2007-08-05

週俳7月の俳句を読む(上)2/2

週俳7月の俳句を読む(上) 2/2

媚 庵 「三 汀」10句   →読む 菊田一平 「オペラグラス」10  →読む
田中亜美 「白 蝶」10句  →読む 鴇田智哉 「てがかり」10  →読む
佐山哲郎 「みづぐるま」10  →読む
寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句  →読む
村田 篠 「窓がある」10句  →読む 山口東人 「週 末」10  →読む
遠藤 治 「海の日」10  →読む



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鈴木茂雄



『週俳7月の俳句を読む』という思いもよらない機会を与えられたので、あらためて「俳句を読む」ということについて考えてみました。

「俳句を読む」という行為は、俳句が日本語で書かれてあるにもかかわらず、どこか外国語を一語一語読み解いて行く作業に似ているという思いが纏いつくのは、言葉が俳句という詩形に収められ嵌めこまれ、一篇の詩を完成させる目的をもって配列される過程において、この俳句という詩形に詩的関係を強いられたときに起こり得る収縮と膨張、さらには詩的分解と再構築、それらを繰り返した結果、俳句というこの言語空間の中で日常的な言葉から非日常的なコトバへと変貌するからだろう。

小説、とくに新聞や雑誌などの散文を読むとき、言葉は、上から下へ、あるいは左から右へと目で追う順に、まるで同時通訳をしてもらっているかのように頭の中に意味として入ってくる。そうしてその言葉は言葉本来が持つ意味を直ちに立ち上がらせ、共鳴して知覚させてくれる。だが、詩や俳句はまるで違う。

俳句は詩の言葉で成り立っている、そう思われがちだがじつはそうではない。俳句という詩形の屈折作用によって、フツーの言葉が少しだけ詩的に見えるに過ぎない。日常的なリズムから五・七・五という少し高揚した詩的リズムによってそう錯覚させられるのだ。読み手だけではなく書き手も惑わされるから厄介な話である。詩の女神などというが、俳句という詩形にはどうも魔女が棲んでいるらしい。

だが、問題の詩形に重層的なイメージの喚起力を持つ季語という言葉が加わり、他の日常的な言葉と詩的関係をもったとき、俳句という一行詩は、緊張と高揚をともなってさらなる詩的スパークとでもいうべき光彩を放ち、そして立ち上がる。俳句という詩形をわたしはそんなふうに考えている。

それゆえわたしが俳句を読み解くときは、まず理性より感覚に頼ることにしています。すうっと頭に意味が入ってくるときは用心することにしている。詩的スパークを発しているのかいないのか、頭だけではなく五感をフルに発揮して俳句を読むようにしています。前置きのほうが長くなってしまいそうですが、今回の「週刊俳句」第10号から第14号に掲載された俳句作品もそういう視点に立って読ませていただきました。


 年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子   媚庵

一句目は「年金を確かめに行く」という庶民にとっていま一番の関心事に取材、きわめて日常的な言葉「年金」と、「夏」も「帽子」も日常使う言葉だが、季語「夏帽子」という措辞はきわめて俳句的、非日常的なコトバと言ってもいいその「夏帽子」との詩的関係がこの一句の詩的面目を辛うじて保っている。なぜ「辛うじて」なのか。それはこの作品が詩でありながら、書かれた言葉の意味が散文のようにすうっと頭に入ってくるからである。


 豆 ご は ん 厨 揺 ら し て 噴 き 上 が る   菊田一平

「厨揺らして」という詩的誇張法を大胆に使って成功した見本のような作品だ。「豆ごはん」の美味さを「噴き上がる」という短い言葉で見事に言い尽くしている。この句にこれ以上の説明は不要だろう。
 

 帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑   田中亜美

この句の焦点は「位置」という言葉にある。ふつう「帆船」はその傾く形を「祈り」と捉えるところだが、この作者は自らをその「位置」に置いた。山口誓子の「炎天の遠き帆やわがこころの帆」が念頭にあってのこと、「夕薄暑」はその折の感慨に違いない。一句全体に作者の心象風景が色濃く漂う。


 蚊 の と ほ り 抜 け た る あ と の 背 中 か な   鴇田智哉

見事なレトリックだ。うすい胸板の女性、その背中を「蚊のとおり抜けたる」と喩えただけなのだが、もうそれだけでこの句は一行詩として成立している。そればかりではなく、この句は、石田あゆみ演ずる下町の女性が、暑い夏の夜をシュミーズ一枚という下着姿で凌ぐリアルな映画の一場面をも見る思いがする作品に仕上がっている。


 摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な   佐山哲郎

「摩訶」の次に来る言葉はというと、単純に「摩訶般若波羅蜜多心経」を連想してしまうが、あるいはそうかも知れないし、そうでないかも知れないところにこの一句の面白さがあって、実際、朝の食卓に着いた作者が「摩訶(マカ)ロニサラダ」を前に「いただきます」をしているポーズが目に浮かぶ。そして「朝から/からだ」が「バラバラ」で「だばら!」だと叫び、「薔薇」のように「あらは」だ、そう作者は言っているようにも思われる。しかも「朝からだ!」と強調さえしているのに気付いたときは思わず笑ってしまった。

言葉が内蔵する音や意味を少しずつズラシたりハズシたりして歌うような調子の作品だが、ちゃんと十七音に収まっていて、それなのにまるで短歌のように長く感じるから不思議な作品だ。不思議といえば、「摩訶不思議」なこの句、よく見ると隠し絵のように北原白秋の「薔薇ノ木ニ/薔薇ノ花咲ク。 ナニゴトノ不思議ナケレド。」という詩が見え隠れしているではないか。


 上掲の作品以外に印象に残った作品。

猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な   媚庵

ニ ッ ケ ル の 灰 皿 重 ね 太 宰 の 忌   菊田一平

い つ 逢 へ ば 河 い つ 逢 へ ば 天 の 川   田中亜美 

昨 日 か ら 昨 日 の ま ま の 蛇 苺   鴇田智哉

螢 ほ も よ ろ を 逢 瀬 の ど ん づ ま り   佐山哲郎

扇 風 機 売 り 場 か ら い ろ い ろ な 風   寺澤一雄

夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る   村田 篠

レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏   山口東人

焼 き そ ば を 重 ね 持 ち た る ビ キ ニ か な   遠藤 治



…………………………………………………………………ひらの こぼ


 ハ モ ニ カ に 息 の 音 あ り 夏 の 暮     村田 篠

フルートでもサックスでもそうですが、ハモニカはなかでも特に肉声に近いような。息遣いそのままというのが味ですね。

とはいうものの自分の生の声からは少し転調させてハモニカを吹く--。「夏の暮」がぴったりですね。アンニュイな気分の青春の句。「息の音」が技だなあと感心しました。


 少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト     遠藤 治

ふざけて少年がボートから落ちた--。これでは俳句になりませんが、それを「少年というものは~」と定義付けた。そこが俳味ですね。

ゴムボートということで想像する景の範囲も明快になります。いろいろ楽しませてもらえる句。


 扇 風 機 売 り 場 か ら い ろ い ろ な 風    寺澤一雄

前頭葉を通らぬまま出てきたひとり言のような句が50句並びました。ユニークです。優しくもないし、かといってシニカルでもない。もちろん気取っているわけでもない。ただ対象を眺めているだけ--。

俳句にちょっと食傷気味になっているときにこういう句に出会うとなんだかほっとします。通読して、カフカの城に迷い込んだような感覚を楽しませていただきました。

掲句もなにげない視線ですが、そこに感情を込めずに状況を示しただけ。でも写生句なんかじゃありません。不条理?達観?あるがままを受け入れるという潔さ?ともかく個性的な作風だなあと思います。


 豆 ご は ん 厨 揺 ら し て 噴 き 上 が る    菊田一平

「豆ごはん」に大見得を切らせた句。「俳句は季語が主役」。なるほどなあと感服しました。豆粒が大きな厨を揺らせたという感じもあっておもしろいです。


…………………………………………………………………五十嵐秀彦


今回、7月中に発表となった句を読んでいると、動物の句が気になったので、特別な思いがあるわけではないが、動物句に焦点を当てて思いつくまま駄文を綴らせてもらいたい。

媚庵「三汀」10句の中では、はたしてこれを動物句と呼んでいいのか疑問でもあったが、猫の句があった。

 猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な   媚庵

「猫町」というと朔太郎を思いだす。

散歩をしているうちに、これまで来たことのない町に入っていることに気づく。町は西日に黄色く染まっている。どうも人影がない。チラリと動く影をみつけると、それは路地に身を隠そうと駆け出した猫の尾であった。ああ、ここは猫町なのかもしれない。次元の幕を境にして、人間界と猫界とが表裏となっているのだ。いつの間にか私はその幕をくぐってしまったのだろう。猫たちは思いがけない闖入者に警戒しながらも、彼らの集会所である鎮守の杜へと駆け出していく。そんな猫町に紛れ込めたらいいのに、と思う作者だ。


