2008-01-27

俳句の断片的データベースあるいは大衆化する俳句 橋本直

近代俳句の周縁 3   俳句の断片的データベースあるいは大衆化する俳句
 ~松本仁編・巌谷小波校閲『俳句表現辭典』
(昭和6年)  


橋本 直




以前、週刊俳句で「十二音技法」なるものが問題にされたことがあったと記憶する(*1)。無責任ながら、その顚末は把握しないで書いているけれど、仮にいろいろ問題を抱えるとしても、俳句の初学者にとって、十二音の「詩的」なフレーズと、季語を中心とする五音との組み合わせによって俳句をつくるというやり方、いわば、拘束的な変則の取り合わせ作句法とでもいうようなものは、たぶん有効でとっつきやすい作句の方法だろう。

例えば、学校で学生・生徒が俳句を詠む場合。これまで何度か授業や講義で教え、また、全国から寄せられた学生の俳句を審査する機会を得た中で見聞してきたのは、おそらく一般に想像されるよりもはるかに(というか恐るべき、というくらい)コンサバティブで、かつ、類型的な用語と発想の表現の数々である。若い人の自由な発想、というこれまた類型的な物言いは、俳句がのっかっている言語の領域においては、まるで無効であると思わざるをえない。

このことについての問題は教員の側にもあって、おそらく多くの学校では、国語の先生も俳句はよくわからないと思っているはずである。指導書に従って五七五定型と季語と切れ字くらいは教え、教科書所収の何句かを鑑賞し、作品詠ませ、たまに伊藤園の新俳句などに学校単位で応募するというところまでやったとしても、その学生や生徒の作品を何を以て良とするかの判断基準をもてている教員は少ないだろう。

学校によっては俳句をほとんど取り上げないところすらあるかもしれない。限られた条件の中で、学習者にできうる限り良い内容で俳句とは何かを理解してもらい、かつ、作品を鑑賞し、詠むこともするという中で行われる作句の指導の方法としては、冒頭の方法は、安直に見えるかも知れないが、やり方を絞り込む分、教えられる側だけでなく、教える側にも、俳句形式において日常の言葉を詩的に異化する面白さが見つけやすい、非常にわかりやすいやり方なのである。

もちろんそれは俳句のすべてではないし、俳句と言葉を弄ぶ行為につながる可能性をもち、やや大袈裟に言うなら、俳句の内部だけでなく、俳句の置かれた文化的状況の変容をまねく方法なのかもしれない。その正否を云々するのは、ナンセンスだと思うけれども。

やや前置きが長くなった。昭和の初頭、虚子が「花鳥諷詠」を言い始めてそんなに立っていない頃に、すでに俳句をフレーズの断片の組み合わせと認識し、その組み合わせで作句するための手引き書的な辞典が出ている。

松本仁編・巌谷小波校閲『俳句表現辭典』(昭和六年九月刊 立命館出版部)。

俳句を取り合わせでつくるという発想自体は、芭蕉も弟子に教えていたことで、近代に始まったことではないけれども、作家のオリジナリティにはうるさかったであろう近代において、他の俳人が生み出したフレーズを気軽に引用可能なものをつくってしまうこと自体、とても図々しくユニークな行為である。

この本、背表紙のみ「編」とあって、あとは扉やら奥付やら、すべて「著」者となっている松本氏は、いまのところ詳細未詳。冒頭の「凡例」の中で、「近代俳句にあらはれてゐる樞要缺くべからざる語句」を集めたものだと自負しており、記述に従えば、その数は二千三百語。例句は二千五百句で、山崎宗鑑から新傾向(今で言う自由律作家の句を含む)までを網羅している。

この「樞要缺くべからざる語句」は、別に「俳味極めて豊潤にして芸術的香気いや高き語句、及び、近代味豊かなる語句」とも書いてあり、要は人が詠んだ俳句の、気の利いたと著者が判断したと思われるフレーズを中心に、俳句で用いられた語をかき集めたものである。

したがって、歳時記の類と同じように「クリスマス」「厄落とし」などの語とその語義と例句が載っているかと思えば、「落莫な風景」(とんとこのごろ落莫な風景でステツキの散歩 風間直得)とか「やがてかなしき」(おもしろうてやがてかなしき鵜船かな 松尾芭蕉)のように、フレーズの恣意的抜き取りによる立項がなされている。

なかには分解した一句中の別々のフレーズを分けて載せ、その同じ例句をあげているものもある。これを批判的にみるなら、他人のふんどし(オリジナリティ)で相撲をとる、盗っ人猛々しい本というところか。好意的にいうなら、クリステヴァいうところのインターテクストとしての、俳句における表現の断片的データベース化の試み。

したがって、例えばこんな使い方ができる。あるページ(九四)を開くと、「ちゆしゆうや(仲秋や)」とあって、語義解説の後に例句「仲秋や院宣を待つ湖のほとり 高濱虚子」が載っている。同じページの他の語に、「除隊兵」とか「痴を尽くしけり」などがあって、そうすると、同じページの中の語だけでも、「仲秋や痴を尽くしける除隊兵」なんてそれっぽい合成作品をつくることができてしまう。これなら例えばご隠居のちょっとした寄り合いのような句会で、秒単位で作って自作として出すことができただろう。あるいは、あるフレーズをちょっとアレンジして、似て非なるものにすることもできただろう。また、ある俳人の詠んだ句のフレーズをこの辞書で引けば、先行する同じよう表現の用例がないかを確認する事もできただろう。

もちろん編者はそれらを、いや、それを目当てに本を買う者が数多くいることを狙っていただろうが、どの程度売れたかは不明である。図書館や古本屋であたってみた状況からみて、どうやらそんなに市中にでまわったものとは思えない。同時代の俳人達がこの本について何か反応したのかはわからないが、知ればまず眉をひそめたものだろう。

けれども、この本は、明確に俳句を詠む大衆のニーズを意識しているし、上記「十二音技法」にも通底するような、俳句のもつ特性を衝いてもいる。

ただ冒頭のうたい文句の通り、俳人の文学的な表現を集めようとしたものでありながら、そのオリジナリティを打ち消すような役目を果たす辞典でもあり、作句における個の快楽、いわば、「文学」としての俳句の快楽への志向がない。そしてそれは同時に、例えば今でもCMのコピーや流行歌が遊びですぐ替え歌にされていくように、地口・俗謡的な言葉遊びの欲求への志向を強く感じてしまうものでもある。

昭和一ケタの時代の俳句のすそ野あたりは、どのような世界であったろう。そのなかにこの本をぽんと置いてみると、なぜ昭和の頭にこの本が世に出たのかということは、案外奥が深いことなのかもしれないのである。


(*1)
「十二音技法」が俳句を滅ぼす(遠藤治)
「十二音技法が俳句を滅ぼす」への言及記事


1 コメント:

民也 さんのコメント...

自分で作ったつもりの俳句に既視感を持ったとき、同じ表現がすでにあるかどうかをチェックできる辞典があると、便利ですよ。辞典に載っているくらいの表現なら、使うのやめよう、とか考えたり。鋏と辞書は使いよう。道具に罪はないんだよー。