2008-03-02

一遍上人論 私性の誕生と「うた」の漂泊(3)五十嵐秀彦

一遍上人論
私性の誕生と「うた」の漂泊(3)完結 ……五十嵐秀彦


初出:『藍生』第206号・2007年11月1日(十七周年記念号)



第三章詩人としての一遍

前章では遊行聖としての一遍の生涯をたどってみた。本章では詩人としての一遍について考えてみたい。

一遍は詩人であったのかといぶかる人もいるかもしれない。しかし彼は一生に七〇余首の和歌を残した。また、和讃もきわめて文学的なもので、一遍の詩人の才能を今に伝えている。

また、一遍は興願僧都という人への手紙の中で、《むかし、空也上人へ、ある人、「念仏はいかが申すべきや」と問ければ「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰られずと、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり》と書き、また白河の関では西行を意識した歌を詠んでおり、西行への関心をうかがわせている。

はたして一遍はいつ和歌の勉強をしたのだろうか。時衆として遊行中にそんな余裕があったとは思えない。おそらく聖達上人のもとで仏教修行中に当時の知識人の基礎教養として学んだのだろう。そして時衆において歌を法話と同様にあつかったことには西行からの影響があったのではなかろうか。時代的にいっておそらく後鳥羽上皇の勅撰・新古今集は読んでいたものと思われる。

『聖絵』では、第三巻、熊野成道後、西海道をへて故郷に帰ったおりの次の歌から始まる。

 つのくにやなにはものちのことのはは
  あしかりけりとおもひしるべし

そして、最後は第十二巻に、前章でも紹介した次の臨終の歌にて終わる。

 南無阿弥陀仏ほとけのみなのいづるいき
  いらばはちすのみとぞなるべき

十五年間、一遍は歌と和讃を作り続けた。それは経文を直接読む教養のない人たちに、仏の教えをわかりやすく伝えるためではあったが、しかし、抑えがたい歌の衝動があったことがそれらの作品からはうかがえるのである。

ここで『聖絵』から一遍の秀歌を選び出してみよう。

  をのずからあひあふときもわかれても
    ひとりはをなじひとりなりけり

  名にかなふこころはにしにうつせみの
    もぬけはてたる声ぞすずしき

  身をすつるすつる心をすてつれば
    おもひなき世にすみぞめの袖

  をしめどもつひに野原に捨てけり
    はかなかりける人のはてかな

  はねばはねよをどらばをどれはるこまの
    のりのみちをばしる人ぞしる

  いはじただことばのみちをすくすくと
    人のこころの行く事もなし

  こころをば心のあだとここえて
    心のなきをこころとはせよ

  つまばつめとまらぬ年もふるゆきに
    きへのこるべきわが身ならねば

  おもふことみなつきはてぬうしとみし
    よをばさながら秋のはつかぜ

  とにかくにこころは迷ふものなれば
    なむあみだぶぞにしへゆくみち

最後の歌は一遍の思想が一首にこめられていて心をうたれる。全てを捨てても最後まで捨てにくいものが心だ。そのことを一遍が誰よりも知っていた。

幾度も幾度も心を捨てよと言った一遍自身が、心こそもっとも捨てにくいものと自覚していたのに違いない。全てを忘れるためには踊るしかない、とも考えたことだろう。時衆とし多くの仲間とともに旅をしながらも、覆いがたい孤独感が歌から滲み出してくる。一遍は、ひたすらに「ひとり」と「こころ」とを歌い続けたように見える。

そのことを和讃や和歌で繰り返し述べることで、すぐには理解できない凡夫にじっくりとさとすように語り掛けている。


  身を観ずれば水の泡
  消ぬる後は人もなし
  命をおもへば月の影
  出入(いでいる)息にとどまらぬ
            「別願和讃」より

  六道輪回の間には
  ともなふ人もなかりけり
  独(ひとり)むまれて独死す
  生死の道こそかなしけれ
            「百利口語(ひゃくりくご)」より

