2008-07-27

山口誓子『炎晝』をめぐって 堀本吟 × 四童

ピストルがプールの硬き面にひびき
山口誓子『炎晝』をめぐって


堀本吟 × 四童




■「しびれるぜ」と言える俳句


四童●
『炎晝』を再読し始めたのだけど、これは問答無用にいいなあ。よく誓子の句は写真の類推で語られることが多いと思うのですが、これなんかどうですか。

 雲焼けて向日葵のみを昏(くら)くせる  (昭和十年)

この光の量の感じ。このアングル。素晴らしいと思いませんか。

かと思えば、このお馬鹿な句。

 美(よ)きひとの後(あと)吸入をせんとする  (昭和十年)


堀本●
ふふ、なんか、いやらしいなあ。田山花袋の『蒲団』みたい。


四童●
誓子に星の句は多いけど、この連作などどうです。
 
  寒夜
 星降(お)りて枯木の梢(うれ)にゐ挙(こぞ)れる
 月光は凍(こほ)りて宙(ちう)に停(とどま)れる
 月凍り星をして星たらしむる
 月凍り熊星(ゆうせい)北を晦(くら)くせる
 オリオン座出でむと地(つち)に霜(しも)を降(ふ)らし
 オリオン座ひとより低く出(で)し寒夜(かんや)   (昭和十二年)

しびれるぜ。


堀本●
「しびれるぜ」と言える俳句に出会った人は幸せですね。

この連作中…

 星降(お)りて枯木の梢(うれ)にゐ挙(こぞ)れる
 月凍り星をして星たらしむる

「美女の吸入器」よりは、この星の句のほうが、私の趣味に合います。

「月光」が「凍り」というのは比喩としてまああり得るけど、「宙」にとどまるという即物的ないいかたが余人のできかねるところですね、すっきりしています。こういうとこに「しびれるぜ」って、感覚的な批評を言うのが四童さん…面白い方ね。


四童●
あまねく知られた「ピストルがプールの硬き面(も)にひびき」は、「ダイヴィング」と題された連作五句の最終句。

  ダイヴィング
 拡声器プールに低き私語をする
 ダイヴァアが白き鉄塔を攀ぢのぼる
 ダイヴァアが高きに肩の息づける
 ダイヴァアの頭(あたま)ずぶ濡れて浮きいづる
 ピストルがプールの硬き面(も)にひびき    (昭和十一年)

この連作の場合、第一句「拡声器プールに低き私語をする」がいかにも誓子的視点のような気がします。これはもう『サージェント・ペパーズ』のざわざわみたいなもので、そこからすでに連作が始まっているところが絶品であります。


堀本●
連作という単位でみると「ダイヴィング」は作品世界としてだんぜん面白いです。


四童●
その「ダイヴィング」ですけど、あの配列でピストルの句が最後なのを味わいたいですね。

「ピストルって飛び込んでから鳴るもなんですか」とか「水から頭を出したダイヴァアが狙撃された場面のような気がして」とか茶化すこともまあできるわけですが、「ひびき」と連用形となっているところに着目すると、これは繰り返し記号のようなもので、「のようにして競技大会は続いて行くのであった」という解釈が成り立つような気がします。もういちど全体を引用してみましょう。

  ダイヴィング
 拡声器プールに低き私語をする
 ダイヴァアが白き鉄塔を攀ぢのぼる
 ダイヴァアが高きに肩の息づける
 ダイヴァアの頭(あたま)ずぶ濡れて浮きいづる
 ピストルがプールの硬き面(も)にひびき

どうです?

