【週俳2月の俳句を読む】
俳句に音が聞こえたら馬場龍吉
今となってはどうしようもない事なのだけれど、自分はもうすこし早く俳句と出会っていたかった。そういう意味では2月のこの俳人たちは恵まれているし羨ましいとさえ思う。全体の作品からつぶやき、言葉は伝わってくるが、声や音が聞こえてこないと思うのはぼくだけだろうか。
空を飛ぶものしずかなり室の花 宮嶋梓帆
中七までのフレーズは一見ありそうなのだが、案外ないかもしれない。「室の花」の静かな着地がいいし、連作のしめくくりとしても申し分ない。全体の流れもスムーズで悼みの気持ちが読み手に伝わってくる。〈初雪もなんまいだぶもまだ続き〉〈冬帽の大きすぎたる記憶かな〉も佳作。ただ、全体の湿っぽさを払拭する意図であったのかもしれないが〈布団干す椎名林檎を鼻歌で〉の一句は浮いていないだろうか。
綿虫は謝りたくて待つてゐる 矢口 晃
綿虫は夏のまくなぎとは違い、冬日にふわふわと飛ぶ印象は何かを告げたくて漂泊しているようでもある。この「ゐる」から始まって「ゐた」の挙げ句までに時の流れの使い方が充分計算されているようで安心して読める連作。〈携帯の待受画面春めきぬ〉〈居酒屋の春の壁掛メニュウかな〉に使われている「春」は、季語として呼吸しているようには思えない。息抜きの一句として使われていたのかもしれないのだが。
海に降る霰の音を誰か聞く 神野紗希
「たれかきく」と一句を全て清音で読みたい。地面をたたく霰と水をたたく霰ではやはり違うだろう。といって作者は音そのものにこだわっているわけではないような気がする。句意としては「海に降る霰を誰か聞く」そこに「音」を入れることによって「音」そのものを消しているような広がりが出た。〈風船を膨らませたる手の匂い〉には嗅覚や触感があって懐かしい。全体的には写生俳句と主観俳句のどちらを目ざしているのか、その融合の途上なのかまだはっきりしていないところに、これからの可能性があるように思う。
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〔余録〕アダルト版俳句甲子園
まず「毛皮夫人×毛皮娘」というタイトルに惹かれた。まさか日活○○○の逆襲じゃないだろうな。と思いつつもクリック。やはり違った。「夫人×娘」に思わず反応してしまったようだ。半分ザンネン。じつは「中嶋憲武×さいばら天気」による一月の「一日十句」、計310句からの自選31句の俳句対戦だったのだ。
さすがに元旦から始まる。正しい俳人は寝正月では無かったようだ。
猫のゐる恵方へからだ向けゐたり 中嶋憲武
漫才の服がおそろひ初御空 さいばら天気
猫好きの俳人があまりにも多いので、俳壇ではたとえ犬好きであっても猫の句を作ろう。恵方は毎年変わるらしいから猫とちゃんと打ち合わせしておかないと悪方へ向かっているかもしれないので注意が必要。
「漫才」は元旦でなくても見られるが、やはり正月三箇日、炬燵に入りながら前年の収録漫才をテレビで聞くともなく流しているのが正月の醍醐味だ。由緒正しい「萬歳」なら季寄せにも入っているが、いまやこちらはほとんど見られない。無形文化財に指定されて残っている程度かもしれない。初御空が文句なくめでたい。
双六の折目や駒の躓ける 憲武
牛日にひらく南の島の地図
余韻とも心残りとも寒茜
餅花があたまに触れて遊び人 天気
もの買ひに入るに門松が邪魔
贋作の屏風のごとく富士の山
写生派憲武に対する諧謔派天気の接戦は続く。そしていよいよ、「毛皮夫人×毛皮娘」。
ほほほほと口に手を当て毛皮夫人 憲武
酔うて寝て死んだふりする毛皮夫人
毛皮夫人毛皮をすこし毟らるる
毛皮夫人「沖」へ入会躊躇せる
屏風絵にうなづく毛皮娘かな 天気
毛皮娘じつは関西弁しやべる
いとをかし毛皮娘も伊勢海老も
人生とつぶやく毛皮娘かな
毛皮夫人、毛皮娘を詠むことはやはり難儀な仕事だったようだ。どの句からも空ろな印象を受ける。それよりも…
ハーモニカ吹くたび枯木近づきぬ 憲武
ひとひらの雪のゆくへをみてゐたり
枯芝やちひさき犬のちらちらす
ラグビーの笛吹く人の走りをり 天気
レコードのかすかなうねり山眠る
対岸の人に冬日のさしてをり
…等の句を得られたは恐悦至極。アダルト版俳句甲子園の行方やいかに……。俳句は勝ち負けで判断し得ないものと改めて認識した。読者それぞれの胸中に過るものがあればそれで成功だろう。
■宮嶋梓帆 記憶 10句 →読む■矢口 晃 いいや 10句 →読む■神野紗希 誰か聞く 10句 →読む■毛皮夫人×毛皮娘 中嶋憲武×さいばら天気 →読む
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2008-03-09
【週俳2月の俳句を読む】 馬場龍吉
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