さきに引用の句の『退く』という強い口調には、…(略)…(この)いきさつがかかっていた」というわけなのだ。

白い蛾のいる一隅にゆくことも、ほんだわらを潰し尽すことも、いかにも晴子だ。どちらにも女の凄みがある。晴子の句には、柴田が書く「人間の持つ業」というより、ぷるると寒気がするような「女の業」のようなものが立ち現れる。、どうも、それが晴子句の魅力で、これは句柄の変化とは関わりなく、最期まで晴子は晴子であった。


〔※1〕柴田千晶「黒い十人の女(一)」(『詩客』)
http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2012-07-25-9795.html 
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 『藍生』一九九九年三月
〔※3〕『ぼくの交友録』ながらみ書房 二〇〇五年八月

2013-11-17

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 12 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 12 〕


小林苑を


『里』2012年1月号より転載(加筆)

きつねのかみそり一人前と思ふなよ   『春の蔵』

ツイッターに『飯島晴子bot』というのがあって一日数句、時間をおいて一句ずつツイートされる。どなたがやっているのかは知らない。

例えば、十一月の或る日は、< 船の本と青紫蘇の葉をならべておく > < 鮎くさき手を茫々と与へけり > < 盆が来る家鴨のねむる夜の川 > < 鬼婆の帚草かよあをあをと > < 黒い眼帯してあつまれよ翡翠に > いずれも、どう解釈していいのか分からない。意味を追えばわかる句もあるが、それとてもそんな解釈でいいのかという気がしてくる。

俳句は解釈するものではないという意見もあるだろうが、言葉は解釈を迫ってくるものだ。意図的に拒絶する句だとしても、読み手は、理解の拒否という深い谷間を掻い潜って、なにがしかを了解しようとする。この了解なしには、共鳴・共感にたどり着くことができない。

もうひとつツイッターから。四ッ谷龍氏が「『自分がどうしてもやりたいと思ったことをやれ』飯島晴子さんから教わったことをひとことで言うなら、これに尽きる。晴子さんに会わなかったら、自分は今俳句を作っていなかっただろう」と語っている。

晴子は何をやりたかったのか。

俳句を始めてからの旺盛で積極的な活動を概観しておきたい。まさに水を得た魚のごとく、才があり、いろいろな意味で環境に恵まれ、決断の人でもある晴子は、俳句の可能性の海を力強く泳ぐ。

栗林浩『続・俳人探訪』(2009年2月・文學の森)に「飯島晴子探訪」がある。丁寧に俳人を追い、率直に自説を述べる潔く気持ちのよい著作だ。冒頭、晴子の俳句活動を簡潔かつ過不足なく紹介しているので引用する。
「昭和三十四年(一九五九)『馬酔木』の能村登四郎の藤沢の句会で俳句を始める。翌年、三十九歳で初投句し、一句入選した。次の句である。<一日の外套の重み妻に渡す > 」

「昭和三十九年(一九六四)四十三歳のとき、藤田湘子ら『馬酔木』若手同人で『鷹』が創刊され、晴子も同人として参加。< 谺が待つ山の郭公鳴き出すを >  晴子は彼女の出発点であったこれらの句を、第一句集を出す前(昭和四十二年ころ)に既に捨てている。」

「昭和四十四年(一九六九)四十八歳、『俳句』の中堅作家特集に磯貝碧蹄館・鷹羽狩行・鷲谷七菜子・友岡子郷とともに取り上げられる。その前後、藤田湘子の家で高柳重信の知遇を得たり、多くの座談会に倉橋羊村・平畑静塔・和田悟朗・折笠美秋・平井照敏らと出席したりする。終生の仲間阿部完市を得、金子兜太、永田耕衣を知り、多くの作家論を著し、引き続き座談会をこなす。その範囲は宗祇・世阿弥にも及び、俳句文学会の井本農一・松村友次らとも面識を持つ。阿部完市と書いた『現代俳句ノート』を持って飯田龍太を訪問したのは昭和五十二年 (一九六九)五十六歳であった。俳壇での知遇の広がりと著作活動の質と量は驚くばかりである。」
この間、あちこちを吟行し、句集を上梓する。

栗林は、第四句集『八頭』について、「(『春の蔵』から)一転して殆どが平明な句となり」「難解句は……これが不思議に二句しかない」と書き、以降(栗林を悩ます)難解句は第六句集『儚々』にある < かくれみのうしころしとて梅雨の樹々 >一句だけだという。

確かに、難解句は『春の蔵』までの句群と言って差し支えないだろう。それらの句はなぜ生まれたのか。この時期の活動の概略を知るだけで、三十九歳で俳句をはじめてからの積極的な姿勢を感じてもらえると思う。

俳句形式に魅了され、さらに俳句の側から愛される人がいると感じることがある。飯島晴子はそんなひとりだ。時代、経験、加齢、そうしたものを越えて、晴子句には凛とした空気がある。

掲句の「きつねのかみそり」はヒガンバナ科の草花で、本州から九州に生育し、お盆のころに、形は違うが、彼岸花と同じ紅い花を咲かす。花期には葉はないが、葉の形がカミソリに似ていることからこの名が付いたという。きっと晴子はこの名前に惹かれたのだろう。

花期から初秋の季語として分類されるのだろうが、句は季節を離れ、狐の登場する民話や剃刀という言葉にまつわる鋭利さから、「一人前と思ふなよ」と言う囁きに導かれる仕立てで、まさに剃刀を突き付けるような措辞が、民話絵本を読むような平仮名の連なりとともに置かれることで、いっそう場面の雰囲気が伝わってくる。一度読んだら忘れられない口承性も晴子だなァと感じる。

難解ではない、むしろ分かりやす過ぎるくらいの句ではあるが、晴子らしさが詰まっている。なにより、俳句形式により成り立っている句である。

前衛の方法に後押しされつつも、晴子句は抽象やシュールからは遠い。晴子は自らの内側にあって未だ言葉にならなかった、それ故に出会っていないものを見ようとしたのではないか。形式に出会い、その枠にはめ込むことで表出される民俗的心象。

この句は、晴子自身の自分を律しようとする、そうであらねばならない在りようなのだと、読み手の私は勝手に解釈する。

2013-10-27

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 11 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 11 〕


小林苑を


『里』2012年2月号より転載(加筆)

泉の底に一本の匙夏了る   『蕨手』

いまさらこの句とも思うが、晴子の出発点である掲句から、もう一度、晴子句を振り返ってみたい。
晴子が俳句をはじめた『馬酔木』に袂をわかって藤田湘子らが『鷹』を創刊。晴子も『鷹』の同人となる。その時代について、『鷹』のホームページ〔*1〕は次のように記している。 
 昭和三十九年 藤田湘子が中心と鳴って『鷹』を創刊。水原秋櫻子の下で湘子が編集長を務めていた『馬酔木』の底辺をひろげ、俳句の実作や批評を活発にすることが目的でした。
 昭和四十一年 飯島晴子が第一回鷹俳句賞を受賞。晴子はこれ以降、湘子とともに『鷹』を代表する作家として評論と作品においてめざましい活動をします。
 昭和四十三年 湘子が代表同人から主宰となります。有季定型の伝統俳句を踏まえつつ、柔軟に時代の空気を吸い俳句の可能性をひろげようとする『鷹』の歩みは、ここに本格的にはじまりました。(―略―)
 昭和四十六年 湘子が現代俳句協会に入会(のちに副会長を経て退会)。『鷹』の作品がもっとも前衛的傾向を強めた時代です。
『蕨手』は昭和四十七年の刊である。

湘子は「序」に「泉の句は、『鷹』がまだ創刊当初の混沌としたなかで、私に飯島晴子の名を印象づけた一句であった」として、次のように書く。「ここから飯島さんの新しい出発が見られるのではないか。そう漠然と思った。しかし今日のようなきびしい作家に成長することは、実は予測もしていなかった。いまふりかえってみると、俳句を告白の詩から認識の詩として自覚しはじめる過程に、当時の飯島さんはさしかかっていたのだと思う

その後の飯島さんは、急激に変貌の歩みをつづけた。作品が情緒と妥協することを、極力拒んだ。―略― ひたすら情緒という皮下脂肪を削ぎ落としていった。見えるものと対峙して眼をこらしていた飯島さんは、次第に、見えるものをとおして見えない世界へはいりこんでいった

晴子自身の自解もある。「(義兄の山荘の側に湿地があっり) 泉というのは、その湿地の縁に草のかぶさった水たまりである。しかしそこで一本の匙を見たのではない」「(家の近くに豆腐屋の) 前の道路に瓶の王冠が沢山埋め込まれているのが、いかにも晩夏の感じであった。机に坐って、豆腐屋の前の道路と、蓼科の高原の夏終わる気分とを思っているとこの句になったのである〔*2〕

思ったこと、いいたいことを書くのではない。見たことをそのまま書くのでもない。新たな景を作り上げること、そのための素材として、蓼科の水たまり、豆腐屋の前の王冠がある。それが晩夏の泉、底に沈んだ匙に変わるというのは、晴子の掴んだ作句法をよく伝えている。

『蕨手』は揚句からはじまり、< どこからとなく灯りだす雪の村 > < 鍋の耳ゆるみしのみが女の冬 > < わが才や焙る干鱈の塩漬ける > < 雪を来て光悦消息文暮色 > < ベトナム動乱キヤベツ一望着々捲く > < 梅雨の夜の勁き莨火とすれちがふ > < 旅客機閉す秋風のアラブ服が最後 > と続く。ここまで難解な句はなく、おそらく目にしたであろう景や物から物語を紡ぐ。