 一湾をたあんと開く猟銃音  (『晩刻』昭和二十一年)

…みたいな体言止めとは違う世界が感じられませんか。

もっとも「ひびき」の連用形からは、響きの余韻だけを感じ取ればいいのかもしれませんが…。



■「異様な事件」のような句群


堀本●
最後の句がなぜ最初に来なかったか、わたしもちょっと不思議でした。でも、順番がかわれば、別のドラマができてきますからね、これはこれで意図がある、と思いますよ。この際、誓子さんの構成に迎合しておきます。

連用止めというところが心憎い。最初に余韻はのこりませんよね、たしかに、最後に来るから、こうなるんですね。それまでは、ワンショットづつの描写ですね。

最初の「拡声器プールに低き私語をする」は、そっと言ったたつもりの選手の「私語」が拡声器に入ってしまった、という意味ですか? 導入として素敵です。可笑しいよね、なにか。

拡声器の雑音がプールに響いているという意味ですか?


四童●
たぶん拡声器なんかまだ珍しかった頃で、スイッチを切っていないマイクがお構いなしにやや離れた雑談を拾って「わて今朝出勤する途中でなあ…」なんて私語がプール全体に流れたのだと思います。

ちなみに後書によれば、場面は会社の水泳大会。この句を収録したことで誓子を一生許せないと心に誓った同僚がいたかもしれません(笑)。


堀本●
なるほど。最後の「硬き面」に響くのは、拡声器を離れた実際の音ですね。


四童●
ああ、「ピストル」のピ、「プール」のプ、と破裂音で頭韻を踏んでいるのも素晴らしいなあ…。


堀本●
「p」「p」の音はおおせのとおりの効果です。でも、こればかり有名句というのも不公平です。

 拡声器プールに低き私語をする
 ダイヴァアが白き鉄塔を攀ぢのぼる

…なんかいいですよね。当たり前の動作が異様になっています。観察の成果でしょう。

なぜ「異様な事件」のように思えるのだろう?

こういう変なところが、山口誓子にあるんでしょうね。

場面は会社の水泳大会。でも、このありきたりの社内行事が、なぜ異様な事件のように思えるのだろう。

素材がモダンである、という意義づけだけでは不十分ですね。この異化作用の出来る過程が誓子の写生構成という詩法なのでは?


四童●
思わず吹き出してしまったのですが、ほんとうに「異様な事件のよう」ですよね。

あまねく膾炙した鉄鎖の句も同様です。

  夏の河
 夏の河赤き鉄鎖のはし浸(ひた)る
 暑(しょ)を感じ黒き運河を遡(さかのぼ)る
 文撰工鉄階に夏の河を見る
 夏の河地下より印刷工出づる
 活字ケースともれり夏の河暮るる  (昭和十二年)

なにか気がかりな夢から目をさますと夏の河がそこにあったような、異様な事件としての夏の河です。

日本史的に見れば、昭和十二年七月七日に盧溝橋事件が発生していて、ほんとうに暗い夏であったのかもしれません。で、「思想警察にマークされることになる」(三橋敏雄の解説による)のだけど。


堀本●
〈河〉→〈橋〉→〈赤き鉄鎖〉→〈反政府の社会主義〉でしょう?

「思想警察」なんてものも、そのころに現実にあったんですね。このひとたちがいちばん深く、想像力のこわさ、潜在的な的な力を知っていたのかも。

誓子は、現象への感動が思想の深みとからみますね。それが表現の水面にあらわれてくる、観念世界の顕現過程を、自分が自覚する以上に正確に書き留めていたのかもしれませんね。

「異様な」ほどのリアリティです。〔写生を超えてしまうほどの〕だったのかもしれませんね。


四童●
東京三(ひがしきょうぞう=秋元不死男)も、漢字の並べ順を変えたら、京三東=きょうさんとう、という信じられないほどばかばかしい理由もありマークされたようですね。


堀本●
なるほど。まったく気がつきませんでした。想像力の欠如ですね。警察官とか、こういうたぐいのお仕事、まったく向いていないようです。詩人俳人など言葉の徒にも向いていないようです。困った。


