第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(下)
遠藤 治・さいばら天気
なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 ● 大石雄鬼「裸で寝る」7句 →読む
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上) →読む
四童=遠藤 治 天気=さいばら天気
※以下の対話は2007年8月17日深夜、チャット機能を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
天気::前回は、なかはられいこさんの7句について話しました。大石雄鬼さんの7句「裸で寝る」は、いかがでしたか?
四童::私が形式主義者なのか、俳句を読むチェックリストのようなものがあるのか、「切れ」の存在にそうとうどぎまぎします。
例えば、5句目の「銀 色 の 如 雨 露 が 自 閉 草 茂 る」、6句目の「大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る」を見たとき、この2句で、いちばん面白いのはどこかと考えると、「如 雨 露 が 自 閉 」だったり「痩 せ た 財 布 の よ う に い る」という措辞なわけです。ところが、そこに切れがあると、季語の「草 茂 る」や「大 花 火」は効いているでしょうか、という句会の議論みたいになり、せっかくの面白い措辞の、その肌触りのようなものが見えにくくなってしまうのです。切れを持たない2句目、3句目、4句目は、そういう窮屈さから自由です。特に4句目の「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」は、そうとう可笑しいです。
天気::はい、「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」はいいですねえ。5句目、6句目は、季語との切れで、おもしろくなっているかというと、なるほど、12音のおもしろさがとりたてて増幅されているいわけではない、という気もします。特に5句目の「草茂る」は、如雨露の舞台設定を説明するようで、かえって不思議じゃなくなっている。
でも、6句目の「大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る」の、この情けなさは、ちょっとイイです。「夏痩せ」の雄鬼さん、の異名をもつくらいの夏痩せ専門家である雄鬼さん、そしてまた、「ように」「ような」を多用する雄鬼さん、という予備知識をもって読むと(それは「いけない」読み方ではありますが)、この句は「雄鬼印」がはっきりと刻印された句です。
話題が別のところに行きました。「切れ」に戻しましょう。つまり、切れが、句のゆたかさ、おもしろさへと結びついていない。これは今回の個別の事情ではなく、俳句一般に敷衍できることなのではないか、ということでしょうか?
四童::前回の話題、「意味の宙づり」の話に関わってくると思うんです。「宙づり派」というものがあるとすれば、それは俳句形式に対しても冒険者であったほうが一般には面白いことになるのかも知れません。
天気::雄鬼さんの7句には、冒険的な句とそうでない句があるように思います。「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」は前者の最右翼。最初の2句、「川 べ り の 川 の 見 え ざ り 行 々 子」「エ ン ジ ン の 音 に 口 あ け 燕 の 子」などは、雄鬼さんにはめずらしく伝統的な脈絡にあると思いました。
四童::1句目の「「川べりの~」は、発句の作り方ですよね。
天気::そうです。川柳への挨拶のようにも読みました。「俳句ってのは、こんな感じなんですけど?」といった。
四童::はい。「川柳への挨拶」という読み方は共感します。
天気::発句と読めば、7句目「ペ ル セ ウ ス 座 流 星 群 や 裸 で 寝 る」は、挙句ではないけれど、大団円(終幕)っぽくて、1句として読むより、今回の連作の最後の句として読むほうが面白い。
四童::3句目「蝸 牛 の 肉 の 透 け い る 愛 が あ る」はちょっと俳句世界の季語の重力そのままで、「かたつむりつるめば肉に食ひ入るや 永田耕衣」「殻のうちししむら動く蝸牛 山口誓子」などと同じ文化圏にいるようです。それを俳句の強みと受け止めることも、可能といえば可能です。