「やがて、俳句を認識の詩として確信したに違いない。そう思える一句に出あった。四十五年作の 一月の畳ひかりて鯉衰ふ である。この作品は、ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長したことを証明している。だがその当然の帰結として飯島さんは、言葉との果てしない格闘に身を委ねることとなった。作品として書かれた言葉のうしろに私は、そうした格闘によって流れ去った膨大な時間を知っている。それゆえに、「『蕨手』一巻は強烈な迫力で私をおびやかすのだ」。

評価の定まった句集について書いているのではなく、これから出る句集への序なのだ。湘子の書きぶりからは、時代の空気を感じる。『鷹』のホームページのいう「前衛的傾向」は俳句界全体の傾向でもあった。湘子をおびやかした句群は、見たものが言葉になっていくまでの時間は消され、新たな一瞬をつぎつぎと映し出しす。

どんな句が佳句かは意見が分かれ、時代を背負う。けれども、どんな句が好きかは、読み手の中にある。そして、誰もが、というのがいい過ぎなら、多くの人の心に残る句、好きになる句がある。掲句もそんな一句だろう。

透明な揺らぐでもない水を通して見える、銀色の小さな匙。その景だけで、ひややかで静かな空気が身体に沁み込む。そこに「夏了る」と置かれることで、晩夏の物悲しさが一気に押し寄せる。

風に秋の気配を感じると、いつも私は掲句を思い出し、水底の一本の匙を見つめる。


〔*1〕『鷹』ホームページ http://www.k4.dion.ne.jp/~takahaik 「鷹の歴史」
〔*2〕 『飯島晴子読本』「自句自解」

2013-07-21

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 10 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 10 〕


小林苑を


『里』2011年12月号より転載(加筆)

土用餅朝から深い風が吹く   『春の蔵』

いま、手元に晴子の第三句集『春の蔵』がある。句友の遠藤治さんから拝借したものだ。扉を開くと揚句が揮毫されている。遠藤さんはこの本を古本屋で入手されたらしい。写真で見たりするのとは違って、女らしい生真面目な文字に晴子の体温を感じる。頼まれて書いたのか、それとも自身で選んだのだろうか。

土用餅というのをこの句で初めて知った。関西では一般的なものなのかもしれない。土用の頃に食べるあんころ餅のことだそうで、これは盛夏の風なのだ。

季節がわかると、吹いてくる風を肌に感じる。

ネット検索して見たら、土用餅とはおはぎのようなもので、ケではないけれど、ハレと言うほどでもない菓子なのだろう。おはぎは「お彼岸だから、おはぎを作りましょうか」というように、買ってくるのではなく家で作るものだったし、お彼岸のものではあるけれど、気が向けばお彼岸でなくても作った。作るとなると、前の日に材料を準備したりして、当日はささやかな決意みたいなものが家中に漲るのだ。

掲句、餡の濃い小豆色があり季節がある。そして、外の明るさに比して薄暗い部屋、晴子のことを少しでも知っていると、京都の町家の台所などが浮かんでくる。この映像だけで古い映画の冒頭シーンのようだ。

冷房などない夏の空気というのはいつでも重たいが、それだけに風があると心地よい。「朝から」という措辞、そして強いのでも爽やかなのでもなく「深い」風といわれると、ひんやりと肌に触れる風が時間を孕む。土用餅と風、それだけの句であるが、慣習とか伝統とか、人の在りようまでをどこかで感じながら風に触れることになる。どうということのない夏の日でありながら、なにかが起こりそうな予感さえする。

晴子には七冊の句集がある〔※1〕。第一句集『蕨手』は鷹俳句叢書として鷹俳句会から刊行され、鷹の主宰・藤田湘子の序文があるが、著者による後記はない。第二句集からは後記が付されているが、いずれも実に短くあっさりしている。唯一、この『春の蔵』の後記には「先の句集とはすこしでもちがう景がひらけていれば、私としては望外のことであるが、どちらにしても歩き続けるよりない。『春の蔵』が、そういう私の、どうしようもなく横たわる一つの過程になっていてほしいと思う」とあって興味深い。

いずれの句集も並びはすべて年代順。ああだこうだはいらない、句がすべてだと言わんばかりだ。

第二句集『朱田』から第四句集『八頭』までは永田書房から、第五句集『寒晴』を木阿弥書店、第六句集『儚々』を角川書店の今日の俳句叢書Ⅰとして上梓、そして一人娘の後藤素子が「母に生前より頼まれておりました」と書いている遺句集『平日』が角川書店から出版されている。

『飯島晴子読本』には奥坂まやによる「著書解題」があり、晴子句集の凡そを知ることができるのだけれど、実際にそれらの句集を手にとってみると、余計なもののない句集の姿から、晴子の俳句への姿勢が伝わってくる。装丁にそれぞれの版元や時代のセンスを感じるが、共通する特徴はないように感じた。版元に任せていたようにも思う。無論、勝手な想像であり、スタイリッシュな晴子だから拘ったのかもしれないけれど、このことも句がすべての印象を強くする。さらに、収められた句の句集ごとの違い、違うのだけれども晴子らしい句群。

