2008-03-02

【週俳2月の俳句を読む】 堀本 吟

【週俳2月の俳句を読む】
その場違い感が強調されてくる
堀本 吟


冬帽の大きすぎたる記憶かな   宮嶋梓帆 《記憶》より

「冬帽子」が(冬にしては)「大きすぎた」、という「記憶」それだけの叙述である。冬に大きい帽子を被っているこの光景は多少周囲の冬景色の中では浮き上がって見える。「大きすぎる」と感じるこの視線が面白い。大きすぎると思うわけは、つばが広いからだろう、日ざしの強い夏ならばともかく。そして、その冬帽子を自分が被っているのか、他人がそうなのかはここからは読み取れない。

この単純な述懐がそれだけでも面白いのは、これだけの叙述で違和感という一つの感興をよびおこす。だから、この一句だけこれだけの思いを喚起する「俳句」として面白い。

そして、それだけではない。この十句は通底奏音に葬儀通夜告別式の場であるその気分が句の印象にも及んでいる。過去のその「記憶」、というようにうけとられる。訃報を持って実家にかえったのである。親族の誰か、おじいちゃんか叔父叔母か? これは、親ではない、ちょっと関係の離れた親しい親族だろう。そういうシチュエーションの中での違和感。この種の儀礼へのすこし離れた気分がたちあがる。または、これは、故人愛用していた帽子の記憶かも知れない、とすると、それと語らない挽歌追悼句であるが、そうとらなくてもいい。

連作の中においたときに、その場違い感が強調されてくるので、目立たないが、一種の不謹慎を感じさせるからだ。

一句がシチュエーション次第で、哀切にも不謹慎にも感じられる。単に着想のおもしろさを見せる句であってもいい。こういう多義性のある俳句世界は、私の好みである。

他に。

二階から雪を見ている生家かな
初雪もなんまいだぶもまだ続き
よくしゃべる家族なりけり暖房車

葱畑悼むに飽きてきたりけり
     以上同

葬式やお通夜はいわば儀礼である。といっても、そのことをちゃんということはかなりむずかしい。この感想や視点を得るというのは、自他の客観視が出来る人だからだろう。ほんとのこと言ってのけた率直さにはあかるいユーモアがうまれる。


  
綿虫は謝りたくて待ってゐる   矢口晃 《いいや》より

こんなの嘘だ。でもそうおもえば、こうるさくつきまとってくる綿虫にもかわいげがある。あいつも周りをうろうろしているが、そうか!謝りたいんだな。なんだ、そうだったのか。


鷹鳩と化すや嫌はれてもいいや   同

「や」、この句ではどちらも感動詞としてつかわれている。と最初は読んだが、鷹鳩と化すやいなや…というところで、じっと反応を窺っている隠れた存在がみえてくる、だから、ここに深い断絶、切れ空間が生じている、とすれば、この「や」は切れ字なのだろうか?

周りの空気が変わった。あいつ寝返ったとか、軟化したとか、評判が下がっているようだ、案に相違して、の事態だが、ま、平和主義になったからって「きらわれてもいいや」。この場面転換のきわどさ、逆に、鳩が鷹になったときのほうが嫌われる公算が強いのだが、季語をほどいて世俗のドラマ持ち込んでくるところ、また気分転換の早さ…意識内部の動きに転じてくる、これもきわどいところ。それをいい止めたところはしたたかである。季語の砕き方がうまい。


蛇出でて前髪が気に入つてゐる   同

ナンセンスかつ正当な季節感覚。春、散髪返りに遠回りをして土手を歩いて帰ります。デートの相手の前髪をほめているのかもしれない。るんるん気分で歩いていて、うっかり踏みつけたりすることも…ご用心。


モラル向上おたまじやくしに足生えて   同

これもそのまま素直に読ませてもらって、こんなつまらんことが俳句になることが不思議だ、とおもわせるのが手柄。諧謔味がやや露骨に出ているところが難。


  
五感とはうるさきものや蝌蚪に脚   神野紗希 《誰か聞く》より

矢口晃の前掲句の場合は「おたまじやくしに足生えて」モラルが向上するのだが、これは、モラルを超越している。自分の身体に感覚がそなわっていることがわずらわしい、つるんとしていたおたまじゃくしに不格好な手足が生えるのと同じ、春の鬱々した身体感覚(昂ぶり)をおたまじゃくしに八つ当たりしている。モラルを蹴飛ばしているこのやんちゃ振りが面白い。


桃咲くや骨光り合う土の中   同

感覚的なのだが、「骨光り合う」(しかも土の中」)とおさめたところ、幻視を取り入れてしかもキチンと視覚的な形象に作り上げている。初五の地上の風景を、地中の風景と対峙させるこの取り合わせは、桃が生命のシンボルであるとするならば、「骨」は死そのもの。エロスとタナトスの明快な図式化。俳句はこういうように、観念を風景におくことが出来るので面白い。


菠薐草に晩年の味ありぬ   同

「晩年の味」などというのが「菠薐草」にある、という根拠はない、が自分はそう思う、というところをおしだしているので、ああそうか、としかたなく納得させる。「菠薐草」が漢字なのがいい。

五感がいきいきとしていて、これだけ奔放なら、自家中毒みたいにうるさく感じてもムリはない。最初に帰って、あの「蝌蚪に脚」の句は自己戯画ということだろうか?




宮嶋梓帆 記憶 10句 →読む
矢口 晃 いいや 10句 →読む
神野紗希 誰か聞く 10句 →読む
毛皮夫人×毛皮娘  中嶋憲武×さいばら天気  →読む



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