 青 水 無 月 鯉 に 大 き な 鼻 の 穴    菊田一平

そうだよなぁ、鯉といえば大きな口にばかり眼が行くが、思えば鼻の穴も大きい。しまいに髭も生えていたりして、大層なご面相である。青水無月の頃、いのちが蠢く池に鯉の顔がぬっと現れていて、その鼻の穴の存在感になぜか戸惑ってしまうのだ。


 息 止 め て し ま へ ば き つ と 踏 ま れ ぬ 蟻   田中亜美

息を止めているのは、蟻かい、それとも作者かい。

蟻だろうよ。そうか、蟻も息をするのか。そりゃそうさ、口があるもの。でもさ、肺ってあるのか、蟻に。さてね。さっきもそこの砂場の脇で、三匹ほど潰されちゃったよ。息をしてたからな。そうだ、息をしていたんだ。だから気をつけろと言ったのに。しっ! 人が近づいてきたぞ。息をとめろよ、ご同輩。


 が が ん ぼ の ぐ ら つ き な が ら ゐ る ば か り   鴇田智哉

なんて大きなががんぼなんだ。なんて不器用な飛び方なんだ。長い脚を持て余す風情で壁に沿ってぶらりぶらりと浮いている。飛んでいるのではない。よくも失速せぬものだ。こいつは何をするつもりでここにいるのだろう。特徴、ぐらつくこと、それだけ。でも、ここにいるのである。まるで「いる」ことが彼の目的でもあるかのように。


 鯵 と し て 熱 く 激 し く 皮 膚 匂 ふ   佐山哲郎

マアジですかね。それを焼いている? 熱く激しく? なんだかそうではないようだ。「として」が曲者で、この三字でするりと転位している。いったい誰が鯵なんですか、この熱く激しく皮膚を匂わせている人は。この眼前に開きになってしまっている人は。

窓をもう少し開けてもいいかな。


 昆 虫 の 腹 は か く あ れ 蝉 の 腹    寺澤一雄

少年の日の夏休み。蝉の腹のくっきりとした強さが、まだ今も指に記憶となって残っている。全身が隅々まで頑健に出来ている蝉には造形美さえある。

街路樹の、ちょうど目の高さぐらいに蝉がしがみついていた。夏帽子を取るとそれを虫捕り網の代わりにして、すばやく捕まえた。どうだ、うまいもんだろ。

指で挟むようにつかむと、蝉の力が激しく手に伝わってくる。こいつはいつだって完璧だった。そうつぶやくと蝉を空に放った。ブンと空気を鳴らして蝉は一直線に少年の日へと飛んでいってしまった。


 信 号 を 待 つ て ゐ る 間 の 揚 羽 か な     村田 篠

信号を待っている。じりじりと暑い日だ。信号はいつまでたっても青にならない。怒る気力もなく待ち続けている。さっきまで隣に立っていた女子高生がいつのまにか居なくなってしまった。ああ、向こう側の歩道を歩いているじゃないか。いつ渡ったのか。

私だけが信号を待っている。この信号は青にはならないのだ。少なくとも私の前では。そういえば車も一台も通らない。

どこからか揚羽蝶がやってきて、私のまわりをぐるりと巡り、赤信号の横断歩道をひらりと越えてゆくのだ。ヨモツヒラサカの蝶が。


7月の句を最後まで読んでいくと、山口東人さんの「週末」と遠藤治さんの「海の日」には動物の句がなかった。私の着想はいつもこんな結末で、詰めが甘いのである。だから最後の2句は動物の句ではないので、お許しを。

 皓 皓 と 父 大 正 の 跣 足 か な    山口東人

私の父も大正生まれである。だから作者のお父様も80代であろう。その父がごろりと横になっている。素足が見える。足の裏が見える。思いのほかに白いのだった。それがいさぎよく見えたのだ。清らかに見えたのだ。いさぎよくない日々もあっただろう、清らかとは言えないこともあっただろう。けれど、今、父の足は皓皓としている。そのことが何かとても素晴らしいことのように思えてならないのだった。


 焼 き そ ば を 重 ね 持 ち た る ビ キ ニ か な    遠藤 治

ドキリともしない。もし街で、こんな格好で歩いていたらとんでもないことになるだろうに、こちらの心はまるで静かなものである。リゾートでもなく、プライベート・ビーチでもない。そんなコジャレたとこじゃなく、ありきたりな海水浴場の雑然とした砂浜での光景。あそこのしょぼくれた海の家で買ってきたのだろう。二人分の焼きそばを重ね持って、砂に足をとられながら胴長のビキニ姿の女がやってくる。

セクシーではないが、生々しい姿。ちょっと肌を焼きすぎてやいませんか、お嬢さん。

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