一遍上人論
私性の誕生と「うた」の漂泊(2)……五十嵐秀彦
初出:『藍生』第206号・2007年11月1日(十七周年記念号)
第二章●一遍上人の遊行と時衆
本論は一遍の伝記を書くことを目的とはしていないが、彼の生涯とその思想を知るためには、一遍の行跡をひととおりは追っておかねばならない。
一遍の伝記としては『一遍聖絵(ひじりえ)』と『遊行上人縁起絵』とがある。しかし『縁起絵』は十巻中六巻を継承者の真教伝についやしており、他阿真教の継承者としての正統性のために描かれた要素が強く、信憑性はやや低い。やはり上人十周忌に、異母弟の聖戒によって作られた『一遍聖絵』の史料的価値が高いことになる。『聖絵』原本は、もと京都六条道場歓喜光寺にあったが、現在は藤沢の清浄光寺(遊行寺)と歓喜光寺の共同管理となっているという。『聖絵』は第一から第十二まであり、十三歳の一回目の出家から始まって臨終までが描かれている。その『聖絵』にもとづいて一遍の後半生を見てみよう。
前章でも述べたとおり、一遍は一度還俗してから、ある事情によって再び出家することとなった。弟の聖戒を連れて、いったんは再び大宰府の聖達上人のもとに行くが、その後、一二七一年春に善光寺へと向かう。
道を求めるために自ら行動しようとした一遍が、最初に選んだ地が善光寺であった。なぜであろう。それは後年、四天王寺より遊行を始めたときにも浮かんでくる疑問である。なぜ、善光寺、なぜ、四天王寺だったのだろうか。
一遍は浄土門の僧である。浄土門であっても多くの高僧が比叡山で修行したのと異なり、一遍は天台宗とは無縁であると同時に官から認められていない私度僧であった。師の聖達上人は浄土宗西山派であったが、一遍は西山派にも属さなかったようだ。一遍の遊行先を見ても、浄土宗西山派の影響はまったく感じられない。一遍には天台宗も、浄土宗、浄土真宗、あるは同時代人日蓮による日蓮宗も眼中になかったようだ。彼が意識したのは阿弥陀仏ただひとつであった。
それゆえ、一遍の遊行先は主に民衆の信じる聖地が選択された。最初に選んだ善光寺も特定の宗門に属さない寺であり、女人結界のない、全ての民衆に開かれた聖地であったことが一遍にとって何より重要なことだったのだろう。
一遍はそこで二河白道図(にがびゃくどうず)と出会う。そして阿弥陀仏に帰依する意味について深い思索をすることとなる。二河白道図を描き写し、それを自分の本尊として故郷にもどると、伊予窪寺に籠もる。その地で「十一不二頌(じゅういちふにしょう)」を作ることになる。
十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国
十一不二証無生 国界平等坐大会 「十一不二頌」
じっこうしょうかくしゅじょうかい いちねんおうじょうあみだこく じゅういちふにしょうむしょう こくがいびょうどうざだいえ
これは、「十劫という遠い昔に阿弥陀仏が正覚し衆生を救った。衆生は一念をもって往生ができる。この十劫という弥陀の時と、一念という衆生の瞬間は、不二である。つまり、まったく同じことである。ここにおいて弥陀の国と衆生界とは平等であり、弥陀と衆生は坐を同じくしているのである。」という意味だ。一遍は修行の中でこの真理を体得した。さらに半年、菅生の岩屋での修行ののち、一切を捨てて、自らの命を民衆のために捧げることを決意する。
一二七四年二月八日、三十六歳の一遍は、超一、超二、念仏房を連れて旅立つ。弟の聖戒は桜井まで同行した上で別れることとなった。超一、超二と、一遍との関係については前章に述べたとおりである。
彼らはまず難波の四天王寺へと行った。この寺も、善光寺と同じ、宗門を超えた信仰の寺である。善光寺にしても四天王寺にしても、当時より庶民が多く集まる聖地だった。彼らこそ、一遍が手を差し伸べるべき人々だ、との思いがあったに違いない。一遍が訪れた年にはまだ木の鳥居だったが、その二十年後に石の鳥居に建て替えられ、幾多の天災人災をまぬがれ現在もそれは極楽門の前に西を向いて立っている。
私が四天王寺を訪れたとき、その鳥居には今もなお「釈迦如来転法輪処当極楽土東門中心」の扁額が掛けられていた。そう、この鳥居は四天王寺の西門であると同時に西方浄土の東門なのだ。当時、この鳥居の西には海が広がっていた。そこはすでに浄土、との信仰があった。だからこの鳥居は寺の西門であると同時に浄土の東門にあたる。
現在の四天王寺の、石鳥居をくぐり、極楽門をくぐると、右手に大師堂と「南無大師遍照金剛」の幟が立ち、左手には親鸞を祀った見真堂と「南無阿弥陀仏」の幟が翻っている。現代においても四天王寺が宗門と無縁の信仰の場であることがあらわされている。難解な仏教哲学とは無縁な庶民の祈りの場として創立以来四天王寺があり続けていることに私は感動した。宗門宗派を乗り越えることを訴えつづけた一遍が、この地から念仏札の賦算を始めたのはけっして偶然ではない。
金堂の本尊は救世観音菩薩、講堂の本尊は阿弥陀如来だ。そして仁王門を背にして南大門がある。その手前に大きな石と灯籠がある。その石の名は熊野礼拝石という。昔、人々はここで熊野の方角に祈り、熊野参詣の旅に出た。一遍もここから熊野を遥拝したに違いない。阿弥陀信仰と、大師信仰、聖徳太子信仰、熊野信仰、それらが渾然とここ四天王寺にある。まさにここから一遍智真の旅が始まったのだ。
しかし、一遍はまだこのとき肝心のことに気づいてはいなかった。
彼はまだ、当時の遊行聖、念仏聖というものにとらわれていたのではないか。
このころ、融通念仏の札の賦算とは物乞でもあり、そのことで路銀を入手していたのである。それ以降も念仏聖とはそのようなものであった。一遍も四天王寺から札を配りはじめたのは巡礼に必要な乞食であったのだろう。この時には、まだ超一、超二らを連れていたことを忘れるべきではない。四天王寺のあと、高野山に登るわけだが、当時女人禁制であった高野山に一遍が参籠中、彼女たちはどこに泊まっていたのか。その費用はどうやって工面したのか。そう考えれば、念仏札の賦算には当時の巡礼の、そして念仏聖と呼ばれた漂泊民の経済をそこに見ることができる。
一遍が本宮証誠殿にて熊野権現の夢告を受け成道したのちに、超一超二を「放ち棄て」たのは、職業的な念仏聖であることに訣別したとも受け取れる。融通念仏との訣別であった。
そのきっかけとなったのは、高野山で高野聖たちと交流したのち、熊野本宮へと向かう山道での一人の僧との出会いであった。そのことを聖戒は一遍からよく聞かされていたのだろう。超人的な聖人伝説であれば、熊野権現の夢告のみでよいところを、あえて一遍が恥をかいた場面にも見えるこのエピソードを夢告の前に描いたのには、よくよくの理由があったはずだ。
絵では、その身分のありそうな僧の上に「権現」との文字が見えるが、それは後世の人の蛇足であり、聖戒の絵詞の中にもその僧が権現の化身だとは書かれていない。『縁起絵』では「律僧」とされている。すれちがう巡礼者全てに念仏札を手渡していた一遍であったが、ここで札を拒否されるという思いもかけぬ事態に至る。しかも僧にである。
信が起こらないので受け取れない。僧ははっきりと言い切った。仏教を軽んじているのではない。自分の中に信が起きないのだ、と言うのである。
一遍はそれに十分な反論ができず、苦し紛れに札を無理矢理渡している。醜態であった。
この一遍の狼狽は、信不信に関する問いに直面したためばかりではなかろう。
僧は一遍に念仏聖のもの欲しさを見たのである。路銀欲しさに誰彼かまわず札を配っている心根を見透かされたのである。一遍は、自分は違うと思っていたであろうが、他人から見れば女、子ども連れの乞食聖と見られても当時の風俗から当然のことであった。熊野巡礼路には多くの関があり、関ごとに通行料をとられていた。熊野巡礼は経済の場でもあった。信仰の名を借りた乞食も多数集まっていたのである。一遍もそのシステムをひとつの方便として迷いなく利用していた。そこに潜む欺瞞に気付かずにいた。しかし一人の僧にその矛盾を見破られ厳しく指摘されたのである。
