2008-08-17

ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー 〔中篇〕小野裕三

ネット/デジタル時代における俳句のストラテジー 〔中篇〕

小野裕三


『豆の木』第12号(2008年4月)より転載



2. 俳句がインターネットに与えうる示唆


2-1. コンテンツ(創作作品)にネットが与える影響


ここまで、インターネットが俳句に与えうる影響を私見も含めてざっと概観してみた。ここからは、その逆の話について詳しく論じてみたい。

先ほど、インターネットが文芸(つまりテキストベースのコンテンツ)全般に与えつつある影響について簡単に触れた。既にいろんな領域の人がこのテーマを巡っていろんな関心を示していることは事実であり、俳句という領域においても例外ではない。文芸を含めた〝創作〟という領域は、ネット業界ではもっぱら〝デジタルコンテンツ〟の問題として論じられる。そして、このデジタルコンテンツ化によって、コンテンツ産業というものが今、大きな変動を迎えていることは間違いのないことだ。

コンテンツ(創作作品)という視点からは、デジタル化とネット化は無視できない大きな影響力を持っている。それは、表現力の大幅な向上と、その一方での制作と配信の徹底的な省力化・省コスト化である。

前者はCG技術の向上などが代表的なもので、わかりやすく注目されやすい現象でもある。だが、業界自体を揺さぶる革新に繋がりうるという意味では、実は後者のほうがインパクトが大きいかもしれない。もっとも有名な例として、一人制作のアニメーションとして有名な「蛙男商会」や新海誠氏などの作品を挙げることができる。

端的に言えばデジタル技術の向上によってこれまでは多人数の人手とそれなりの費用が必要だったコンテンツ(この場合は具体的にはアニメ)が一人でも制作できるようになったし、ネットインフラの整備によって一人でも簡単に配信できるようになった。要するに、まったくの一人で制作したアニメが広く世の中に知られて大ヒットに繋がるような素地が整い始めたのである。

そしてこのような〝一人制作・一人配信〟現象は創作という領域に大きな難問を突きつける。というのも、このような現象は間違いなくコンテンツの〝多産化〟に繋がるからだ。コンテンツを多産することがコンテンツ自体の質を上げるのか、あるいは逆に全体のレベルを下げてしまうのか、あるいははたまた多産化はむしろ新しいコンテンツの質すらも産み出しうるのか。

この問題は実はまだ始まったばかりなので、きちんとした回答は得られていない。ただ、ケータイ小説に対するさまざまな批評家や作家などの反応を見ていると、決して単純な肯定派が多いというわけでもなさそうだ。

ちなみに実はこの問題は、〝直接民主制は正義か?〟という、あの人類が長く抱え続けてきた課題と密接に結びついている。いわば、デジタル化とネット化が作り出した「リード/ライトのカルチャー」は、コンテンツ(創作)における直接民主制を可能にした。あらゆる人が自由に創作を行い、あらゆる人がその創作に対して接触し、評価を下しうる環境としてのネット社会。

と、ここまで長々と論じてきたのは他でもない。俳句というコンテンツ領域は、実はある意味でこの問題をかなり先取りしているのである。その理由は簡単で、とにかく俳句は短い。短いことについての評価はいろいろあるだろうが、少なくとも表面的にはとっつきやすい創作だということになる。従って、俳句という文芸は前述したように最初から「リード/ライトのカルチャー」であったし、最初から多産化の危険性をそのうちに抱え込んでいた。

つまり、今、デジタル化とネット化によってコンテンツ業界が直面している課題を当初から俳句は抱えていたのである。そして少なくとも僕の見る限り、俳句という文芸はそのような課題をかなり優雅なやり方で解決してきた。だからこそ、それは長い間日本人にとっての主要な文芸のひとつとして君臨し続けてきたのである。