四童●
いや、そんな想像力、普通はないです。なくていいはずです。だいたい、そんなこと言い出したら…

  観艦式
 霧濃きに君の艦隊を率(ゐ)つつゆく
 霧の航櫓(やぐら)煙筒ひた進む
 霧の航砲門ただにしづかなり
 秋の浪艦艇長き艫(とも)を牽(ひ)く
 艦が撃つ団煙(だんえん)霧にまぎれざる
 眼を凝(こ)らす霧の御艦(ぎよかん)のああうすれ  (昭和十一年)

…みたいな帝国海軍の霧中の観艦式の威容(≠異様)を詠んだものさえ、「砲門ただにしづかなり」とはなにごとだ、「ああうすれ」とはなにごとだ、みたいな曲解がいくらでも入り込みますよね。



■もとの世にもどる証し


四童●
ところで『炎昼』の前書は秋櫻子が「俳句研究」昭和13年4月号に発表した『「黄旗」以後に於ける山口誓子の業績』」という評論がそのまま収められているのですが、今読むと、実作者同士の内輪褒めみたいな筆致が鼻について、だから第二芸術などと言われるのだ、などと感じたりもします。それはともかく、違和感を覚えるのは、誓子独特のひとこと余計なフィクションを崩壊させる一句をあえて無視しているところです。「天守眺望」や「枯園」について、「この連作は、第六句を除くと、見事な絵画的構成を持つてをり」とか「この連作も、第四句を除いて立派な絵画的構成を持つてゐる」とか述べているのですが、「天守眺望」の第六句や「枯園」の第四句が、締めくくりにそれを置かれることによって連作全体にもたらす作用を味わわなければ誓子を鑑賞したことにならないんじゃないのかなあ。

ふと思い至ったのですが、誓子の句で「もとの世にもどる証しか初写真」というのがあります。「天守眺望」の第六句や「枯園」の第四句というのは、「もとの世にもどる証し」というキーワードでグループ化して語れるものなのかも知れません。


堀本●
秋櫻子と誓子は、けっきょく連作法ではライバルになっていったのでしょうが、この検討は面白そうですね。

じつは、最近、奈良の古書店で、買ったものに…

東京三著『現代俳句の出発』――『黄旗』を主とせる山口誓子の俳句研究
 昭和14年刊・河出書房・定価1円50銭(けっこう高かった)

…というページが茶色になった本があり、テーマはサブタイトルの通りのものです。東京三「土上」に連載されたもののようです。

これを書いて、水原秋櫻子をたずねた、と秋元不死男の年譜にあります。まもなく昭和16年に、秋元は、京大事件で検挙されるのですけれど。

『黄旗』解読鑑賞は、仁平勝さんにかなりつっこんだものがあるのです。そのまえの『黄旗』解読は、これが初めてで、読んでみようかと思うのですが、まだ手を付けていません。


四童●
東京三の俳論の題を拾っただけでも、なんだか凄そうですね。「連作俳句の新造船」「誓子的苦悶について」「新興俳句の諸傾向を批判す」「リアリズムにおける俳句」「誓子作品の研究」…。面白かったらまた教えて下さい。

さて、「天守眺望」と「枯園」は秋櫻子が評論を書いた時点から『炎昼』に収められるまでの間に変化しているようですね。

「天守眺望」、評論では六句だったものが句集では十句。問題の第六句は末尾で変わらず。

「枯園」は、評論では四句だったものが句集では三句。問題の第四句は末尾で変わらず。秋櫻子が「硝子玉の碧と枯芝の黄との対照に多大の興味を覚える」とした第三句「硝子玉子の眼に碧く園枯れたり」は句集では抹消。

すなわち句集『炎昼』では以下。

 天守眺望

南風(はえ)吹くによき衣(きぬ)飾り城に来ぬ
城頭に白藤(しらふぢ)咲けりすでにこぼれ
南風つのり湖東の城の鳴りわたる
南風の浪湖(うみ)の沖より沖より来(く)る
南風しろく湖の岬(さき)ながら浪寄する
南風の浪桐咲く梢(うれ)を走りつぐ
南風にとぶ鷹ぞ天守に吹きかへされ
城郭の松に鷹ゐる南風に降(お)り
城の窗(まど)魞(えり)の蓮(はちす)を直(ただ)に見る
桐咲けり天守に靴の音あゆむ