このことが彼にとって大きな転換点となった。一遍は自分の醜態の意味を考え、僧に反論できなかった自分自身を見つめた。その彼の迷いと悩みが、その後、熊野本宮証誠殿に参籠した夜の、権現の夢告となってあらわれたのである。
《融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし》
夢に現れた熊野権現は一遍にそう告げた。
私は『聖絵』の中で、この山道での僧との出会いと、権現の夢告の場面が最も好きだ。ここは一遍がまだひきずっていた旧来の考え方の間違いに気づく劇的な場面である。権現のものとされている上記の言葉は名文であり、この境地に達したとき一遍はもう新たに学ぶものはなかった。あとはひたすらに歩けるだけ歩き、会えるだけ人々に会い、結縁をひろげていくだけだった。
《信不信をえらばず、浄不浄をきらはず》
抽象的な議論や、施しのような布教ではなく、今、生きている人々一人一人の存在が、貴賤にかかわらず、存在するそのこと自体によって往生を弥陀に約束されている。そのことを伝えて歩くことがおのれの行であるという確信。善を積むのではなく、捨てるということ。なにもかも捨てた自分は、賤民と何の違いがあるか。その事実を直視する。一遍は武家の出であったかもしれないが、熊野の成道は彼をして一人の賤民とした。聖という賤民に。
一にして遍である一遍の誕生であった。
そして、夢告によって成道した一遍には、次にやるべきことがあった。それは超一、超二との別れである。
信不信を問わず全ての人に見返りを求めずに札を配るためには一度全てを捨てねばならない。妻子を連れての旅では心をどのように保とうとも、きっと生活のための雑念が生れる。再びそこを見透かされることになるだろう。
《今はおもふやうありて同行等をもはなちすてつ》
この強い表現は一遍の決心の強さであった。その後の超一超二がどうなったかについて聖戒は触れていない。精神的な面で放ち棄てたのであって、その後も同行したのでは、と見る研究者もいるが、おそらく二人は聖戒への手紙とともに伊予に帰ったのだろう。ただ「時宗過去帳」に超一房の名が載っているためいくつかの説が生れることになった。また『聖絵』を仔細に見ると、超一と思われる尼の姿を見つけることもできる。
高野山では一遍はまだ時衆を連れていなかった。時衆という集団が発生するのは、こののち九州に渡り他阿真教に出会ったあとのことである。一遍が時衆を連れ諸国を遍歴するようになってから、超一は時衆尼として再び従うことになったのだろうと私は想像する。超二は一緒ではなかったようだ。過去帳にもその名はない。
全くの想像ではあるが、超二は伊予で在俗の中に短い生涯を終えたのではないか。そして超一は超二の菩提を弔うために時衆となったのだろう。もちろん超二は一遍の実子である。夫の愛を喪い、子を喪った超一は時衆の尼として一遍とともに辛い旅を続け、一二八三年に死んだものと思われる。その時期に一遍は《生死本源の形は男女和合の一念、流浪三界の相は愛染妄境の迷情なり》という法話をのこしている。
一遍は妄執を引きずりながらの旅をしていた。全てを捨てろと言いながら、捨てきれない一遍でもあった。
一人となった一遍は、その後、いったん伊予に帰国し国中を布教してまわり、一二七六年九州に渡り、聖達上人と再会する。九州では、のちに時衆の後継者となる他阿弥陀仏真教との出会いがあった。九州は、河野水軍の影響の強い土地であったためか、武士で一遍に結縁するものも多くいたようだ。その勢いで、次に京に上がったのだが、京都因幡堂で粗略に扱われ、布教に失敗する。再び善光寺に寄ったのちに、佐久の伴野で初めて踊り念仏を行った。