そう考えるなら、俳句が作り出し洗練させてきたその知恵は、実はネット化・デジタル化を容赦なく受け入れざるをえないこれからのコンテンツ界を照らし出すひとつの指針、少し大袈裟に言うならひとつの〝世界モデル〟として看做すことができるのではないかと思う。


2-2. 詩嚢のデータベースとしての歳時記/季語


多産化にどう抗うか。考えてみれば、多産化自体が作品の質の向上に繋がるとも逆に低下に繋がるとも、どちらとも言い切ることはできない。それは後者の危険性を孕んでいるというだけで、やり方次第ではうまく前者のほうに誘導していくことも充分に可能なはずだ。要は多産化自体が悪なのではない。多産化をきちんとよい方向に誘導できる仕組みを持っていないことが悪なのだ。

多産化が作品の質に悪い影響を与えるとすれば、主に二点が考えられる。そもそもの創出機能の不全による全体的な作品自体の質の低下が一点目。それとは別に、生産される作品はそれなりに質を維持するが、それを選別し継承していくフィルタリング機能の不全による結果としての質の低下が二点目。そして、この二点に対応しているのが、それぞれ歳時記/季語というシステムと句会というシステムであると考える。

まずは歳時記/季語について見てみよう。多産化は必然的に創出機能の不全現象、つまり言ってしまえば〝詩嚢の枯渇〟をもたらしかねないということは容易に想像ができる。最初から多産化の危険を孕んでいた俳句という文芸は、そのような創出機能を体系的に整備することによってその危険性を大きく回避できることにやがて思い当たったのだろう。

その結果が、おそらく世界の文芸史上ほとんど稀有ではないかと思われる「歳時記/季語」という形で詩嚢をデータベース化することである。いったい、どこの国の詩人が自分たちの詩の歴史をキーワードごとにタギング(タグ付け)してカテゴライズしたデータベースにしようと考えただろう(そこでは、芭蕉や虚子や現代の俳人たちが同列になって整理されているのだ。このような景色を〝インターネット的〟と呼ばずしてどう呼べばいいのか)。

日本の詩人たちがこのようなデータベースを作り上げた大きな理由とは、多産化に抗う詩嚢のデータベースとしてこれを活用するためではなかったのか、と僕には思えてならない。このような詩嚢のデータベースは、もちろん季語というキーワードによってタギングされているのだが、そこで機能する詩嚢とは「季語」という言葉の性質上、絶えずそれはある空間を参照するものとなる。結果として達成されるのは、言語空間と生活空間を相互に往還することによる詩的空間の精密化である。

面白いことに、タギングのキーワードでもある季語は、単なるタギングの手段だけでなく、詩語としての継承も要請されている。先行句を整理し、それを提示しながらしかも類想にならないようにという条件つきでそのキーワード(季語)自体を作品の中に埋め込んで作品を作るべし、と規定されているのである。

無秩序な地平で着想を得、しかも新しくあることを要求される創作一般の状況と比べて、なんとそれは秩序立ったやり方なのだろうか。かくして、世界最大かつおそらくは唯一の秩序立った詩嚢のデータベースである歳時記は、多産化に抗いうるもっとも有効な俳句創出機能として働く。

歳時記という知恵は、現状でもそうであるように、これからも考えうる限りでの最高の詩嚢のデータベースとして機能し続けるだろう。これは僕の持論なのだが、季語をルールだと考えること自体がそもそもミスリーディングである。それがルールだと思うから不必要な反発や、逆に不必要な固執を招く。

季語はルールではなく、現時点において俳句にとってのもっとも有効かつ整備の行き届いた詩嚢なのだ。このような姿は俳句という文芸の最大の美点であり、そしてそれは、デジタル化/ネット化によって不可避的に多産化の波に巻き込まれていく他の文芸やコンテンツにとって、ひとつの明るい未来の〝世界モデル〟たりうる可能性を確かに持っているのだ。