※「えり」は魚へんに入


 枯園

枯園(かれぞの)に向(むか)ひて硬きカラア嵌(は)む
ホテルの部屋暑き硝子に園枯れたり
部屋の鍵ズボンに匿(かく)れ枯園に

どうです、この最後の一句の気分。秋櫻子に黙殺されてもこだわって残す、この最後の一句の気分。


堀本●
「枯園」の「部屋の鍵」の句はなかなか諧謔のある句ですね。



■「音楽」=「連歌」、「騒音」=「俳諧」


四童●
この最後の一句の気分、といえば、前に自分のブログにも書いたんだけど、次の連作がすごく好き。

  航行
 船厨(せんちゆう)の蠅青潮に向きて去る
 船欄は蠅ををらしめ浪を白(しら)め
 夏の夕餐(ゆふげ)船は蛇輪(だりん)をまはすなる
 顔こすり睡(ねむ)がる子よ夏の海暮るる
 夏の夜の星ひとつ撰(え)りて船にかかぐ
 船に垂れ晩夏星座のみづみづしさ
 夏のあさ薄翅蟲類船とすすむ  (昭和十二年)

「航行」という題で蠅だの薄翅蟲類だのを詠む異様さ。「船欄は蠅ををらしめ浪を白(しら)め」の独特の把握。普通の人なら無視することを学習している対象にあえて向き合うことによって、せりあがってくる猥雑さや不潔感をも帯びたトータルな世界。いかにも誓子らしい連作ではないでしょうか。

ちなみに『誓子自選句集』(新潮文庫昭和三十六年)では、「瀬戸内海」という題で「船厨(せんちゆう)の蠅青潮に向きて去る」「夏の夕餐(ゆふげ)船は蛇輪(だりん)をまはすなる」の二句に減り、さらに後年の朝日文庫ではまったく影も形もなくなります。


堀本●
誓子には、自身の美意識の混乱には葛藤はなかったのかしら? というより、美を描いているのではなくて、何だろう? もっと全体的な〈もの〉〈こと〉への関心があるみたい。

《河の畔に住みつける人々》(ホームレスのこと)は

 顔すすけ腐(くだ)つ蜜柑をよよと吸ふ
 焚火して手なき片袖を垂らしたり

《われ蜥蜴を愛す》という大作はなまなましい。

 蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ


四童●
マリー・シェーファー『世界の調律—サウンドスケープとはなにか』(テオリア叢書)という本があって、読もう読もうと思っているうちに二十年の歳月が流れ未読なのですが、ネットで検索できる内容説明は以下。

世界の調律―サウンドスケープとはなにか
これまで一般に音が問題にされるとき、それは「音楽」として取り上げられるか、あるいは「騒音」として取り上げられるかのどちらかであった。その場合、「音楽」も「騒音」もあらかじめ価値付けられている「音」である。たとえば、「私たちに安らぎを与えてくれる美しい音楽」、あるいは「私たちを悩ますやかましい騒音」というように。しかし、私たちの音の世界はそれらの枠組みよりも遥かにダイナミックである。本書の著者は、そうした従来の「音楽」や「騒音」によってはとらえることのできないさまざまな音をすくいあげる包括的な枠組みとして〈サウンドスケープ〉という考えかたを提示している。

… というのが「航行」などを読んで感じることなのです。この説明の「音楽」を「俳句の対象として詠みたいもの」、「騒音」を「俳句の対象としては無視しているもの」と置き換えたとき、誓子って連作というかたちをとって「包括的な枠組み」を提示しているとは考えられませんか。