『春の蔵』で簡潔にに述べていることは、晴子の作句の姿勢であると同時に、句集というものに対する思いのすべてであるようだ。「先の句集とはすこしでもちがう景がひらけていれば」、句集に収めることによって、句が手元を離れ、作者自身、次の過程を意識する。

先日「句集のゆくえ」のタイトルに惹かれ、現代俳句協会青年部の主催するシンポジオンに出かけた。ここで話された内容は、パソコンを開けば『週刊俳句』〔※2〕に詳しい。

実際になぜ句集を出すのか、どのような形で句集を出すかではなく、出すことによって作者にどんなことが起こったか、なにが変化したかを聞きたかった。これについて、昨年、第一句集『庭燎』を昨年上梓したばかりの中本真人が「結社誌に載るだけだった句が読まれることを実感した。ここからどんな句を書くのか」の思いを率直に語っていた。仲間内の反応以外を知る機会はなかなかない。それさえ難しいことだってある。

句集という形に限らないだろうが、ひとりの作者が自作と向き合う時間を持ち、それが作者を離れて「読まれる」ことで、ようやく俳句は作品となる。物書きであれば、同じ作品に留まることはできないだろう。けれども、それは困難な道程だ。どんなことにせよ、一度掴んだスタイルを変えるのは怖しい。評価され賞賛されたのならばなおさらだ。

晴子の句集を発刊順に読んでいくと、新たな句集を出すごとに階段を上るような、見つめる作者の目に映る景色が変わっていく様を一緒に体験する気がする。

時間が止まっているいるような古い民家に吹く深い風。変わらぬものと変わるもの、違うな、変えられるもの。掲句からそんなことを思う。


〔※1〕『蕨手』一九七二年刊 一九六九―七一年の三〇二句収録、『朱田』一九七六年刊 一九七二―七六年の二八四句収録、『春の蔵』一九八〇年刊 一九七六―七九年の二七一句収録、『八頭』一九八五年刊 一九八〇―八五年の三四三句収録、『寒晴』一九九〇年刊 一九八五ー八九年の三〇三句収録、『儚々』一九九六年刊 一九九〇-―九五年の三三八句収録、『平日』二〇〇八年刊 一九九六―二〇〇七年の四二五句収録
〔※2〕週刊俳句 二五七号「遺句集じゃダメなんですか」西原天気
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/03/blog-post_537.html
同二五八号「なぜ句集なのか」関悦史
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/04/61.html

2013-03-03

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 9 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 9 〕


小林苑を


『里』2011年10月号より転載

月光の象番にならぬかといふ   『春の蔵』

前回、「見る人」のことを書いた。

永嶋靖子の『秋のひかりに』〔※1〕の中で掲句に触れている箇所がある。
東京、井の頭自然文化園にある象舎がモデル。自解によると、夜半机に向かって象舎の景を想起していてポロッと出来たという。バケツを提げた平凡な象番が月光という言葉を得ることによって俄に神々しくさえ見えてくる不思議。『いふ』という主語の不明確な突然休止したような止め方が、句意に拡がりを与え、句柄を大きく高貴にしている。一に晴子の句作エネルギーの賜の作である。
「見る」から言葉へがよく伝わってくる。

見よう、見ようと目を凝らすと、眼前の実像は薄れてついには言葉だけとなり、そこから新たな言葉の光景が広がっていく。晴子句の特徴である物語性を思うと、場面と言い換えてもよいかもしれない。象舎を見つめていると、月光という美しく幻想的な白銀色の影が射してくる。そして何者かが「象番にならぬか」と問う。こんな芝居の一幕がありそうな、幽玄な場面。以前、< 蛍の夜老い放題に老いんとす > で触れたように、晴子はこんな見えざる者の声を聞く人だ。

晴子に限らず、こうした体験は誰にでもあるはず。ひとは密かに空想の羽を広げて、ここではないどこかへ飛んでいく。どこまで飛べるかだ。どこまで飛んで、それを言葉に置き換えることができるか、なのだ。

井の頭の小さな動物園の飼育係は消え去って、人間に飼われて伐採や運搬を黙々とこなす巨体の、一方でヒンドゥー教の神でもある「象」の番人が現われる。文脈だけ追えば現われるのではなくて、声が聞こえるだけなのだが、読み手には月の光が煌々と射すのが見え、浅黒い半裸の(きっとそうだ)象番の姿さえ見える。その神秘の世界がこちらへ来ないかと読み手を招く。

「『象番にならぬか』と言ったのは、象であろう。言われたような気がした、ということだ」と野口る理は書く。インターネットに若い女性俳人三人が立ち上げた『spica』の「よむ」という一句鑑賞〔※2〕でのこと。それも面白い。やけに象が大きくなったような気がする。