2-3. 句会というアルゴリズム


次に、もうひとつの俳句が産み出した知恵を見ておきたい。それは、多産された作品をいかに選別し継承していくかというフィルタリングの機能に属する問題である。

歳時記/季語というシステムを組み込むことによって、俳句は多産化によるそもそも生産される作品自体の質の低下からはかなりの部分救われることかできた。だが、それとは別の問題があって、そうやって生産された作品を適正に選別して評価し、さらに次世代へと継承させていくことができるかどうかというのは詩嚢の問題とは違う次元に属する。

作品を選別するという意味で、これほど効率的かつ公平なシステムを作り出している文芸もまた、俳句以外になかなか世界中を見渡しても存在しないのではないのだろうか。立場やレベルを超えて一律に無記名で出された作品に対して、投票をすることによって作品の価値決定・選別の大きな一助にしようという句会という方法は、実によくできた冴えたやり方である。さまざまな理由があるのだが、他の文芸もしくは創作ジャンルで同様の無記名・無差別投票による作品評価を行っているジャンルはなかなかないのではないだろうか。

しかも、さらに冴えているのは多数決を全てとは考えていないという点にある。つまり、句会で高い点を取る作品は優れた作品である可能性が高いが、それが評価のすべてというわけではない。句会で点数を集めることは評価の大きな一助ではあるが、その他の〝目利き〟(多くは結社の主宰やその他の幹部、ベテラン)の評価も作品を評価する大きな要因となる。

この方法論で語られている思想は明確だ。コンテンツの選別にとって、多数決(直接民主制)は大きな一助にはなっても、それ以上のものにはなりえない。ここには、「ケータイ小説」などの登場によって初めて直面した〝コンテンツの直接民主制〟に戸惑っている他の文芸を先取りする経験と知恵が既に内包されている。

ちなみに、このようなコンテンツの〝直接民主制〟を巡る問題、もしくは「リードオンリーのカルチャー」から「リード/ライトのカルチャー」への移行という問題、これらの問題群は違う言い方をすれば「大衆性」と「芸術性」をどのように調和(もしくは整理)させるかという問題とも通い合う。

インターネットの登場による〝直接民主制〟的なものがさまざまに登場する中、ひとつのコンセンサスめいたものは確かに生じつつあって、それは「みんなの意見は案外正しい」ということだ。ネットを通じた集合知もしくは直接民主制によって産まれてきた結論は、案外正確で本質を突いていることが多いのである。

しかし、もちろん、それがすべてではない(現に、サイバーカスケードと呼ばれるような弊害も一方で指摘されている)。特に芸術に関しては結論を急ぐことは危険だ。「みんなの意見は案外芸術的だ」という結論がありうるのかどうか、つまり多くの人に支持されることが芸術の充分条件なのか、それは未解決の問題である(実際、「ケータイ小説」を巡る議論の核心はここにある)。

このようなことが、インターネットの世界において浮上しつつある「芸術性」と「大衆性」の問題である。

そして実は、俳句をめぐって既に「大衆性」と「芸術性」を両立させる文芸たりうるという議論があることは周知のことだろう。インターネットによる変質の波をさまざまなコンテンツ(文芸も含む各種の創作領域)が受けつつある中、この問題はあらゆるコンテンツ領域において今後不可避の課題となっていくはずだ。そのとき、その問題を既に(ある程度)優雅な方法によってその身の内で処理している俳句は、まさに時代を導くひとつの〝世界モデル〟たりうる資質を持っている。

ところで僕がこの句会における選別と継承の方法を考えていたとき、何かそれに似ていると思い当たるものがあった。それは、実はグーグルの検索エンジンが持っているというアルゴリズムのことだ。

グーグル登場以前の検索エンジンはきめわて精度が悪いというか、なかなか欲しい情報が出てこない傾向があった。その頃の検索エンジンは、情報を機械的にキーワードをベースにして選別し一覧化することはできても、その情報の価値の優劣を判別することに長じていなかったため、検索結果の上位に〝役に立たない〟ような情報が並んでしまったのだ。

