2008-06-15

サバービアの風景 前篇 榮猿丸×上田信治×さいばら天気

サバービアの風景 前 篇

榮猿丸
上田信治
さいばら天気






話が素材に行くと、ちょっとまずい

天気●サーバビア俳句について話そうというわけですが、「俳句」の部分に入る前に「サバービア」の部分、つまり「郊外性」のようなものについて、すこしお聞きしたいと思います。というのは、読者のなかには、「なにがなんだかわけがわからない」という人もいらっしゃるようなので(笑。

信治●
わからない、ですかね。…わからないか。

猿丸●無理もない(笑。

天気●例えば、「団地。いいよね」と言ったときに、「そうそう、いいよね」と話に乗れる人とそうじゃない人がいる。そうじゃない人というのは「いや、よくない」というのではない。それならまだ話のとっかかりもあるんですが…。

信治●「え? 団地? なにそれ?」という反応ですよね。

天気●知り合いに「給水塔」の愛好家がいる。給水塔は団地のサブカテゴリーだから、「団地好き」には、「給水塔」というだけで、「わかる、わかる」と。

信治●そうじゃない人には、まったく、ですよね。こちらが「だって、のぼれるんですよ、あれ」なんて言っても、まったく…。

天気●脚の錆び具合とかね?

猿丸●たまらんですけどね(笑。

天気●俳句で言えば、海に行けば波がある、山に行けば、木の花が咲いている。それを詠む。それならわかるけど、「団地に給水塔がある」と言われても、なんのこっちゃ?となってしまう。好事家の内輪話のように思われてしまうと、ちょっとまずい。

猿丸●素材のほうに行っちゃうと、まずいんですよね。「サバービア俳句」イコール素材の話、となると、本旨から逸れてしまう。

天気●素材は、話題としてしゃべりやすいから、誤解を招きやすい。おまけに、その手の「萌え」が流行しています。有名な「工場萌え」〔*1〕から、マイナーなところでは「トタン萌え」まで、あらゆる「萌え」がある。

猿丸●感性的なものとしてのサバービア俳句。もともとの発想は、「意味の手垢にまみれていない風景」ということなんです。

〔*1〕工場萌えな日々 http://d.hatena.ne.jp/wami/


空虚・フィギュア化・表面主義

信治●ただ、その手の「萌え」も、「意味の手垢にまみれていない風景」と関連するものではあると思うんです。例えば産業遺跡。もう全盛期ではなくなったものに「萌える」わけでしょう? 古びてしまったもの。現役を引退しかけているところで、景色に変わってくるというか。意味の「波打ち際」が生じる。天然物と人工物の間、有用と無用の間。無用まで行くと、それこそ廃墟で、ちょっと脈絡から外れそうになるんですが。

猿丸●侘び寂びのほうに行っちゃう。

信治●侘び寂びまでは行かずに、侘び寂びがひたひたと忍び寄ってきている。そういう「波打ち際」ですね。目を向けると、昨日まで有用だったものが、今日は無用になっている感じ。それがいま鑑賞の対象になってきている。

天気●石油コンビナートやダムは、昔なら、国家建設や産業振興みたいなコノテーション(付随的意味)があった。言ってしまえば「希望のあふれる未来」とか「豊かさ」とか。けれども、今の「萌え」には、そんな意味はない。本質をずらしている。何を作っているのかなんて問題じゃない。夕方、コンビナートに灯がともる、その景色をフェティッシュとして愛する。

信治●感情のベクトルがかつてとは逆なんですね。工場を見ると悲しくなる。

猿丸●社会主義的国家建設の建築物も、いまは、女の子たちに「かわいい」なんて言われちゃうわけです。歴史的背景がすっぽり抜け落ちて、「かわいい」という捉え方。そういう感性も、サバービア的なもののひとつ。

天気●歴史的脈絡・伝統的脈絡から切り離された、という意味で?