この句には異国趣味がある。異国趣味というと、 < わが末子立つ冬麗のギリシャの市場 > を思い出す人も多いのではないか。晴子はギリシャに行ったこともなかったし、子供は一人娘で、この句が「市場」という兼題で作られたというのはよく知られた話。これ等の句の背景には、晴子の生育環境や世代的な異国への憧れといったものがあるのだろうが、なによりも「市場」が、「象番」が、新たな景や物語を誘い出す。ここではないどこかの話のはじまり。

言葉が新たな景や物語を誘い出す過程に、作者の感性や作句法、つまり個性が現われる。俳句では兼題で作るということが当たり前に行われているが、そこでは最初から言葉が出発点になる。兼題という作り方には、同じ言葉から各人がなにを取り出して見せるか、色とりどりの布か、鳩か、というようなところがあって、そのゲーム性が俳句の愉しみのひとつだと思う。誰かが、思いもかけぬものを取り出してくれるのをわくわくして待ってもいる。

俳句は言葉遊びであると言ったら、反発を感じる向きもあるだろうが、遊びを広範に捉えれば文芸とは遊びだ。さまざまな意味を抱えた言葉たちを定型の枠に嵌めこむ、あるいは季語で縛る。縛りはきつければきついほど面白い。

では、言葉さえあれば句になるか。なるだろうが、躓きもする。なぜ躓くのか。なぜ「見る」のか。晴子にとっては「見る」ことがどうしても必要だったという。このことを思うとき、言葉とはなにかという大命題が立ちはだかる。大仰な言い方になってしまったが、十七文字という限られた語数で伝えられる(かもしれない)景や物語を紡ぐには、拠り所となる具象なしには迷路に入りこんでしまうということがよくある。ものの名前はどのような意匠を凝らしても目に見える。それ以外の言葉たちの指すものは実に頼りない。

『春の蔵』を開いて、目についた句を挙げてみる。< さきほどのひとは盥に冷えてをりぬ > < 春の蛇座敷のなかはわらひあう > < うたたねの泪大事に茄子の花 > 盥、春の蛇、茄子の花、これ等ははっきりと目に浮かぶ。この映像を頼りに、冷えているひと、わらいあう声、目尻の泪の感覚を味わうことで、句は五感に滲みてくる。

見ることで得た言葉には確かさがある。作者と読者を結ぶ手懸りとなる。それが俳句のすべてではないけれども、言葉に溺れてしまうと作品は危うくなる。

こんなことを思いながら難解な句が多いといわれる『春の蔵』を読むと、句が寄り添ってきてくれる。手懸りとなる言葉からイメージを膨らませて、それはもちろん、読み手であるこちらの側のものだけれども、読みに正解などなくていい。


〔※1〕「見ることからの出発」『秋のひかりにー俳句の現場―』紅書房 二〇〇年一〇月
〔※2〕『spica』http://spica819.main.jp/yomu/1839.html

2013-01-13

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 8 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 8 〕


小林苑を


『里』2011年9月号より転載

旅客機閉ざす秋風のアラブ服が最後   『蕨手』

八月半ばを過ぎて、待っていた一冊の本が届いた。

平石和美著『畳ひかりてー飯島晴子の風景―』〔※1〕である。「幡」に三年間にわたり連載されていたということで、出版されると知って楽しみにしていたのだ。平石は晴子の作句の現場を訪ね、その土地に自身が立って句を鑑賞するという方法で晴子を語る。

冒頭に置かれているのが揚句。作句の場である羽田空港の様子からロンドンのアラブ人の話、〈空港のロビー遍路杖突きをさめ〉の句へと話は展開し、高知空港の明るさ、土佐の気風に触れるのだが、ここで平石は、晴子の「見ることを面白がる資質」に着目し、「よく歩いてよく見た、晴子の足跡を辿りたい」と章を終える。

「見る人」と、永嶋靖子も晴子をそう呼ぶ。「鷹」にあって、晴子の傍で長く句作を続けてきた永嶋の俳論的エッセイ集『秋のひかりに』には数編の晴子論がある。いずれも、俳人・晴子を最もよく知る人のひとりとして、晴子句への深い洞察と愛情が溢れている。
「晴子の句作の原動力は、何よりも日常を踏み出して歩き、よく見る(見るに傍点)ことにあった。日常性よりの離脱は、俳句に限らずあらゆる詩作のエネルギーの一つであると私は思うけれども、ともあれ、晴子の句作衝動はまず吟行へと向かうのであり、仲間との吟行の他に、毎月最低一度の一人吟行を欠かすことはなかったのである。自身ではそれを儀式とか禊ぎとか称していたし、私共はよく『飯島さん、今月はもうお祓いを済まされましたか』と尋ねたものだ」〔※2〕

見るという行為が非日常への、言い換えれば言葉の世界への一歩なのだということを、この一文から教えられた思いがした。同時に、飯島晴子という人を身近に感じることができた。

晴子の自句自解〔※3〕によれば、揚句は、(いつものように一人吟行をしたときなのであろう)、羽田空港でブラスバンドの歓送を受けてアラブ服の人がタラップを上り機内に消えたのを「見た」ということである。さらに、翌日の新聞に「クエ―トの工業大臣の帰国が報じられていた」と結ぶ。