一遍の和讃は、純真に信仰的でありながら、また和歌と同様に抒情的な孤独感が強い。形どおりの仏礼讃ではなく、孤独な祈りの吐露であり、同時に結縁を強く希求する力がある。

一遍の信仰は、仏教と呼ぶにはやや奇形であろう。浄土宗西山派から仏門に入ったにもかかわらず、彼は善光寺にも四天王寺にも高野にも熊野にも行った。それは仏教修行というよりは死の国への遍歴のようにも見える。宗門から離れ、死の国、根の国に魂の存在の救済を求める心は、既に原始宗教への回帰に近い。常世は現世の中にあるという思い、それをわが目で見んと熊野を訪ねたのだろう。それは浄土は常に身近にあるとの思いに通ずる。浄土と一体となるための念仏があると一遍は直観していた。

時衆の遊行には目的地がない。山河草木の中をひたすらに歩く。自然界という曼荼羅の中にあって、ついに往生することがその教義であった。浄不浄の区別はない。不浄の者は因縁によってそうなったのではない。仏教の呪縛からの解放が一遍の思想の特筆すべきことであった。けがれの中に往生がある。死の国熊野はそれゆえにまさに聖地なのだ。

  出る息いる息またざる故に、
  当体の一念を臨終とさだむるなり。
  しかれば念念臨終なり、念念往生なり

私は一遍のそのような和讃と和歌に、平安末期に編まれた今様集『梁塵秘抄』によく似た世界を見るように思う。

  釈迦の御法のうちにして
  五戒三帰をたもたしめ
  一たび南無といふ人は
  華の園にて道成りぬ   (24)

  阿弥陀ほとけの誓願ぞ
  かへすがへすも頼もしき
  一たび御名を称ふれば
  ほとけに成るとぞ説いたまふ   (29)

  弥陀の誓ひぞ頼もしき
  十悪五逆の人なれど
  一たび御名を称ふれば
  来迎引接(らいごういんじょう) 疑はず   (30)

  女人 五つの障りあり
  無垢の浄土はうとけれど
  蓮華し濁りに開くれば
  龍女もほとけになりにけり   (116)

  ほとけも昔は人なりき
  われらも終にはほとけなり
  三身仏性 具せる身と
  知らざりけるこそあはれなれ   (232)

  はかなきこの世を過ぐすとて
  海山かせぐと せしほどに
  万のほとけに疎まれて
  後生 わが身をいかにせん   (240)

『梁塵秘抄』からいくつか法文歌を抽出した。

これは平安末の作であり、法然登場以前のものであるが、阿弥陀信仰が既に基本的には法然以降の浄土門に通じるものになっていたことが、これらの今様からうかがい知ることができる。

天台宗において法華経は中心的な経文であり、大無量寿経も重要であった。その意味では、鎌倉新仏教の揺籃期は平安末の天台宗延暦寺にあったともいえよう。

それはともかく、法華経と阿弥陀仏に関した歌が多かったのは、この二経が当時の大衆にもとりあえずは流布していたことがわかる。

#29の歌は阿弥陀信仰の典型である。#30も同様であろう。そして#116に見られる女人往生への願いもまたこの時代にあらたに現れてきた民衆の願望をあらわしている。

こうして『梁塵秘抄』を読むと、すでにこの時代に、法然、親鸞、一遍ら浄土門の登場の下地があったことが歴然としている。

弥陀の教えは非常にわかりやすかっただけに、すこしでもそれを知ったものたちは、自分たちも弥陀にすがれば往生できるのではないかという思いが、しだいに広がっていったのであろう。また、それは、女人であれ被差別民であれ、差別することは弥陀の教えに反するのではないかという本質的な疑問も民衆の中に芽生え始めていたのではないか。そう考えねば、『梁塵秘抄』に収められたこれらの歌は理解できない。

法然はいきなり登場したのではなく、大衆の中での動きに連動したものであった。しかし、延暦寺はそれを許さなかった。大無量寿経に偏重した教義が認めがたかったというよりは、天台宗を成り立たせている権威の塔が根本からゆらぐとの危惧があったからと思われる。中には、純粋に教義に関して争った天台の高僧もいたが、その時の比叡山の雰囲気は感情的な法然排斥に流れたのである。

