【週俳3月の俳句を読む】
田島健一
信じていなくても効力がある
空に置き去りの蹄鉄梅咲いて 中村安伸(『ふらここは』より)
俳句を読むとき、僕がもっとも注目することは、そこで書かれたことばが「作者によって確かに選ばれている」ということです。
もちろん、多かれ少なかれ、俳句を作るということは作者にとって「ことばを選ぶ」という行為には違いはないのですが、そのような事実関係について言っているのではなく、「作者がことばを選んだ道筋が、読み手に再現できない」ということが俳句のひとつの味わいだということです。
たとえば、中村さんの句の「蹄鉄」ということばが、中村さんのどこから、どのようにしてここに来たのか、僕にはよく解りません。このことばが選ばれたのには、僕には解らない何かがある。それが僕にとってこのことばが「作者によって確かに選ばれている」という、感じなのです。
けれども、その解らなさが、揚句をのびのびとしたおおらかな気持ちの良さにまで引きあげ、なぜか切実に感じられるのですが、いかがなものでしょう。
ところで「蹄鉄」と言えば、最近読んだ本の一節を思い出しました。ニールス・ボーア(デンマークの物理学者)にまつわる話。
ボーアの家の扉には蹄鉄が付いていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです。」(『ラカンはこう読め!』スラヴォイ・ジジェク 著/鈴木晶 訳)
鳥雲に晩年の飯炊き上る 大牧 広(『鳥雲に』より)
まざまざと樹々の加齢や招魂祭 同
俳句を読むとき、僕がやっぱり気になることは、作者の立ち位置です。
その句が持つ「時間」の中に、「作者」自身が当事者として立っているか、というのが、どうしても気になってしまう。
それは句の中に作者が登場人物として現れる、ということではありません。「ここを、こういう風にしたら、作者が現れるんだけどなぁ…」というような、技術的な方法についても、僕はよく知りません。
たとえば僕たちにとって、未来というのはまだ解らない時間としてフラットに広がっていて、いくつかの出来事が可能性として遠くに見えています。「現在」という時点からその可能性に向けては、まだ道は開かれていないわけです。
そして、いつか気が付けば、その中の可能性のひとつを、あるいは見えていた可能性とはまったく違う出来事を生きてしまっていて、選ばれなかった可能性への道は相変わらず閉ざされたままなのです。
そうやって生きていくということは可能性を選び取りながら、同時に「選ばれなかった可能性」をひきずりながら、その「時間」を生きていくわけです。
そのような「選ばれなかったものを引きずりながら、選んだものを生きていく」というような「ことばの運び」を、大牧さんの『鳥雲に』の十句から感じるのは、きっと僕だけじゃないと思うのですが、いかがなものでしょう。
かつて父が、未来への希望に燃える若き日の僕に向かって、
「未来は、広がっているように思うだろ?でも、そじゃない。実は、どんどん狭まっていくんだぜ」
と言ったとき「うちの親父は偉い」と思ったものです。そういう意味でも、大牧さんは、偉い。
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2008-04-06
【週俳3月の俳句を読む】田島健一
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