『聖絵』を観ると、最初の踊り念仏は自然発生的に起こったように見える。後年の輪になって踊るような型らしきものもなく、尼僧が中心になってただ飛び跳ねているかのような姿だ。このとき以降、踊り念仏は時衆の布教方法の中心におかれるようになる。
ただただひたすらに阿弥陀仏の名号を唱え踊る。熱狂が信仰のエクスタシーを呼ぶ。踊ることで日常から抜け出せる。そして踊る集団は定住せずに旅立ってゆく。日常からの脱出を求める人々がそのあとをついていったのだろう。
だがそれは安楽な道ではない。行き着く先は路傍の死である。しかしそうした行き倒れこそ一遍の本願でもあった。一遍が捨て聖と呼ばれたのはそのことによる。
一遍はつき従うものたちに厳しい約束を課している。信仰の道を踏み外したものは誰であれ、往生を認められないとした。他力であって他力ではない奇妙な規律が集団を支配していたのである。阿弥号を持ったものは一切の所有をせず、定住せず、ひたすら弥陀の名を唱え、奇跡を語らず、遊行の中での往生をめざした。一時一時を往生する覚悟を求められた。それゆえ彼らは自らを時衆と呼んだのである。南無阿弥陀仏を唱える孤の遊行集団、それが時衆であり、一遍の考える信仰の姿であった。
その一遍の思想がなぜその時代に多くの共鳴を呼んだのか。そこに重要なポイントがある。孤の自覚、孤の解放が、一遍の言葉の中にはあった。さすらう孤の魂が世に充ち充ちていたのが中世という時代でもあったと言えるだろう。それは平安朝下には見つけることのできない姿であった。
もしかすると、逆に私たちは平安期の共同体の一部としての人間像を想像することのほうがむずかしいのではないか。中世に生れたこの孤の精神のほうが現代人には身近に思われるだろう。孤の叫びはワタクシの叫びである。一遍上人は時代が生んだ無数のワタクシをつき従えて諸国を遊行したのだ。あたかも流民のように。権力構造の枠の外で。
尼僧が踊っている姿が描かれていると言った。それもまた時衆の特徴である。
時衆は僧尼がともに旅をしたのである。当時の仏教界の常識からはかけはなれた行為であった。それゆえに他宗からしばしば攻撃されもし、また現実に時衆内で問題が起きることも少なくはなかったようだ。だが、一遍は僧尼同行にこだわり続けた。男も女も変わりはしない。そこにも一遍の不二の思想があるのだ。
一遍と時衆は、佐久のあと、奥州江刺へ祖父通信の墓を探しに行く。そしてその墓前ですすき念仏を行う。このすすき念仏は現在も時宗の重要な行事として継承されている。
一行は、南下し鎌倉へと入ろうとする。しかし当時、元寇の余燼覚めやらぬ社会情勢の中、一遍時衆は鎌倉へ入ることを許されない。
『聖絵』でのこの場面を見ると、幕府の役人と毅然として対峙する一遍の姿に最初眼を引かれるが、画面全体を見渡すとそこに興味深い景が描き込まれているのに気付く。それは時衆一行のあとに、多くの乞食・非人と思われる人々がつき従っている姿だ。
この後『聖絵』を追いかけていくと、幾度も彼らの影を見つけることになる。
網野善彦の『中世の非人と遊女』によれば、『聖絵』に描かれている乞食・非人は百三十三人にもなるという。絵に描かれているだけではなく、絵詞にもしばしば時衆と被差別民との関係をうかがわせる話が出て来る。
尾張国甚目寺では供養が途絶え飢えていた時衆一行に、毘沙門天の夢告を受けた有徳人が施行にやってくる場面がある。その絵の一角に傘や団扇を持った総髪の異様な風体の人々が描かれている。中世史家の黒田日出男は、彼らを暮露であると指摘している。暮露とは梵論、梵論子、ぼろぼろとも呼ばれる有髪の乞食坊主で、後世の虚無僧の祖であるとも言われる。
また、鎌倉で権力側と正面から対峙したことが口伝に広まり、美濃尾張の悪党たちが《聖人供養のこころざしには、彼道場へ往詣の人々にわづらひをなすべからず》と高札を立て横の連絡をとりつつ時衆の旅を守ったことが記録されている。ここでいう悪党とは、当時の反体制的徒党のことである。