ここで天台宗と浄土宗との教義の違いに深入りするつもりはない。ただ、天台一色ともいうべき平安末期に、庶民の間では阿弥陀信仰が高まり、比叡山の阿弥陀信仰ではもはや満足できないレベルまでに至っていた。『梁塵秘抄』の今様は、主に遊女、白拍子によって作られ歌われた。彼女たちは貴族の庭にも入り、歌舞を見せたのだから、現世を肯定したり仏教界におもねる歌も歌ったが、だがそれ以上に庶民の生の歌が多く見られる。弥陀や法華経をたたえながらも、当時の仏教界によって罪びとの烙印を押されていた下層民のうめきも、そこでは歌われていたのである。

#240では殺生戒を犯した者たちの救済への欲求と、仏にうとまれているという実感が表現されている。この歌には仏によって罪びととされ、地獄堕ちを宿命づけられていると思い込んでいた海の民、山の民のうめきが聞こえる。また保元の乱以降の度重なる戦乱は、多くの不幸な人々を下層民へと落とすことになった。

諸行無常、地獄への宿命。乞食、非人、遊女、私度僧が世に満ちはじめる。

すでに王朝がかつて持っていた不滅の聖性は色あせ、武家もまた肉親が互いに敵味方に分かれ殺しあう非道の世に生きていた。

北面の武士であった西行は出家をしたが、官許の僧ではなく、遊行の聖として諸国を遍歴し、その自由な立場を愛し、歌人として生きた。ひとり遍歴の歌人となる道を選んだのである。天皇を中心とする神聖世界の中に神のわざとしてあった和歌から離れ、西行はひとりの歌びととなった。しかし、西行の歌はそれでいて貴族的である。彼は王朝からスピンアウトしたのであって、最下層民の中へと身を置いたわけではなかった。厳しい見方をすれば、貴族的な隠遁者にすぎなかったのである。その後の、中世文学における鴨長明、吉田兼好の先がけと言ってもよいだろう。

そうはいいながら西行が重要な位置を占めた歌人であるのは間違いない。西行から和歌は私性への傾斜を深めていったからだ。

一遍は、西行が踏み出した歌の私性を、「ひとり」と「こころ」という面で徹底していった。

その「ひとり」とは「こころ」とは何だろう。言葉はけっして難しいものではないが、ここに一遍の思想の奥義がある。また、これまでの浄土教とも異なる一遍独自の思想がある。彼は人という存在とは何か、ということを考えぬいた。阿弥陀仏が十劫の昔にその救済を誓った「人」とは何か。その結果、信不信、浄不浄を問わない不二の境地に至る。あらゆる二元論を乗り越えよ、という不二の思想である。理屈、理論は二元論を生み出すだけであって何の意味もないのだ。ひとりであることを受け入れることこそ孤独からの脱出を意味する。

ちいさな吾(ア)を乗り越えて、大きな吾(ワ)となるための「ひとり」である。山河につらなる「ひとり」としての「ワ」である。

時衆は集団を形成しつつも教団ではなく、時衆はそれぞれが「ひとり」なのであった。信不信、浄不浄のゆえんである。身分も病気も男女も関係なく、そこに差別が入ってくる余地のない「ひとり」は、孤独を意味するのではなく解放を意味する。

最後に最も捨てにくいもの。それが「こころ」なのである。ではその「こころ」をどうすべきか。一遍が「こころ」と言うときの意味はそこにある。一遍の言うところの「こころ」とは迷いである。迷いがあるから本然の「ひとり」に成りきれないのである。「こころ」を捨てろ、ということはより純粋な「ひとり」であれ、との教えであろう。

