2007-12-02

鈴木茂雄 詩的スパークの発生

鈴木茂雄 詩的スパークの発生



俳句を読んでいると、一句がにわかに立ち上がって風景を見せてくれる作品と、一読ハッとさせられる作品とがある。読む対象がインターネット句会に投稿された作品であれ、雑誌や句集に掲載された作品であれ、俳句を読むという行為は、いちどに何百という作品を読むことにほかならず、本当の意味で一句一句と向き合い、会話をしている余裕は、実はあまりない。

一句入魂ともいうべき思いのある作品の当事者である作者には申し訳ないが、俳句を読むという行為は、意中の俳人の句集などを読むときを除くと、じつはエッセイの一行のように一句を読み飛ばし、まるで車窓から眺める景色のように読み手であるわたしの前から過ぎ去ってしまうのが正直なところである。

車窓を流れる景色のように、風景もまたつぎからつぎへと変化する。その中で時折、にわかに一句が立ち上がり、目を釘付けにする風景が、眼前に現れ、そして広がる。読み手をして、途中下車してまで通過したその景色の見える場所に行ってみようと思わしめる作品がある。それが秀句というものだろう。

それは退屈な長い詩行の試行錯誤の果てに到達した、俳句というこの短いたった一片の詩行が、秀句と呼ばれる詩形を得たとき、凛とした印象を鮮烈に読み手に与えるのはなぜか。誤解をおそれずに言うと、それは一句の中に美しく嵌め込むのに成功したと思われる詩語でもなければ、俳句の要というべき季語でもない。切れ字という修辞的技法の存在なのだ。本来ならただの文法的終止符に過ぎない切れ字が、俳句の修辞的技法として用いられたとき、詩的スパークの発生装置に変貌する。それが切れ字なのである。



 新蕎麦や簾の外のよく見えて   久保山敦子

「週俳11月の俳句を読む」の対象4作品を読み終えたわたしの前に立ち上がってきたのが上掲の一句である。意表を突く作品でもなければ斬新な手法による作品でもないが、俳句の古格を踏まえ、しかもライトバース的な軽やかさに惹かれた。

この作品はおそらく旅行の折に得た一句だろう。簾越しの風景がじつによく見え、そこにたたずむ作者の姿もありありと見えてくる。作者が目を細めて眺めている「簾の外」の風景は、その瞳にも映っているのがよく見える。生活圏内での出来事ならこうまで「よく見えて」は来ないだろう。旅という非日常に遊ぶ作者のこころの表れが軽快なリズムとなって一句に流れている。

旅の途上に触れた季節感を「新蕎麦」という季語に託した把握も見事なら、把握したその情感を伝えるために詠嘆の切れ字「や」を置いたのもまた見事というほかはない。なぜなら、作者の前に運ばれてきた蕎麦を、作者は、しみじみと眺め、覗き込み、香りを楽しみ、そして箸でつまみ、口元に持っていき、一気に啜る、「新蕎麦」を前にした作者のその一連のしぐさがこの「や」一語にすべて籠められているからだ。

再読、「新蕎麦」の「新」が「新涼」の「新」にも通じるすがすがしさが伝わってくるのは、訪れた土地への挨拶も「や」に籠められているからだろう。その「新蕎麦」は秋の季語で「簾」は夏の季語だからという理由で、いわゆる季重りという負の指摘を受けるかも知れないが、この作品に登場する「簾」は、蕎麦屋の窓に年中掛かっている、いわばインテリアとしてのブラインドと捉えることで、俳句で言うところの季重りもいっこうに気にならない作品に仕上がっている。



 秋の夜の赤いボタンを押してみる   鴇田智哉

上記の久保田作品とは対照的な俳句を採り上げてみた。抒情俳句というより心理俳句と言ったほうがわかりやすいだろうか。この「赤いボタン」は現代社会では至る所にある存在だが、一読して作者の不安が読み手に伝わってくる。「赤いボタン」と言えばふつう非常ベルなどが思い浮かぶが、ひょっとしたらどこかに仕掛けられた爆弾のスイッチなのかも知れない。読み手にそんな危惧の念を抱かせるのは、この作品に現れた「赤いボタン」が不安感を煽る記号としての不安を表象しているからだろう。

「赤」は注意や危険をうながす信号、「ボタン」はコンピューター用語の「リセットボタン」や「削除ボタン」を表す符号と捉えるとわかってくる。「秋の夜」という時間の設定が読者の心理的不安を煽って止まないのは、季語としての「秋の夜」という俳句的情緒がこの作品から欠如しているからだろう。いや、そうではない。そんな季語的情緒は作者が意図的に払拭しているからなのだ。

「赤いボタンを押してみる」と作者は言っているが、じつはまだ押してはいない。押そうか、押すまいか。作者にとってじつに長い夜なのだ。そうなのである。この句が伝えるものは「秋の夜」は季語としての秋の夜ではなく、作者にとって時間的にじつに長い夜ということなのだ。

季語としての情緒を払拭して切迫した気持ちを表出したのは、内面意識の反映と見ることもできよう。だが、しかし、この作品、案外「秋の夜」そのものの本意を作者の感性によって捉え直そうと試みただけなのかも知れない。そう考え直させるだけの存在感が、払拭しようとして払拭しきれないものが、やはり「秋の夜」という季語にはあるということだろうか。



久保山敦子 「月の山」10句  →読む 鴇田智哉 「ゑのぐの指」10句  →読む 寺澤一雄 「生姜の花」30句  →読む 加藤かな文 「暮れ残る」10句 →読む

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