猿丸●そう。空虚感とも結びつく。

天気●人間を見ていますか? こうした風景に。

猿丸●見ていない。

天気●昔なら工場があれば労働があり人間がいた。でも、いまの愛好はそうじゃないですよね。

信治●季語で言えば、紙漉きとか。

猿丸●ただ、団地は、もっと人間くさいですよね?

信治●あ、そうですね。昔からある「家族の夢」みたいなものが詰まっていて。でも、いまも人は住んでるし。

天気●団地の壁とかに愛好の対象をとどめているところはありますね。中身の暮らし、人間的なところへは視線を注がない。それと、物質というより質感なのかなと思います。テクスチャーに萌えている。

信治●中身が抜けてしまって、フィギュア化しているということですね。

猿丸●内実とかは必要がない。表層だけというか。

天気●あ、ここで昔のブログの話題につながってきました。表面主義〔*2〕

猿丸●そうそう。

天気●文学……とまで話を広げたら、まずいか。俳句でいえば、モノを詠んで、その裏にモノ以外のもの、精神やら形而上やらが存在するという状態を鬱陶しく感じるんです。

猿丸●内面にこそ本質があるとか、裏側に隠された本質があるとか、そうじゃなくて、表面にこそ意味がある。

天気●「形而上」と「形而」はながらくヒエラルキーのなかにあった。形而とはフィジカル、つまりモノということ。表面主義の比喩で言えば、「形而上」のものが表面の「下」に隠されているという、ややこしい言い方になりますから、「表面」と「内奥」という対照と言い換えてもいいですね。

信治●ヒエラルキーがなくなれば、目に見えないもの、目に見えるものの上下関係はなくなる。

天気●俳句は、表面にピントが合っていれば、それでいい、というのが、「表面主義」を思うに到った理由です。俳句史の流れなど、まったく知らずに私が勝手に名づけたわけですが、どこかに接点があることに最近になって気づきました。



内奥ではなく、凝縮ではなく


信治●モノを詠んで精神を、というのは、例えば「寒雷」系がそうですか?

天気●「人間探求派」は、それに当てはまるのでしょうか。

猿丸●「寒雷」系ということではなく、昭和ですよね。メンタリティとして。

天気●ただ、昭和は過ぎ去った、とは言えない側面がある。昭和俳句のメンタリティが、平成の実作をいまだに覆い尽くしているような気がします。

猿丸●隠された中身みたいなものに意味があるという考えは、今ではもうあまりないでしょう?

天気●でも、いまだに「モノに託すという言い方」がされる。中身、内面に大きな価値を置いている証拠でしょう?

猿丸●ただ、「託す」という言い方は、昔と今で違うように思いますね。昔なら、心情をモノに託す、思いや人生観なりを忍び込ませる。われわれの場合は、掛け値なしにモノ。

天気●モノが手段か目的かの違いですね。手段の場合は、モノを伝えたいわけじゃない。モノに託された「モノ以上の何か」。

猿丸●裏にある何か、内面の心情、それは人間でも人生でもいいんですが、それを17音に盛り込もうとすると、どうしても「凝縮」になる。でも、俳句って、凝縮じゃない。

信治●ええ、それは違いますね。

天気●凝縮というプロセスは、象徴や隠喩を呼び寄せやすい。

猿丸●そうそう。

天気●そのあたりは、俳句が明治期に西欧文学、狭く言えば「詩」の影響を受けた、その結果といえるかもしれません。

信治●作り手によって、そのへんは大きな幅がありますね。

天気●はい。俳句のなかの象徴作用や隠喩の成分は、手法として採用するか、排除するか、という作り手の選択がまずあるのですが、それとは別に、「読み」にまで浸透してしまっている気もします。例えば、飛行船であろうとバナナであろうと、長いものが出てくれば、なんでもかんでもファリック(陰茎)シンボルに解釈してしまうような読み方。

猿丸●あるある(笑。

天気●それは違う気がします。「文字どおり読んでください」ということだと思うんです。それはもう、身も蓋もないくらいに文字どおりに。書いてあることしか書かれていないという潔さ・すがすがしさが、俳句のいいところだと思うんです。


「感動してはいけません」


天気●
昭和的メンタリティは、たとえば「感動」を無前提に肯定する。もちろん、ひとつひとつ個別の感動を否定するのではありませんが、感動というざっくりとして、分析しようのないものを、俳句の前提とされてしまうことには抵抗があります。

信治●「美しさ」もそうですね。

猿丸●でも、そのへんは、岸本尚毅や小澤實、田中裕明が出てきて、変わったんじゃないかなあ。

信治●そこが、猿丸さんのいう「平成俳句」の誕生ですね。

猿丸●そう。このまえ小澤實が俳句入門書を出したんですよ。ショックだったんですけどね、入門書が嫌いなんで。で、そのなかにQ&Aのコーナーがあって、そこに「俳句の本によく感動を詠めと書いてあるんですが、そんなに感動しません。どうしたらいいですか?」という質問があるんです。小澤實がなんて答えているかというと、「感動はやめましょう」(笑。

天気●そうそう。俳句世間を見ていると、やたら感動を求める人がいます。でも、ふつうのオトナは、そんなに軽々しく感動しない(笑。

信治●そこは昭和と平成の違いというか。

天気●精神性といったものに関して、昭和と平成に断絶があるんですね。以前は、感動とか美しさは、疑いもない価値だったわけですが、そのへんが変わってきているということですね。

猿丸●恥ずかしい用語を使いますが、パラダイムの転換は、もう起こっている。ところが、それに気づかない人たちが、「平成はなにもない」と俳句の不作不毛を嘆いているんじゃないでしょうか。

信治●猿丸さんの論考「ことばによる、ことばの俳句」〔*3〕がそれですね。


〔*3〕「ことばによる、ことばの俳句」 http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/10/blog-post_339.html


平成俳句が発見したもの

猿丸●「平成俳句は何もない」ということが言われている。平成には、なんの成果もないという批判というか諦念というか。昭和俳句からの流れでいえば、「無風状態」。人間探求派だとか前衛俳句とか、名づけられる動きがないという状態を差しているのでしょう。龍太・澄雄の俳の復権で止まっているという…。でも、「なに言ってんだ?」という感じがする。

天気●昭和俳句から、なかなか先に進めない。

猿丸●ポストモダン以降、というか、広く文学としての流れ、文芸のとしての流れがあって、たとえば短歌は、そこが意識されている。ところが俳句はのんべんだらりと……。

天気●文学史の流れとは無縁のところで批評が展開される感じはたしかにありますね。

信治●時代とまったく無関係ではなかったにせよ、具体的な表現部分では、俳句の「内部」に立てこもった。
 短歌は、何度目になるか知りませんが、直近の時代精神のほうへ飛んでいってひっくりかえしたんですね。切れば血が出る時代の表現というか。俳句は、そこで「よそで何が起こってるか知らないけれど、俳句がいちばん得意なことは、こういうことなんじゃない?」というほうへ行った。逆ベクトルに飛んだ気がします。戻ったんですね。新しい仕事もあると思いますが、ある種の袋小路に入った感もあるんです。作家の人数が減っていることもあって、上の世代に「何もないじゃないか」と言わせてしまうような。

猿丸●「新たに発見したじゃないか、俳句を」と言いたいですね。それまでは、第二芸術論の後遺症から、俳句を文学にしようと、他ジャンルのものを取り入れて試行錯誤したりして、もがいてきた。それによって俳句をさらに豊かなものにしたわけですが、平成の作家には、そういう幻想はなくて、外部からの視点で俳句のおもしろさを再発見したんじゃないかと思うんです。

