2007-09-02

鈴木茂雄 惨劇とその被害者

鈴木茂雄 惨劇とその被害者


先月号に続いて書く機会を与えていただいたので、「俳句を読む」ということについて再び考えてみました。

わたしが俳句という詩形に魅力を感じるのは、まずその短さにある。その短さにもかかわらず、あるいはその短さゆえに持ち得た表現領域の広さと表現様式の多様さにある。

すぐれた俳句とは一体どんな俳句なのだろう、そんな思いを抱きながら俳句を読み、インターネット句会で選句をさせていただいている。これはいい、と、いわば直感的に俳句を選んでいるが、はたしてこんなことでいいのだろうか。どう読んだらいいのか。そう思いながらもじつはわたしの中では同時に二通りの読み方をしている。

誤解を恐れずに言うと、ひとつは玉石混交の山の中から珠玉の一句を見つけ出してはそれを美術骨董のたぐいのように愛でること。そのことをわたしなりに俳句鑑賞と呼んでいる。こちらの方はまさに勝手気まま自由奔放に読みかつ楽しんでいる。読書としての俳句の読み方である。

いまひとつの読み方、それは俳句を批評するという方法である。だが、それにあたっては、なにはさておきまず俳句という歴史の流れを十分に鳥瞰し得る位置に自分を置いて、なおかつ、自己の内部にその鳥瞰図をあらかじめ詳細に作り上げておく必要がある。なぜかというと、自分が選んだ作品が(実作者なら自身の作品が)はたして、先人の句に紛れず屹立しているか、しかも、大袈裟な物言いだが、俳句史上新たな一ページを切り開いたものであるかどうか、即座に判断を迫られるからである。俳句に限らず批評とは本来そうしたものだろう。選句をする際の俳句の読み方である。

だが、小説一編も一つのテキストなら俳句一句も一つのテキスト、その長さはテキストのステータスに関係しないからその困難さは想像に難くないだろう。そのことを知って以来、わたしはわたしが俳句について語ったことを間違っても批評と言わないようにしているが、そんなことを考えていたら自作を発表することも出来なければ、選句することもままにならないので、たとえそのときは未熟稚拙ではあっても覚悟の問題として、その折々の自己の技量の範囲内で俳句にむきあうことにしている。

意表を突いた新鮮な把握、これをクリアしている俳句がすぐれた句。シンプルだが、とりあえず、これがただいま現在のわたしの秀句観である。

  こ の 星 に 腰 か け て 大 花 火 か な   津田このみ

一読、意表を突いた作品であり、かつわたしにとってかなり好感度の高い魅力的な句には違いないが、この程度の意外性では現代俳句の読者は驚かない。だが、次の作品は違う。

  ま だ な に も 叩 い て ゐ な い 蠅 叩   さいばら天気

いま目の前に買って来たばかりの「蠅叩」がひとつあったとしよう。あったとしよう、では写生にならない、か。では、こうしよう。句会で出される「兼題」を想起してほしい。ここに「蠅叩」がひとつある。さて、読者ならどう詠むか。いわゆる写生俳句である。どう写生するか。この「蠅叩」を見たまま、有りのままを素直に写生せよと言われたら、あなたならどう表現するか。こういう兼題がじつは遊びのない現代俳句の厄介さなのだが、作者はぶっきらぼうに「まだなにも叩いてゐない」と捉えたのである。買って来たばかりの「蠅叩」だから当然といえば当然なのだが、この当然さがかえって人の意表を突く。

一見何の変哲もない平凡な日常生活に散見するものに対する意表を突いた新鮮な把握。一句中に「蠅」という忌み嫌われる言葉が置かれてあるにもかかわらず、なぜか清潔な感じがする。生活感が出ていないからだと評するか、いやじつに形而上的でさえあると論ずるか意見の分かれるところだが、わたしは後者を支持する。

それはなぜか。この句がいかにも「蠅叩」らしく現実味を帯びたものとして描かれているのは、「見たまま」あるいは「有りのまま」といった、方法としての「写生」に従って描かれているのではないからである。それよりむしろ、作者が「蠅叩」そのものを詠みながら、その形や特徴には一切触れず、またそれが置かれた場所や時間や角度、周囲の雰囲気なども一切描写しないで、ただ買ってきたばかりの状態にのみ注意を喚起することで、いわば蠅取りの機能や形状などに言及せず、ただ「まだなにも叩いてゐない」という事実のみを述べることで意表を突くこの表現の新鮮さが読み手であるわたしの脳裏を刺激して、いかにも「蠅叩」らしく、これぞ蠅叩きであるというふうに鮮やかに思い描かせるのである。

さらに付け加えると、上句「まだなにも」の「まだ」という副詞はじつはこれから起こるであろう何かをすでに予知している言葉にほかならず、「なにも」と言いながら、これもじつはこれから起こるであろう惨劇とその被害者をすでに暗示している。そうなのだ。作者は「まだなにも叩いてゐない」蠅叩きを手に持って、すでにもうこの凶器を振り回して叩き具合を試しているのである。かつてどこの家庭にもあった夏の生活必需品だった「蠅叩」だが、いまわが家にゴキブリホイホイはあってもハエタタキはない。新聞や雑誌がその役目を担っているのをたまに目にすることがあるが、噴霧器の付いた殺虫剤がそれに取って代わってすでに久しい。やがてわたしたちの周辺からまったく消え去る運命にあるのだろうか。それは季語としての「蠅叩」が死語になることを意味し、ひいては地球上の生物がまたひとつ絶滅することを示唆することでもあるのだが、ひょっとしてこの諧謔性に富んだ一句が、「蠅叩」なる道具がかつて人類の遺産のひとつとしてあったことを後世の人々に思い出させてくれるかも知れない。



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