丹波国穴生寺では、異形の人々が集まってきた。『聖絵』にはこう書かれている。《まいりあつまりたるものどもをみるに、異類異形にしてよのつねの人にあらず。畋猟漁捕(でんりょうぶご)を事とし、為利殺害を業とせるともがらなり》
また、美作国の一宮中山神社では、時衆について来た「けがれたるもの」の鳥居内に入ることを拒否される。しかし釜の神託により「けがれたるもの」にも粥の供養なされるなど、しばしば被差別民と思われるものたちが登場し、時衆と彼らの強い繋がりを知ることになる。
浄不浄を嫌わずとする一遍の信念のなせるところであろう。
一遍と時衆は、神社にもよく立ち寄った。同じ浄土門でも神祇不拝を主張した親鸞と大きく異なる態度である。一遍が、信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、全ては不二であると気付いたときに、それはこれまでの仏教との訣別を意味したのかもしれない。自力他力の別さえ、もう問題ではなかった。神仏の別も問題ではなかった。彼は積極的に本地垂迹の立場を選ぶことになった。それは学問や思想としての本地垂迹ではない。ひとりの人間存在として生死を不二としたとき、森羅万象が南無阿弥陀仏となったのである。それを仏教界が認めないのであれば自分は仏教者でなくともよいと思うほどの決意と確信が一遍にはあった。
一遍が仏も神も区別しなかったのは、ただ神秘なものを畏れる心からではなかった。逆に、神秘とか奇跡とかは安易に信じない潔癖さがあった。『聖絵』の絵詞を書いた聖戒は、しばしば一遍と時衆の周辺に奇瑞がおきたことを書き記している。それは当時の宗教人としてごく自然の心理であったのだろう。しかし、そんな聖戒でさえ、一遍が安易に奇跡を認めなかったことを書き留めざるをえなかった。
それは、鎌倉に近い藤沢の片瀬浜でのことである。
時衆がこの地にとどまっていたときに、紫雲が立ち、どこからか花が降ってきた。人々は驚き、一遍のもとに行き、この奇瑞の意味を問うた。ところが一遍は人々の興奮に水をさすかのように、こう言うのだった。
「花の事ははなにとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍しらず」
更に一遍は黙想ののち、自分自身に言い聞かせるかのように歌を二首詠んだ。
さけばさきちればをのれとちるはなの
ことはりにこそみはなりにけり
はながいろ月がひかりとながむれば
こころはものをおもはざりけり
あるものをあるがままに見て、自然の理法の中に無心に身を置こうと一遍は考えていた。踊り念仏から、一遍に熱狂的な宗教指導者という印象を持つのは間違っている。彼は執着する心や、ありえないものに頼ろうとする心を捨て、ひたすらに念仏する肉体としての存在のみを信じようとしていたのである。
一遍たちの旅は続いた。一度目の布教に失敗した京都に再び上がる。ここで一遍は念仏聖の先達として深く尊敬する空也上人の遺跡である市屋の道場に滞在し、ここに高床の舞台をしつらえ大いに踊り念仏興行をしたのである。
一遍は踊った。時衆は踊った。
高床の舞台を仮設にしつらえて、床を踏み鳴らしながら彼らは踊った。『聖絵』第七巻ではその有様が写実的に描き出されている。そこには演者と観客という明確な構造が見られる。もはや佐久でのそれとは異なり、見られることを意識しての踊り念仏が興行的に確立していることがはっきりと分かる。彼らは群れを成して、輪舞している。そこにはある種の熱狂がある。称名の声と鉦の音、踏み鳴らされる床の音が聞こえてくるようだ。しかし、この絵をよく見ると、中央に描かれている一遍その人の表情と他の時衆のそれとの歴然たる違いに気づかされる。