信治●それはまさに団地や工場を発見するようにして。

猿丸●そう。発見といえば、文語や歴史的仮名遣いも同じじゃないかな。最初から歴史的・伝統的文脈を踏まえているわけではなく、まさに「萌え」的な感じで(笑。「ふはふはのふくろふの子のふかれをり」(小澤實)なんて、文語萌えにはたまらない(笑。この句を女の子たちに見せると「かわいい」って言う。それは、句の表象する景以上に、歴史的仮名遣いによる言葉の質感が大きいと思う。フェティッシュな側面が強調されている。これは重要だと思います。
 今、ふつうに文語とか歴史的仮名遣いとか使用したら、それ自体にポリティカルな、何らかの意味やメッセージが発生するリスクを伴いますが、俳句ではそういうことはない。だから、現代を文語で表現すること、あるいは歴史的仮名遣いによる日常言語といった「ずらし」によって現実を新たな関係性の中に置き換える、ということも可能になる。メジャーな口語に対するマイナー言語としての文語を使用することで、逆説的に自由を獲得する感覚があるんです。この辺が、まさにサバービア的だと思う。俳句の外から見れば、文語や歴史的仮名遣いなんてまさに忘れられた、現実的価値のない言語であるわけで。信治さんが言われたような、団地や工場という〈場所〉を見つけたことと似ている。

信治●あそこに、いい具合にがらんどうになっているものがあると思ったのかもしれない。自分に即して言えば、まさしくそうですね。価値のヒエラルキーをなくして、横並びにしたところで何ができるかを考えたということで…。

天気●ある種のポストモダンですよね。それまでの近代主義では、目に留まらなかったもの、価値のなかったものを愛でるという。

信治●価値のヒエラルキーがなくなったところで、好きなものを選びましょう、という。


貧しい材料で組み立てる宇宙

猿丸●平成俳句の新しい流れに着目した一人に、平井照敏がいます。『現代の俳句』(講談社学術文庫)で、子規以降の俳句の流れを「詩」と「俳」という二因子の相克と捉えているんです。その構図が近代俳句史をつくってきた、と。人間探求派とか「俳の復権」と、昭和50年代まではそれですっきりと語ることができる。
 ところが、昭和60年代に入って、状況がまるっきり変わってきたということを書いています。夏石番矢と長谷川櫂をティピカルに挙げて、彼らのなかでは、「詩」と「俳」の二因子というより、言葉の色づけの違いだけだという。要するに「言葉による言葉の俳句を作っている」という言い方をしている。「俳」の側にいる人も、写生をリアリズムとして捉えているわけではなく、ことばの世界なんですね。

天気●岸本尚毅流にいえば、蜘蛛の巣を貼って、ことばがひっかかるのを待っているといった?

猿丸●そう。ことばを張る。

天気●写生は仕掛けの一種になってくる。

猿丸●「詩」よりもむしろ「俳」のほうが内実が変わってきているんじゃないかと思う。

信治●そこで思うのは、「俳」の人は、季題とか自然をどう考えているのかということ。郊外俳句というときには、季題に対するアンビバレントな気持ちがあるわけで。ただ「自然は素晴らしい」というナイーヴすぎる態度は、モノを書く人間としてあり得ないとすら感じられる。これまでも、新しい風俗や人工物を季題として扱って、つまり詩的じゃないものを持ってきて、季題ワールドを対象化・相対化するということは行なわれてきたと思うんですが、それのひとつの変形ですよね。

天気●季語・季題は、句によって、それぞれ、機能のしかたが違っていると思うんですが、そうした違いを乗り越えて、一貫した季題観・季語観といったものを、作家がもっているんでしょうか?

信治●歳時記なり俳句の考え方の中に、「みんなで同じものを見ましょう」というのがあるんじゃないですか。

猿丸●それが挨拶ということでしょう?

信治●そうそう。同じ人間だということを確認し合うだけでは、どうやら挨拶じゃない。その人の世界観(コスモロジー)は、何を言葉として選ぶか、どんな言葉を使うかの選択によって描き出されるわけです。

天気●世界観とは、すなわち「語り」ですからね。

信治●そうですね。だからこそ、俳句をはさんで、まったく話が通じないということも、起こりうるのかもしれませんが(笑。ただ、宇宙、世界といいながら、俳句は、ごく貧しい材料で組み立てるものだと思うので、ことさら貧しい材料を持ってくることで、その貧しさと豊かさを捉え直したい、という。自分にとって「郊外俳句」というものの核は、そんなところにありそうです。


(次号につづく)
※2007年12月9日・東京都国立市にて




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