2008-03-09

【週俳2月の俳句を読む】 田中亜美

【週俳2月の俳句を読む】
それはもはや「手」という輪郭ではない
田中亜美



花時のちひさき店に入りけり   矢口 晃

梅咲いてできない事はあきらめる   同

桜の花のさかり、午後のゆったりとした時間を想像する。「ちひさき」店には、店の規模などのほかに、これまで裸木だったところに花が咲き満ちて、店舗そのものが急に小さく感じられるようになったことへのかるい驚きがあるのかもしれない。桜のトンネルを潜り抜けて、ふっと店に立ち寄ること。華やぎにすこしだけ隔てられた、うつけた思い。

「梅咲いて」の句にも同様の、明るいメランコリーを感じた。



風船を膨らませたる手の匂い   神野紗希

海に降る霰の音を誰か聞く   同

風船そのものが持つゴムの匂いがある。風船に息を吹き込んでそれを膨らませる行為もある。だがこの句はそうした風船に纏わることがらではなく、あくまで「手の匂い」に焦点をあてる。このような絞りこみからみえるものが、風船を膨らませた際、どのくらい手にゴム臭さが残るのかといった現実的な問題では、つまらないだろう。ごつごつした手やしなやかな手、さまざまな手の感触を思い浮かべ、はたしてどんな手が「風船を膨らませたる」「匂い」を持つのにふさわしいのだろうかと、やや非現実的なものおもいにひたるのが、楽しそうだ。

すぐに飛びたってしまうもの。ある種の喪失を前に少しだけ触れる手の感触は、こんな感じなのかもしれない。それはもはや「手」という輪郭ではない、「匂い」という淡く希釈されてゆくものとして――。

感覚が鋭い作者と思った。まぎれもない自分の感覚したものを、その感覚の当事者としてではなく、すこし離れて傍観(傍―感?)者の位相から、「誰か聞く」ように書きとめる。

一人称と三人称、あるいは二人称。そう呼ばれるもののあいだを、汽水域を彷徨うような、レトリックが面白かった。



マフラーの僧と仲良くしておりぬ   宮嶋梓帆

訃報記事財布に入れて着ぶくれて   同

身近な人を亡くされて見送ったときの連作なのだろうか。全体を通して、とくに前半では、時間的継起がよく分かる。それだけに、より点綴的というか、モザイク的な後半の句群に魅かれた。

お坊さんがマフラーを巻いているくらいだから、よほど寒い日だったのだろう。その寒さが、互いの立場はひとまずおいて、つい「仲良く」させてしまうのかもしれない。日常のなかの非日常、ほんの少しぎこちないものを、親和感をこめて書いている。

「訃報記事」には、かろやかだが内向的な印象がある。レシートやらポイントカードの増殖する主婦の財布を持って久しいが、こうしたナイーヴな財布の使い方をしていた時期もたしかにあった、と思う。ここなら失くさないという安心感と誰からも触れられたくない密室感。

記憶もこんなふうに膨らんでゆくのかもしれない。



  

ほほほほと口に手を当て毛皮夫人   中嶋憲武 

酔うて寝て死んだふりする毛皮夫人  同

屏風絵にうなづく毛皮娘かな   さいばら天気

いとをかし毛皮娘も伊勢海老も  同


<毛皮夫人×毛皮娘>は今回、もっとも興味深かったシリーズである。

最後にも書いてあるように、このシリーズは中嶋憲武氏とさいばら天気氏が、2008年1月のmixi内のそれぞれの日記の「一日十句」より自選したものである。記事作成にはWikipediaが参考にされているという。日付のそれぞれに付されたニュース記事があたるのだろうか。

「興味深い」というのは、同時に得体の知れないという意味も少しあって、mixiに入ってない=SNSの言説が実地で分からない、Wikipediaもあまり利用しない私には(ネットに疎いだけです。すいません)、どこまでこの<座>を共有できるのか、かなりまじめに悩んでしまった。具体的には、このシリーズを、「週刊俳句」のプリントアウト法にしたがって①各々の31句として読むか、②一連の流れで読むか、③両方を読むか――ということに最後までこだわってしまったのである。①は普段の方法である。③は妥当だが、アンケートの「どれでもない」に○をつけるような気もする。②で読んでみた。

いちおう定点観測を試みる。「毛皮」の言葉が出てきたのは、1月11日。二人とも使っているところを見ると、兼題だったのだろうか。1月15日も同時。そのあとはばらばらに二回ずつ(たぶん)。特定の誰かを暗示しているのか、あるいは、創られたキャラクターが動き出しているのか。よく分からないが、奇妙なリアリティがあった。

共感の理由らしきものを考えてみた。今年の冬はけっこう寒かったから、毛皮という季語の使いでがあった。どうも女のひとをめぐっては、本物、フェィクに限らず、生まれながらの毛皮属性値があるらしい。それはどうやらポケモンみたいに進化してゆくらしい(アニマル柄も同様で、無い人はまったく無いと思う)。あとは、何となくだが、自分も世の中も、脱脂されてなめされた皮膚のようになってきた、と。毛皮という語が喚起する野生のイメージとはうらはらに。

2008年1月という日付を前後して、単純にそう思うことが多かった。最近、目にした短歌に<何を偽装されてもきっとわからない 五感疲れてこの国に居る 齋藤芳生>というものがあった。



宮嶋梓帆 記憶 10句 →読む矢口 晃 いいや 10句 →読む神野紗希 誰か聞く 10句 →読む毛皮夫人×毛皮娘  中嶋憲武×さいばら天気  →読む

0 comments: