2007-12-23

上州の反骨 村上鬼城 第3回 小説から俳句へ 斉田 仁

上州の反骨 村上鬼城
連載第3回 小説から俳句へ   斉田 仁



            第1回 新時代・明治と若き日の鬼城
            第2回 抵抗の精神


明治三十五年十月、『ホトトギス』第六巻第一号に、鬼城は次のような一文を寄せた。「諸君は如何なる縁にて我新俳句を作り始めたるか」というタイトルに答えた文章である。

余は小さい時から、下手ながらも文章を書けば点も取れたが、詩と画ときてはからッきし点にならんのみならず減点を取るので、如何に子供心でもソンナ愚なことはよした方がいいと思ッたぐらいだから、下手は益々下手になる。ソノうち、理屈ツポイ本を見るようになったので、いよいよ詩歌には遠ざかッて仕舞った。

トコロが、明治二十三四年の頃俳諧の流行すること非常で、遊ぶことに掛けては何ンデモござれの余の弟ナンかも、この渦中に巻き込れてコソコソやる様子、余もソレを知ッてはいるけれども、外の悪さよりはいいぐらいでやらしておくうち、大変うまくなッたとかいふので野郎面白くッて堪らん、何連とかいふのを組織して盛にやる。

一方には余の友人で昔し宗匠をやッた人の孫に当るのがあッて、コレも不相変やッてるンで、時々は見せもされるが、そのころの余の抱負というのは大したモンで、俳諧なんてソンナことは床屋のするこッたいッて、いつでもけなしつけてしまうのが常だッた。


ここにもあるとおり、若い頃の鬼城は、はじめは俳句などやるつもりはまったくなかったのである。逆にまだ子規以前の旧態然とした俳諧に反抗の気持ちも持っていた。前にも書いたが、夏目漱石と同世代である鬼城は、自然主義などの影響もあり、むしろ小説などのほうに当時の自身を表現する場を求めていたのではあるまいか。

この鬼城がどうして嫌っていた俳句というものに傾いていったのであろうか。

寺小屋式の私学で漢学を、教会の宣教師の下で英語を学び、はじめ軍人を、のちに司法官を志し、東京の明治義塾法律学校に入った鬼城が持病である耳疾のためこれも断念して高崎区裁判所の司法代書人となり、高崎の町に腰を落ち着けざるを得なくなったのは明治二十七年、二十九歳のときである。この間、明治二十年には結婚、翌年の十月に長女を、二十三年に次女が誕生、越えて二十五年に父が死亡、さらに、同年八月には妻も亡くしている。まさに、彼の人生においてのさまざまな辛酸が押し寄せてきた時代である。

鬼城は明治二十九年に再婚しているが、その前年二十八年、失意の中に一通の手紙を書いている。宛先は当時日清戦争に従軍して、広島の大本営にいた正岡子規、若き日から『ホトトギス』などで名前だけを知っていた縁からであろう。まさにこれが鬼城が俳句に傾いていく大きな契機となったのである。鬼城はこの手紙の中で自らの旧派を中心とした俳諧に対しての疑問と、それに対するみずからの思いを率直に書いている。子規もまた鬼城のこの疑問に簡潔に自身の考えを返信しているのである。

 たとえば、鬼城の、

俳句ノ特別固有ナル効用は如何 俳句ニテ文学ノ一部タル以上ハ其大概ハ之ヲ推度スベシト難 文学ト俳句トハ全然同一ニアラザルハ 法律ハ道徳ノ一部タルモ道徳トハ仝ジカラザル如シ生之ヲ宗匠中ノ稍々錚々タルモノニ聞クニ俳諧ノ妙ハ多ク禽獣草木ノ名ヲ知ルト 豈ニ夫レ然ランヤ 論語読ノ論語知ラズニアラザルナキヲ得ンヤ
 
…との問に対し、子規は次のように応えている。

一 俳諧ハ十七八字ノ文学ナリ特別固有ノ性質ナル者ナシ雖モ俳句ノ長所ハ和歌漢詩ト自ヲ異ナレリ
一 俳句ハ文学ノ一部ナリ故ニ大体ニ於テハ同一ナリ


子規は、俳句というものを江戸俳諧の陥っていた月並みではなく、あくまでも文学だといっているのである。鬼城の俳句作家への転機はまさに子規のこの返信によって生まれてきたのではあるまいか。やや生硬な面もあるが、両者ともに若さ漲る往復である。

前回、私は、鬼城は抵抗の俳人、上州の反骨の作家と書いた。その反骨は、漢詩や文章という形で直接その想いを述べるものであったが、この頃から鬼城の心は、次第にもっと深い心の奥のものを表現しようとする形に変わってゆく。この心の表現という形こそ、まさに俳句というものにぴったりと適っているのではないだろうか。

反骨の心を失くしたのではない。境涯という個に陥ったのではない。感慨を内に沈めること、別の言葉でいえば、自らの思いを俳句という形式にのせることによって、まことに真の反骨を誕生させたのである。

(つづく)



※『百句会報』第114号(2007年)より転載(タイトル・本文に若干の改稿)

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