句が作られた昭和四十年頃の羽田空港は特別な場所だった。旅行と言ったら列車という時代で、飛行機は気軽に乗るものではなかった。

まして国際線は日常的ではない。いまならふらっと海外へ出かけ、また大勢の外国人がやっても来る。街で外国人に出会うことは珍しくもなんともない。それでもアラブ服は目立つのだから、当時の国際便の旅客機、そこに立つ中東の人には相当なインパクトがある。

実は、最初、この句を到着した旅客機だと思い込んでいた。乗客がつぎつぎとタラップを降り、最後にアラブ服が降りる。すべての乗客を降ろした旅客機がその後ろで扉を閉じたのだと。そんなにすぐに扉を閉めたりはしないでしょうと言われればそうなのだが、異国に降り立ちタラップの上で冷たい風に吹かれている、戸惑うような、それでいて睥睨するような眼差しの人を思った。

晴子読本で自句自解に出会ってエッとなった。この句を読むと、私には、中東の浅黒い光る目を持った男と纏っている白服が見える。そのアラブ服は秋の澄んだ風をはらんでいる。つまり、こちらを向いていた。私の誤読は、た語句の順序に関係しているのだろうが、もうひとつ、この句が持っている雰囲気がそう読ませたのではないかと感じる。なぜなら、そうではないのだと了解してなお、その背中は振り向こうとしている。

ネット上でよく知られた『新・増殖する歳時記』に清水哲男の掲句鑑賞(2001年10月17日)がある。
作者には一瞬彼の後戻りを期待する感じがあった。そういう意識がほとんどわけもなく働いたからこそ、この句ができた。「最後」というのは、当人の意志がどうであれ、どこかに逡巡の気を含んでいるように見えるものだ。そしてひとたび扉が閉められたからには、もはや彼はその白い服のままで、この異国で寒い季節を過ごさねばならない。否応はない。かつてこの句に阿部完市が寄せたコメントに『そのひとりの人の姿は、その内側の有心を仄みせていて、確かにまた飯島晴子その人のことである』とある。
クエートの工業大臣帰国の景なのだから、このアラブ服の人は清水の鑑賞のようにこれから寒い冬を過ごすわけではない。しかし、この句を清水はそう読んだ。寒そう、という体感がもののあわれを招くからだ。

俳句は短い。僅かな文字からさまざまなものを受け取る。読む人それぞれが、新たな思いを重ねる。清水の鑑賞は、「ああ、こんなことは書きたくもないがー略―飯島さんは、みずからの『旅客機』の扉をみずからの手で『閉じ』てしまわれたのであった」で終わる。つまり、自死した晴子という心象と重ね合わせずにはいられない、このとき「後戻りを期待する感じ」は読み手である清水の側にある。これもまた、読み手に委ねられた句の世界である。

秋風というさりげない季語は、アラブ服と組み合わされて古来から詠われてきた、極めて日本的なる風となって吹く。「旅客機閉ざす」のあと、「最後」という強い言い切りまでの長い措辞を一気に読ませることで、閉じられた扉に異国にあることで深くなる寂寞が残像として見えるのだ。


〔※1〕『畳ひかりてー飯島晴子の風景―』 ふらんす堂 二〇一一年八月
〔※2〕『秋のひかりにー俳句の現場―』 紅書房 二〇〇八年一〇月
〔※3〕『飯島晴子読本』収録。「自解一〇〇句選 飯島晴子集」一九八七年再掲
 

2012-10-07

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 7 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 7 〕


小林苑を


『里』2011年8月号より転載

木槿夕雨こんなところに赤ん坊
  飯島晴子『春の蔵』

我が家の木槿はようやく花芽がついたところだ。六月の雨は鬱陶しいが、木槿が咲く頃の夕方の雨は爽やかな感じがする。サッと降ってくると、辺りがふいに翳り、雨の匂いに囲まれる。

俳句を始めた頃、通っていた講座では、毎週、講師の森田緑郎先生が佳句十句を選んでこられ、受講生に好きな句を講評させた。或る日の十句の中に、「こんなところに」という措辞の句があった。どんな句だったかは忘れてしまったが、「こんなところに○○○、という形は近頃よく見かける云々」と話されたことは印象に残っている。

そのときの話は、初心者の私にはすこぶる興味深かった。なんてことはない、「こんなところに」で七文字、季語で五文字を当てはめてしまえば、勝負は五文字の斡旋だなァ、なにか意外性のあるものを置けばいいのか、と安直に考えたのである。

コンピューターを使って俳句を作るという試みがある。登録した語彙がコンピューターによりランダムに組み合わされて句ができる。人間では思いつかないような組合せが面白い句を産むかもしれないというわけだ。五七五の定型がこんな試みを可能にするし、やってみたくなる所以でもある。こうしでできた句を読み取ろうとすると、つくづく人間は言葉の意味や文脈の呪縛から逃れられないものだと思うと同時に、それこそが言葉による表現の妙味だと気づかされる。

意味をなさないように思われる言葉の組合せから伝わってくるものを読み取ろうとするとき、読み手にねじれが起こる。快か不快か、どちらにしても常とは違う感覚に襲われる。逆にいえば、意味をなさないと思われる言葉の組合せから伝わるものがあるとき、それは作品として成立する。

「わが俳句詩論―自伝風に―」〔※1〕で、晴子は定型についてつぎのように述べる。
「五・七・五でつくられる世界がこれまでにきめた色合い、感触・雰囲気などなどと、どれだけ異質のものを現出することが出来るかというのが私の興味である」「五・七・五によって決められている世界を脱するのは、当たり前のことながら言葉の力によるしかない。今までから在る言葉の体系を五・七・五に乗せていたのでは、作品は今までから在る時空より出られない。言葉を定型に逢わすと、言葉はそこでさまざまの反応を見せる。単語と単語とをただ合わすより、単語と単語を定型において合わすほうが、要素が一つ加わるわけだから、より屈折した、複雑な反応の様相が得られる。…(略)…さまざまな反応の中から、別の体系を掴みだすことも可能なはずである」
別の体系を掴むとは、当時でいえば前衛的姿勢ということになるだろうが、晴子はなによりも自分自身の精神の問題なのだと語る。既成のあらねばならぬ自分から解き放たれたいと切望する。

定型という制限があることで、意味の体系から逃れ(晴子は「既成の本意を越える」という〔※2〕、放り出された十七文字。読み手は手懸りを与えられるだけ。そこから紡ぎ出せるものがあったとき、なにかを手にしたと感ずる。なにかとはずいぶん乱暴ないい方だが、そのなにかこそが作者のいわば主題なのであって、俳句形式に依ってはいても、それはさまざまななにかだ。ときには、作者を離れてなにかが生まれるかもしれない。

掲句に戻ろう。まず「木槿夕雨」と七文字の字余りで、「木槿」+「夕雨」はひとかたまりの言葉として飛び込んでくる。夏の盛りに、木槿は枝を張ってたっぷりと花をつける。そこに雨。映像的な場面設定である。第二回の「キャベツ」+「一望」第三回の「春」+「山火事」にも見られる助詞を省いた複合名詞とでもいうべきもの。絵画や写真よりも映画の一場面を思わせるのは、これらの中には時間があるからだろう。省略された助詞は読み手に僅かな時間を与えるし、字余りとは時間の長さでもある。

初心の頃といえば、俳句は一瞬を切り取るものと教えられるが、実作品においては必ずしもそうではない。掲句でも、むしろたっぷりと夕雨を見せたあとに、「こんなところに」と転じる。赤ん坊はごく普通に窓際のベッドなんかに寝かされているのだろうが、一句の中では、木槿夕雨という屋外の空気感にひたっていると突然、柔らかな無垢の存在が出現する。まるで赤ん坊が雨に打たれているようで、まさに「こんなところに」なのだ。同時に「こんなところに」は、それまでの空気感との断絶、ふいに立ち現れる現実への違和の表出でもある。

 私達は普段「こんなところに」と聞けば、「どんなところ?」と反応する。既成の体系にのっとって、ということだろう。一方で、俳句の中で語られれば、その違和感だけをすんなりと受け入れる。もう「こんなところに」が使い古されたあとに私達はいる。

ところで、「こんなところに○○○」の措辞は掲句が初出なのだろうか。一寸、調べただけでは前例を見つけられなかったが、気になる。これは宿題としておくことにしよう。


〔※1〕〔※2〕『飯島晴子読本』収録、『俳句研究』一九七七年

2012-08-12

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 6 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔6 〕


小林苑を


『里』2011年7月号より転載

かの后鏡攻めにてみまかれり
   『朱田』


后と鏡と言ったら白雪姫の物語。あのお后さまも鏡攻めで死んでしまったのだ。それにしても「鏡攻め」とは、ずいぶん怖ろしい名前ではないか。美しさという呪縛に囚われてしまったら「鏡よ、鏡」と問いかけずにはいられなくなる。現代なら拒食症とか過度な美容整形など、古今東西を問わない死に至る病なのだ。

美貌の后なら、たとえば、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ一世の皇后エリザベート。写真や肖像画で見るエリザベートはとんでもなく美しい。そし不幸だ。ただただ美しくあるために生きたこの人も、鏡攻めにてみまかった后のひとりだろう。

「かの」と言って想像力を喚起させ、どこか噂話めいた悪意をしのばせる。それは白雪姫のお后でもエリザベートでも楊貴妃でもいい。女性として最高位の、つまり他に望むもののなくなった、けれども本当に権力があるわけではない飾りものの「かの后」について、人はどんな噂をするだろう。死んじゃったんだって。太らないために、日に焼けないために、皺を隠すために、こんなことをしたらしい、あんなことも。
そして、噂から逃れるように哀れなとつぶやく声もするはずだ。