もっとも「音楽」=「連歌」、「騒音」=「俳諧」という観点から、誓子の美意識について、「俳諧の近代化」という言い方もできるのかもしれません。

わざわざ中宮寺に行って蛙を詠んだ連作など、俳諧的といえば俳諧的です。

  中宮寺
 雨蛙閉(さ)さず入り来(き)し門(と)にひびかふ
 雨蛙ゐるは赤松他(ほか)にはあらず
 雨蛙遠くに聞えゐるは庭木
 雨蛙黒き仏の宙に鳴く (昭和十二年)

で、近所の図書館に行って『世界の調律』を借りてきてしまいました。馬鹿です。こんな400ページ以上もあり、ほんとうに誓子に関係あるのかよく分からないものを…。3週間で読めるのかなあ。


堀本●
すごい。誓子以上にモノマニヤックに包括的。

連作については、ご意見や関心は解ります。

「音」についてまずゆきましょう。でも、こっちの知識は皆無ですから…。

「騒音」のことで、400ページというところが貴下の貴下たる存在理由なのかな? だんだん解ってくる詠み手(誓子)と読み手(四童)の性格の絡みがおもしろい。


四童●
いや、読もう読もうと思っているうちに二十年、というのは換言すれば二十年間読みたいと思っていた本ということでもあります。なんだかとんでもなく大局的な見地から書かれていて、例えばこんなくだり。

音が発生時のひずみを完全にのがれるためには、音がわれわれが生まれる以前に生起しなければならないだろう。さらにその音が死後まで継続するとすれば、そこには何のひずみも入らないことになり、その音は完全なものとして解釈できるだろう。けれども、われわれの誕生以前に生起し、生涯を通じて全く何の変化も衰えも示さず、死後にも継続するような音は、われわれにはおそらく沈黙としてしか知覚されないだろう。
(マリー・シェーファー『世界の調律』エピローグ)

で、序章には「音楽のアポロン的概念とディオニュソス的概念」という説明があって、要約するとこんな感じ。

アポロン的概念:音楽は外なる音、神がわれわれに宇宙の調和(ハーモニー)を知らしめるために送った音。ピタゴラスの思想、中世の理論家たちの考え方(音楽が算術、幾何学、天文学とともに四学の一学科として教えられていた)、さらにはシェーンベルクの十二音技法の基礎にあるのもこうしたアポロン的音楽観である。

ディオニュソス的概念:音楽は人間の胸から湧き出てくる内なる音。不合理で主観的なもの。一九世紀から二十世紀の表現主義の音楽に至るまで有力であったロマン主義の芸術家による音楽表現はまさにディオニュソス的音楽観そのものである。

俳句も、このくらい大局的にとらえられたら面白かろうというものです。

 雁(かり)わたり手足を北にしてねむる  (昭和十二年)

身も蓋もなくその通りの句だともいえますが、なんともいいようのないペーソスを感じませんか。

二物衝撃に慣れた人なら季語の斡旋がどうのこうのと云うのかもしれませんが、決して二物衝撃の句ではないでしょう。


堀本●

 《病懶》
 寝て聞きし鞭(しもと)の音は焚火なり
 もの書きて端近(はぢか)くゐればゆく時雨
 鵙なけり髭を剃らめと思ふのみ

ある意味で、ニヒルな俳諧精神のもたらす平静感とみえますが、ここに聞き止められる「音」は切ないほど荒々しいです。音はAとBがぶつかるモンタージュ(二物衝撃)の結果ではなくて、すでにそこにあるポリフォニーとして認識されているのではないのですか?

誓子が世界を見る視点、は、案外感覚的な自分の内側に向き、また同時に世界の全体性を掬っているのですね。写生というのは、外界の即物描写の形で、じつは、言葉の網に捉えられた世界の姿を活写しようとしているのでしょうか?イメージ派との違いがあまりよくわからなくなってくるような、画期的な
読書会でした。四童さんすごい傾倒と勉強ぶり。

意見を引き出すのがたのしかった。とても、いいヒントを戴きました。

…しびれたぜ。





山口誓子『大洋』をめぐって●堀本吟 × 四童

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