一遍は生真面目に思いつめたような表情で、鉦を鳴らしている。その視野には時衆の姿も観客の姿も入っていないようだ。ひたすらに自己を見つめて踊っている一遍の姿がある。群集の中にあって、あきらかに一遍一人が孤独なのである。生死の不二を確信し、全てを捨て去るための孤独をあえて自らに強いている姿のように見えるのだ。衆生往生のために時衆を引き連れながらも、その時衆さえも捨て去っている男の顔がここに描きだされている。全てを捨てるということは全てを受け入れることなのかもしれない。この絵での一遍の表情は最も印象的なものだ。
京都での布教では貧しい人ばかりではなく、貴人たちも多く結縁しに来た。それはこの市屋道場の図に多数の牛車が描かれていることからも想像できる。一遍は弱者だけを見ていたのではない。彼は反体制の旗手ではなかった。貴賤という考えもまた、否定すべき二元論なのである。あくまでも不二。自他さえもない。自分と他者とを分ける境界もない。だがしかし、ひとりなのである。不二の境地における孤独なのである。たったひとりで生まれ、たったひとりで死んでゆく。その一期一瞬が全的世界であれば何をもって自他を分けられようか。自力他力をうんぬんすることもまた二元論であり、生死の瞬間において何の価値もない。ひたすらに踊れ、念仏せよ。貴賤も男女も神仏も信不信も浄不浄も自他も、あらゆる二元論を乗り越えて踊れ、そして念仏せよ。不二のひとり、仮の世も常世もひとつの世界であるところの、ひとりなのだ。
一遍時衆は一二八四年に京都を発ち、山陰道山陽道をめぐり、四国、そして淡路島から兵庫へと渡る。
旅衣木のねかやのねいづくにか
身の捨てられぬところあるべき
すでに死に場所を探す旅であった。
一二八九年、兵庫和田岬の観音堂に入る。八月十日、日頃「我化導(けどう)は一期ばかりぞ」と言っていたように一遍は所持していた書籍や経を全て燃やしてしまう。「一代聖教(しょうぎょう)みなつきて、南無阿弥陀仏となりはてぬ」。
八月二十三日朝、一遍は五十一歳の生涯を終えた。
一二七四年、四天王寺から始められた遊行は十五年の諸国遍歴の果てに、自ら願っていたとおり旅の中での往生であった。
南無阿弥陀仏ほとけのみなのいづるとき
いらばはちすのみとぞなるべき
時衆という信仰集団を引き連れながらも、一遍は最後まで遊行聖であった。
遊行聖。それは一遍が初めてではない。「聖」とは、平安期にすでに存在し、その多くは私度僧であった。代表的な聖としては勧進聖がある。寺社の改築、建築等のために寄進を求めて諸国を巡る下役僧が勧進聖で、中でも高野聖が有名である。そもそも下役僧にさえ位置づけられぬ聖もいたであろう。乞食と区別することは困難であったかもしれない。聖という呼び方にも必ずしも仏教的ではないところがある。たとえば歩き巫女などは女性の聖のひとつでもあっただろう。下級陰陽師なども聖性を持った乞食であったのかもしれない。
聖なるもの、不可思議なものを背景として、諸国をさまよう乞食群像が平安期に生まれていた。寄進を求める聖と、乞食としての聖、一遍は善光寺、そして高野山で、そうした聖たちの中に身を置いた。そして自らの信仰を深めるために一遍はあえてそうした聖たちと同じ位置に身を置こうと決めたのだろう。仏教界の階層社会に背を向けたのである。また、宗門と離れ自由に信仰を深めるためには聖でいるしかなかったのかもしれない。
一遍は時宗の開祖と呼ばれているが、本人は生涯そのような意識を持つことはなかった。そうなることをきっぱりと拒否していた。あくまでも、どこまでいっても、ひとりの聖としての生涯を貫こうとしたし、現に貫いたのである。その後の時宗は全く一遍の予想もしなかったことである。
だからこそ、後継者の他阿真教は、一遍の教えへの裏切りとも取られる時衆継続を正当化するために『縁起絵』で言い訳にも似たエピソードを作らねばならなかった。
