羽田野 令 愛と木綿豆腐の悲痛
や く そ く の 木 綿 豆 腐 を 持 っ た ま ま なかはられいこ
約束しているものが、日本中どこででも季節を問わず安価に手に入れることのできる木綿豆腐だという。そんな誰でも手に入れられるものならばずっと持っている必要もないようなものだし、他人から見れば馬鹿げていることだろう。ずっと持っているとボトボトと水が垂れてもくるにも関わらず「持ったまま」なのは、約束したからなのである。その約束を守るのは愛のためである。
川端茅舎に「約束の寒のつくしを煮てください」という句があるが、この「寒のつくし」の対極にあるものが木綿豆腐なのではないかと思う。「寒のつくし」というあり得ないものに悲痛さは極まっているが、人と人の約束のためにだけ、木綿豆腐を携えているというのもまた悲痛なことではないだろうか。愛というテーマの作品の中ではとてもよくわかる句である。
性 交 を 終 へ 蒼 朮 を 焚 く と こ ろ 中嶋憲武
「蒼朮(そうじゅつ)を焚く」は絶滅寸前の季語なのだそうである。蒼朮を調べてみると、オケラという植物の根を乾燥させたものに二種類あって、皮をとって乾燥させたものが白朮(びゃくじゅつ)、皮つきのまま乾燥させたのが蒼朮とある。京都には白朮詣(おけらまいり)という大晦日の行事もあるが、生薬は飲むだけではなく焚いてその煙の効用に浴したそうだ。蒼朮は、梅雨時に家の中で焚いて湿気をはらい鬱を散じるものだった。
「性交を終へ」た時間のなかへひとすじ薬草の煙がたちのぼり、燻りながら部屋に満ちてゆくのはなかなかいいものなのだろうと、白朮火(おけらび)を思い出して想像する。「性交を終へ」と情を排してまるで歯磨きでも終えたように書かれ、焚くことが丁度行われようとしているという一時点に焦点が合わされる。
斎藤茂吉『赤光』に地獄極楽図という十一首があって、例えばその三首目は、
赤き池にひとりぼつちの真裸(まはだか)のをんなの亡者(もうじや)の泣きゐるところ
という歌であるが、この十一首はどれも「ところ」で終わっている。それが絵を見ているような臨場感を誘うのだが、この句の「ところ」にもそれと同じようなものを感じた。
豚 肉 の 角 煮 に 似 た る 避 暑 の 町 さいばら天気
何が何に似ていると思うかは人に共通の部分と異なる部分がある。と書いてしまうと当たり前のことのようだが、自分の固有の経験なり感覚から一般には似ていないと思うものを似ていると思うことがある。豚肉の角煮、醤油とほどよい甘さとでよく煮込まれた豚の三枚肉。そのこってりとした旨味を特徴とするこの料理は涼しさからはほど遠い。避暑に行くという習慣がないので、映画に出てくるバカンスの町なんかを思うとそこに描かれる恋や別れも漠然と含んでしまうのだが、避暑の町と豚肉の角煮のどこが似ているのだろうか。
豚肉の角煮というあまり俳句に登場しない言葉にまず惹かれ、一読すぐ頷けるようなものでないものとの取り合わせを新鮮に思った。似ている理由ははっきりとは解らないが、避暑地には海や山の爽やかな空気のほかに、豚肉の角煮みたいなところもあるに違いないと思う。やはり都会人たちがうようよと居るのは、美味であると同時に脂っこいということなのか。疑問を残したまま面白いと思う句である。
縊 る 輪 を か な か な の こ ゑ く ぐ り け り 谷口智行
ブラックユーモアというのだろうか。秋竜山の漫画にありそうな景だ。山の朝、空は明るくてもまだ太陽が山の端にのぼっていないような時、鳴き始めるかなかなの声を思う。夜を思い詰めていた身にその声がふりかかりふと現実にかえる。かなかなの声だけを通してその輪は終わるはすだ。
津田このみ 空 蝉
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_2112.html
谷口智行 おんどれ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_26.html
中嶋憲武×さいばら天気 「一日十句」より31句×31句
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/3131.html
なかはられいこ 二秒後の空と犬
大石雄鬼 裸で寝る
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/77.html
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2007-09-02
羽田野令 愛と木綿豆腐の悲痛
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