  よろづ生としいけるもの
  山河草木
  ふく風たつ浪の音までも
  念仏ならずといふことなし

一遍はそのうたの呼び声に身をまかせて生き、そして死んだ。

一遍が少なからぬ和歌や詩を詠み残しているのは、王朝文学の真似や憧れなどではない。そうした過去の制約から解き放たれようとする詩心が一遍にはあった。

『聖絵』には「花のもとの教願」という連歌師が一遍に結縁し往生した記録があり、そこに当時の民間連歌師と時衆との関係がうかがえる。その後も時宗では別願念仏において、始めに「お連歌の式」を行うようになった。現在では形式化しているが、連歌を報土(彼岸、浄土)の側と後灯(此岸、娑婆)の側から各十七句を詠む儀式となっている。

連歌の無名性と座は、一遍の遊行集団時衆にふさわしいものであった。一遍の死後においても、彼の詩人としての側面は時衆に引き継がれていったのである。





第四章私性の誕生とうたの漂泊


  心から心にものを思はせて
    身を苦しむるわが身なりけり   西行

西行と一遍はともに武門の出である。一遍はそのことを意識していたはずである。しかし信仰の深さはかなり違っていた。西行は出家したとはいいながら、どれほど信仰を深めただろう。

  白川の関屋を月のもる影は
    人の心を留むるなりけり   西行

  ゆく人をみだのちかひにもらさじと
   名をこそとむれしら川のせき   一遍

白河の関で残した歌には西行の有名な歌をさりげなく否定する一遍の心が見える。人を留めるのではない、名号を留めるのだ、と詠む一遍は、まるで西行の覚悟の弱さを哀れむかのようではないか。

また、さらに西行を意識した一遍の歌として、次の両者の歌を挙げてみよう。

  世の中を捨てて捨て得ぬ心地して
    都離れぬわが身なりけり   西行

  すてやらでこころと世をば嘆きけり
    野にも山にもすまれける身を   一遍

西行が現世を捨てきれなかったのに比して、俗世を捨て切って名号に帰一することで本然の「ひとり」となろうとしている一遍の覚悟がこの歌からわかる。西行と一遍が武門の出であることが共通していると先に述べたが、同時にこの二人には根本的な違いがあった。

西行はそもそも仏道をきわめようとして出家したわけではない。もちろん信仰心がきっかけのひとつではあったかもしれぬが、その後の西行の行動を見ても、僧、沙門であるより歌人であった。この平清盛と同い年の武将は時代の風を読み、歌道に専念するためには武門を離れ出家することが最も安全であるとの判断があったと思われる。だから宮廷との関係は途切れることなく、後鳥羽上皇の気に入りの歌人であったことは新古今集に九十四首と最も多く採られたことからもあきらかであった。西行は諸国を遍歴しつつも常に宮廷歌壇にその座を占めていたのである。

一遍は違った。彼はあくまで念仏聖、遊行上人に徹していた。熊野成道後の人生は念仏遍路が全てであった。ひたすらに念仏すること、念仏を広めることしか考えなかった人である。

だが資質としては詩人であったことは前章に述べたとおりだ。一遍にとって歌は念仏の転じたものである。そして西行の歌は、孤独を詠うことはあっても、貴族文化の情緒を多くひきずったものであった。一遍の歌にも伝統的な和歌的情緒、抒情がかいま見えはするが、それが主題となることはなかった。一遍は念仏のありがたさ、阿弥陀仏のありがたさを、和讃や偈としつつ、和歌の文化圏に属する人々の心にも伝わるようにと歌を作った。そこににじみ出る私性は、西行の貴族的孤独感とは異なるものであり、「ひとり」を肯定する私性であったのではなかろうか。

一遍のうたう「ひとり」は修飾のない「ひとり」であった。西行のような、氏族社会や宮廷や武家社会への郷愁をともなう「ひとり」ではなかったのである。そこには信不信も浄不浄も善悪も貴賤も富貧も健病もない。人が自分を「ひとり」であると知ったとき、あらゆる差別は消えてなくなる。裸の存在はどこまでいっても裸の存在以外のものではない。そこに中世的人間として現われた一遍の姿がある。