一遍は自分の死とともに時衆は解散するものと考えていた。後継者の他阿真教がそれをどう受け止めていたのかはわからない。しかし一遍の考えは明白であった。だが、時衆は存続した。聖戒による『聖絵』はあくまで一遍の遺志を尊重し、一遍の没をもって絵巻を終わらせている。その後の時衆については語っていない。作成年を考えれば書けたはずの後日談をあえて書いていない。そして、もうひとつの絵巻『縁起絵』では対照的に没後の他阿の業績を書き記しているが、一遍の遺志とのつじつまを合わせるため、一遍の死後の時衆の集団往生を思わせる記述と、結縁を求める大衆の声断ちがたく師の意志に反して時衆を存続させることになった他阿の苦渋の選択を描くことで、その後の時衆の活動を正当化している。それは一遍個人の側から見れば裏切りであったが、その後の文化状況から見れば、大きな意味を持っていた。
一遍なき後の時衆の変遷はその後の中世文化にさまざまな影響を与えている。その例として、高橋俊雄『一遍聖』の「結語」後半部に非常に重要なことが書かれているので紹介したい。
遊行集団であった時衆は、常に旅にあったため集団内にさまざまの職能集団を形成していた。軸屋、念珠屋、物裁’(ものたち)所、食所衆、御食所、火燈所など。この職能集団がやがて陣僧、後矢(うしろや)(スパイ)、文荷(ふみか)(戦時通信)などの時衆を生み、また、武将に近侍し、連歌をつくった僧や、茶や花の指導をする時衆もいた。彼らは阿弥と呼ばれ、それぞれ独立した文化を形成していったのである。
この部分を読み、一遍時衆と、職人としての阿弥との関係が見えてきた。一所不住で諸国を旅したゆえに職能分化していった時衆の歴史的な変遷は非常に興味深い。ひとたび一遍の呪縛から解き放たれたあとの時衆は当時の浄土門最大の宗派となった。その勢いは蓮如による真宗復興のときまで続くわけだが、その間、時宗は非常に特殊な職能集団を形成し、特に大名に近侍する者を多く出すことになったのである。あらゆる世俗の権威を否定した一遍ではあったが、その後の時衆は武家社会の中に深く入っていった。そこには時衆の現実主義と武家のそれとの相性の良さもあったのかもしれない。
また、高野修が『一遍聖人と聖絵』で述べている次のことも、中世という時代における時衆(時宗)のありかたをうかがえることだろう。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺)のある藤沢市には大鋸という地名があり、それは木挽または杣と呼ばれる職人衆が住んでいたことから付けられた地名であるという。藤沢道場と藤沢大鋸引との関係は道場創建以来ともいわれ、今なお門前には職人衆が多く、中には祖先が伊予出身で一遍とともに遊行し、のちに藤沢に定着したという末裔もいる。高野修は、これを一遍遊行の際に念仏興行の場に作られた踊り屋建築に関係があると指摘している。
これは大橋俊雄の「時衆=職人集団」説に同じ興味深い意見だ。
また、踊り屋の建築に関して、『聖絵』に描かれた関寺の池の中島での仮小屋の景について、桟敷があり、橋が架けられているところから、能舞台との類似も指摘している。これは一遍が最初から意図したわけではなく、念仏踊りが衆をまきこんで暴徒化することを怖れた権力者側、あるいは既成仏教界側からの圧力によるものと思われるが、そのことが踊る者と観る者との区別された劇場空間を作ることとなったのだろう。その制限が、一定の空間の中を円舞する形態をなし、後世の盆踊りにつながることとなった。一遍時衆が能楽や大衆芸能の祖でもあったと思われる由縁である。
一遍はその生涯を通して、中世的人間像を描き出してみせたが、その後の時衆は中世的文化のあり方に大きな存在意義を持った。このことも時衆(時宗)と中世を考える際に忘れてはいけないことであろう。
(次号につづく)
※冒頭の図版は「一遍聖絵」(一遍上人絵伝)の一枚(断簡)。
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