前号でも触れたように,神戸第一女学校を卒業した晴子は田中千代服装学院に入学する。服飾の途を選んだことは、手に職をつけるという自立の意志とともに、美に対する関心の高さをうかがわせる。『飯島晴子読本』のどの写真を見ても、お洒落な人だったのがわかる。娘達に乗せられてスタジャン買う話〔※1〕のような、女同士として、ちょっと嬉しくなる随筆もある。興味のある方はぜひ読んで下さい。
もちろん、職業人として外から美を評価する目も養われていったであろう。

そんな晴子の后への目線はシニカルではあるが、共感も含んでいる。自句自解〔※2〕では、作句の契機には触れず、女と鏡について語ったあと、「(かの)后も満足であったに違いない」と結ぶ。傍がどのように見ようと、あくまでも自己を貫き通し終えた、この「満足」に自解のすべてがある。

ところで、揚句を際立たせる「鏡攻め」という言葉は、どこから生まれたのだろう。兼題が鏡の句会だろうか。后かもしれない。それとも、句作のために、ただじっと暗闇をみつめていたときだろうか。想像をめぐらしてもわかるわけではないが、晴子は自身の作句法を次のように語っている。

「(俳句作者というものは)、いき当りばったりの手近の入口から何の予定もなく、とにかく入る」

そうそう、とにかく。俳句を作ればわかる。

「言葉がその中から現れる暗闇…(略)…を、何の資格も用意もなく突っ切って出口に出られるのは、(実績としては、出口らしい出口が見つかったと言える作品が成立することはまれではあるが)詩型の短さと、定型というカプセルの特権としか考えられない。暗闇の中で、定型の触手が全く偶然に触れた言葉を掴んだ瞬間、出口がパッと開く。…(略)… 俳句は、入口はもちろん、暗闇の中の足跡も全部消されて、突然、ただ出口だけが在るものとして在ることになる。そしてこの出口は、ここで何かが終わるのではなく、ここから一つの時空の始まる入口でもある。作品の向うに一つの世界が誘うように始まっていなければ、それは作品とはいえない。…」〔※3

揚句に感じる悲哀もまた、作品の向こうへ漂うときに生まれるのだろう。俳句とは、そういう詩型だ。

晴子が俳句を始めたのは昭和三十四年、揚句は四十九年の作。戦後、病弱な夫を洋裁の仕事で支え、子育てが一段落した頃、最初は夫の代理で「馬酔木」の句会に出たという。翌年「馬酔木」に参加、三十九年には藤田湘子の「鷹」の発足に同人として加わっている。人間探求派との決別である。
遅いスタートといわれる俳句との出会いの故に、ますます貪欲に、また理知的に、俳句と向き合ったのであろう。同時に、この十五年間の俳句界は実験的ともいえる俳句表現への挑戦が続いており、その渦中に晴子もいた。

この辺りのことは、「この二十年足らずの間を、私はずいぶん速く走ってきたような気がしている」と始まる「わが俳句詩論」〔※4〕によく書かれている(余談だが、ここを読むといつも < 初夢のなかをどんなに走つたやら > が浮かぶ)。

揚句は決して難解ではない。無季ではあるが、意味は明瞭で、「俳句で虚構の物語を書く( 小林貴子「飯島晴子論」)」 〔※5〕という晴子句の形のひとつである。伝統俳句の写生からはほど遠いが、連句の付句を思うと、言葉の呼び込む物語性は俳句がその成り立ちから負っている特質の一部でもある。

先般、彌榮浩樹が「1%の俳句」で『群像』の新人文学賞(評論部門)を取り話題になっている〔※6〕。論旨の是否は置く。読みはじめてまもなく「(真に優れた芸藝作品には本質的意味での前衛性、実験精神、難解さは必ずあるが) ことさら前衛・実験的な方向へ走ることとはまったく別である」のところで立ち止まった。「ことさら」か。これがどのような句群を指すかは次第に明らかになるのだが。

昭和五十五年、晴子は俳句の衰弱を憂い「だが」と、こんなことを言っている。俳句は、ホトトギスではなく秋櫻子・誓子の路線を選び、試行錯誤を繰り返し、表現様式の異る「いくばくか」の後世に残る句を生んだ。そうでなければ「俳句は退屈のあまり死んでしまっただろう」〔※7


※1『飯島晴子読本』収録「スタジャンと世阿弥」『現代俳句』一九八八年
※2「自句自解」 『自解100句選 飯島晴子集』一九八七年
※3「言葉の現れるとき」『文学』一九七六年
※4「わが俳句詩論―自伝風に―」『俳句研究』一九七七年
※5『12の現代俳人論』「飯島晴子論―アナーキーな狩人」二〇〇五年
※6『群像』二〇一一年六月号
※7『俳句』一九八〇年二月号