そんな主張を繰り返す一遍上人には革命家の顔がある。しかもアナーキーな革命家の顔だ。親鸞がマルキストに似ているとすれば、一遍はアナキストだ。宗門に寄らず、自ら教団を作らず、寺も持たず、仏を観想するのでも、信じるのでもなく、ただ六字名号を声に出してとなえろ、それが全てだ、と言った一遍は中世の無政府主義者のようなものだろう。

浄不浄は関係ないとした時に、多くの非人たちが一遍のあとにつき従った。一遍の言うことが、哲学でも思想でもなく、念仏をとなえよ、という単純な行動だけであり、行動を支える信さえ必要なく、不信であっても良いという、ただ肉体のある限り念仏せよの教えに、肉体しか財産のない下層民たちが従ったのである。

そして、踊り念仏というイベントの面白さ。教訓も脅しもない、太陽の光のような高揚が一遍時衆にあった。

一遍は肉体に言及することが多かった。吐く息入る息のたびに往生する。そこに理屈は存在しない。ただ、肉体がある。念仏もまた肉体を使って発声し、全身を使って踊るのである。そこに観念的な説明も、哲学的理念もない。全てを捨てて、ひとつの肉体となって念仏せよと言うばかりだ。

弥陀以外の全ての権威を捨てたとき、「ひとり」とは自然の中の「ひとり」である以外になくなる。権威的な宗教世界も、階級も、性別もない原始のごとき「ひとり」に還ったとき、人は三次元的時空から解放され、生死から解放される。それが一部の哲学者、知識人の観念としてではなく、民衆のレベルにおいておこなわれたことによって、それ以降の日本人の精神が決定づけられたとも思える。

前章では一遍の和讃等の詩と『梁塵秘抄』との共通性について述べた。そこには古代に連なる民衆の歌がある。それを思うとき、不思議と私は瞽女(ごぜ)歌を思い起こす。それは瞽女歌の伝統に聖賤併せ持った中世の遊芸者のおもかげが濃くとどめられているからだろう。

冬の越後の雪原にびょうびょうと風となる瞽女歌に、遊芸者が継承してきた民衆のうたの聖性がある。聖と賤とを合わせもった遊芸者のうたそのものだ。うたの世界の原風景がそこにあるとも言えるのではないか。

彼らを是とし、また自らをも遊芸者に類する存在としたのが一遍上人であった。

王朝権威の没落によって形式化した和歌が、宮廷をさまよい出し、民衆の世界に下りて連歌となった。その過程の中で、梁塵秘抄的俗謡と混交するところから、うたの漂泊が始まったのかもしれない。

一遍なきあとの時衆が職能民化する中で、文芸や芸能に影響を与えた痕跡として、鎌倉から室町時代にかけ地下(じげ)連歌と呼ばれた民衆連歌を支えた人々に阿弥号を持つものが少なからずいたことや、能楽もまた阿弥号の者たちによって拓かれた事実などがある。

そう考えたとき、網野善彦によって「無縁の人々」と名づけられた遊芸者たちの中世以降の表現活動が、常にこの国の文芸を下から支えていた構図というものが見えてくる。『梁塵秘抄』で知ることのできる庶民の歌、それはその後も様々な遊芸者に継がれていった。傀儡(くぐつ)師や遊女がその後の浄瑠璃や歌舞伎や瞽女歌の担い手となってゆく。念仏聖は説教師を生み出してゆく。陰陽師は下級陰陽師となり後世の萬歳師となった。宮廷の堂上(とうしょう)連歌師は地下連歌師となり、戦国武将の保護をたよりに諸国を遍歴した。

そんな歴史の日陰道をひたすらに詠い継がれていったうたの水流の中から、俳諧もまた生れてきたのである。

俳諧師による興行がまさに遊芸者の姿であったことを思うと、俳諧師も漂泊の阿弥族につらなる者たちと言えよう。芭蕉が旅に自らのうたの本源を求めたのも、漂泊するうたの本質を求めるゆえであった。俳諧は能でも歌舞伎でも門付け芸でもないが、かといってけっしてそれらと次元の異なるものではなかったのである。彼らに共通しているものは、古代から続く民衆の神うたのこだまと、中世日本に生れた私性にある。単なるアニミズムとしてではとらえきれないこの国の花鳥風月の情緒の中に日本的私性が隠されており、その私性誕生の根源に一遍上人がいたのである。