ところで、「愛」というテーマが連作にどのような影を落としているのかが興味深いです。4句目の「愛の巣に~」を頂点として、5句目「銀色の~」以降はどんどん孤独な方向に向かい、7句目「ペルセウス~」など、裸で寝ているにもかかわらず、まったくエロチシズムが感じられない独特の世界を構築していると思います。
天気::おふたりとも、「愛」というテーマには慎重で、ベタ付けは避けたようです。
四童::もしテーマが「愛」だとひとことも触れなければ、一般論として同じ句群でもちがう読み方で語られると思うのです。「愛」だと触れられた瞬間に、5句目の「如雨露」にリビドーの抑鬱を感じたり、6句目「大花火~」、7句目「ペルセウス~」に男性的な性愛のむなしさを感じたりしてしまう…。もちろん、それらはそれぞれのことばが内在的に持つ意味のはたらきだけど、テーマを明示するのと、暗示として読者にゆだねるのと、どっちが面白いのかなあ、などとちょっと思いました。例えば、おふたりに同じテーマで詠んでもらいつつ、そのテーマは伏せるという発表の仕方もありなのかも知れません。
天気::それは、じつにそうかもしれませんね。楽屋裏は見せずに、読んでもらう。なるほど。今後の大きな参考にしましょう。今回のように、ダイレクトに迫れないようなテーマの場合は特に、そのほうが〈読む愉しみ〉が大きくなりそうです。
ところで、「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」は、ナニがいいんでしょうね? 魅力を語りましょうか。
四童::まず「愛の巣」というどうしようもなくチープな言葉を句に取り込んだことでしょう。それから「愛の巣」の次の「の」。これが大きく意味を混乱させています。愛の巣の中にパイナップルがあるのか、パイナップルが愛の巣そのものなのか、という混乱はそうとう刺激的です。その混乱をパイナップルの物質感が、いやが上にも増幅します。で「立っており」なわけです。これはシンボルであり、愛の国の国歌です。
天気::褒め尽くされましたね。私が付け加えることは、パイナップルが「昭和的に情けない」、そこがいい、アイロニカルな風味がある、ということくらいでしょうか。他に、雄鬼さんの7句に関して、何かありますか?
四童::「る」で終わる句が4句ありますねえ。いや、雄鬼さんの場合、ときどき頭の一音とか終りの一音とかを拾うと、意味のある単語がせりあがってくることがあり油断も隙もないのですが、今回はまだ気がつきません。
天気::末尾の文字を拾うと、子子るりるるる。
ところで、柳×俳、これで3回を数えたのですが、川柳と俳句の境界や差異といったものが、個人的には、ほとんどもう、どうでもよくなくなっています(もともと頓着はしなかったのですが、ますます)。私は俳句愛好者です。川柳の人たちからすれば、「川柳を知らないから、境界や差異がわからないのだ」と言われてしまいそうですが、どちらも、それぞれのレジェンドを活かしつつ、そこから自由な「ひとりの作り手」をめざした場合、それは川柳だろうが俳句だろうが、どっちでもいい、という感じになっていくような気がしています。
四童::同感です。(仮にそういうものがあるとして)ストロング・スタイルの俳人を目指しているわけではない私にとって、今回のような機会に触れる川柳の世界は、地続きにしてゆたかで楽しい世界に感じられます。「ひとりの作り手」として、この地続きな感じを大切にしたいと思います。
天気::うまくまとめますねw ストロング・スタイルの俳人。これはこれで興味深い設定です。多くの俳句愛好者(俳人)は、昭和の大俳人(老いていった、亡くなっていった)の幾人かに、ストロング・スタイルの俳人像を見ているのかもしれません。いまもなおストロング・スタイルをめざすという選択はあるわけですが、それだと、どこかいつかの俳句をなぞっているだけの退屈さが生じるような気もします。
言うなれば、むかしの教科書を見つめつづける姿勢から、すこしは顔を上げて、あるいは教室から外に出たて、新鮮な空気を吸ったほうが健康的だと思うことがあります。
遠藤さんがおっしゃる「地続き」の地平は、その意味で、きわめて爽快な場所かもしれません。そんなところでしょうか?
四童::はい。ありがとうございました。
天気::2回にわたり、お疲れ様でした。
( 了 )
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2007-08-26
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(下)
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