常に帰属する集団、権威、権力があって、その中に自分をとらえていた日本人の旧来の価値観に対して、全てを捨てることを主唱した一遍は、史上初めて裸の人間存在に直面した人であったとも言えよう。ここに日本人の私性の根幹がつくられた。その中世的孤独、そこからつながる「ひとり」の人の群。けっして歴史の表舞台に立つことのなかった人々の途切れることなく続く歩み。その無名の人々の歩みの中に私もまたいるのである。芭蕉も蕪村も一茶も、一遍の「ひとり」を継ぐものたちであった。

何教、何宗というのではなく、ただ「念仏が念仏する」という思いを「ひとり」であることの支えとして生きる術を日本人は知ったのである。そして日本的芸術のほとんどが、その精神を奥底に持ち続けることとなった。民芸運動の柳宗悦が言ったように、無名の民芸作品の美の中に南無阿弥陀仏が宿っており、私たちは見渡してみればそのような無名の美に囲まれて生きていることに気付く。

俳句が文学であるか否か、今もなおしばしば焼直される問いは、欧米から移入された芸術観と、私たち日本人の伝統的私性との齟齬から生れているように私には思えてならない。一遍がその生涯をとおして私たちに伝える「ひとり」というものは、単純に「孤独」と置き換えられるものではなく、ましてや「個性」というものでもない。その「ひとり」に最も近い文芸こそ俳句なのではないか。名句佳句であるか否かを問わず、「念仏が念仏する」と言った一遍風に言うならば「俳句が俳句する」ものであることを俳人であれば知っている。

一遍の死後、室町時代にかけて連歌の隆盛から俳諧が生れたのは、けっして唐突でも偶然でもなく、社会の底辺をさまようおびただしい無名の「一遍」たちが、古の神とワタクシとをつなぐうたを詠い継ぎ、その中に俳諧を生み出したのである。俳句の持つ大衆性の基底に、そうした無名の人々の声があることを私たちは忘れてはならない。

そして、その精神を支えたものこそ、一遍がそのいのちを賭けて実行した「裸のひとり」なのであった。俳諧の花鳥風月は和歌の花鳥風月と異なり、「裸のひとり」がはじめて直面する花鳥風月であった。それを理解せずに芭蕉を理解することはできない。近世文化も、子規以降の俳句も、私小説も、今も生き続けるこの国独自の私文学全般が、中世に誕生した私性によって支えられている。

一遍の「ひとり」の叫びが、現在もなお私たちの叫びなのではないか。俳句における私性は、一遍の唱えた一念そのものではないか。

吹く風、立つ浪、全てが南無阿弥陀仏だ、と一遍は言った。その一念こそ今なお俳句を私たちに作らせている。全てを捨てたとき、捨てることさえ捨てたとき、私性のうたがそこに立ち現われるのだ。俳句という名号が。

  花に問へ奥千本の花に問へ  黒田杏子



(了)


《参考文献》
『一遍聖絵』(岩波文庫)
『一遍上人語録』(岩波文庫)
『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』(中央公論社)
栗田勇 『一遍上人 旅の思索者』(新潮文庫)
大橋俊雄『一遍聖』(講談社学術文庫)
高野修『一遍聖人と聖絵』(岩田書院)
梅谷繁樹『一遍の語録をよむ』(NHKライブラリー)
『新潮日本古典集成 梁塵秘抄』(新潮社)
末木文美士『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)
柳宗悦『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)
五来重『熊野詣 三山信仰と文化』(講談社学術文庫)
林雅彦編『熊野 その信仰と文学・美術・自然』(至文堂)
神坂次郎『藤原定家の熊野御幸』(角川文庫)
網野善彦『中世の非人と遊女』(講談社学術文庫)
梅原猛・吉本隆明『対話 日本の原像』(中公文庫)
沖浦和光『日本民衆文化の源郷』(文春文庫)

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