そんな中にグーグルが〝役に立つ検索エンジン〟ということで登場してきたのはそんなに古いことではない。検索してみると、確かに役立つ情報が上位に表示される。今や検索エンジンの代名詞、さらにはWeb2.0の代名詞のような存在にすらなってしまったグーグルだが、彼らがここまで成長したのは、そもそもが人為的な評価に委ねられるはずの情報価値の優劣の評価をも自動的に判別するような仕組みを創出してしまったことにある。

と言っても、グーグル自体がコンテンツの中身を理解して判別しているというわけでもない。要は、外部評価という視点を導入したのだ。例えば、そのサイトに対してどのくらいのサイトがリンクを張っているか、またメジャーなサイトからリンクを張られているか、そういったことを数値化することでそのコンテンツの良し悪しの近似値に近づくというわけだ。そのコンテンツがよいものであれば、メジャーなサイトからもリンクが張られるだろうし、さらにそれ以外の多くのサイトからもリンクが張られるに違いない、という質と量の両面からの発想がそこにはある。

そしてこの発想は、先述した俳句が選別されていく句会というシステムにとても近い。よい俳句と評価されるものは、多くの人に評価されること、そしてその中でも特に有力な人に評価されること、という二つの原則の並立に基づいて選別されていく。句会というアルゴリズムは、グーグルの検索エンジンが持っているアルゴリズムと基本的に同質なのである。

そして、この発想は「大衆性」と「芸術性」というあのテーマにもどこか通じる。「大衆性」と「芸術性」を両立させるための句会というアルゴリズムとは、その思想がグーグルにおける良質な情報のランキング付けのためのアルゴリズムと極めて質が近い。ここでも再び、我々は俳句の風景が不思議と〝インターネット的〟であることに気づくだろう。


2-4. 俳句的世界モデル


ところで、このようなインターネットと俳句の風景の同質性は一体何を意味するのだろうか。

Web2.0の覇者ともされるグーグルの中核とも言うべき検索エンジンのアルゴリズムと、俳句において長い時間をかけて洗練されてきた作品(情報)の選別と継承のシステムが非常に単純かつ洗練されたモデルとして、その思想を共通させていること。その類似に過剰な意味を読み取ろうとするのにはどこか身内贔屓めいてもいて、いささかの躊躇いがないわけでもない。

だが、歳時記というきれいにタギングされた詩嚢のデータベースであり、あるいは句会という簡素に洗練された情報(作品)フィルタリング機能、それらのものを見ていると俳句という文芸は非常にネット的な文化と親和性が高いように感じる。

ここで再び繰り返すが、俳句がもともと持っていた風景は、インターネットという世界の風景と実に近しい。情報をベースとした世界観のようなものが、そこではどこか共通しているのである。そしてそれは、決して理由のないことではない。確かにそこには情報に対する世界観を巡っての親和性があるのだ。そこでは、インターネットにおけるさまざまな技術はこの際関係がない。

そのような共通性をもたらしているのは、俳句が「短い」という、その単純な理由による。実際、ネット時代の到来によってコンテンツの「マイクロコンテンツ」化が起きているとの指摘がなされることがある。そして、技術的なことを抜きにしてネット化が情報もしくはコンテンツというものに対して大きな影響を与えたとすれば、まさにこの一点にある。

細分化された固有の情報が一個の独立した情報自体としてネット空間の中で存在し、そして相互に連携しあう(たぶん、パーマリンクのようなものの登場がそのことをもっとも典型的に支えている)。短く独立した固有の情報同士が相互に参照しあうことによって総体としての情報世界を作り上げていくネット的世界観とは、おそらくは世界最小の文芸としてもっとも短い情報単位を持つ文芸世界である俳句が持っていた世界観とは極めて近しい。

さらにその「短さ」がもたらす「リード/ライトのカルチャー」あるいは「データベース的世界観」といった風土の共通性もそれに相乗し、いよいよそれぞれの風景の類似度は増していく。実は多産化といった先に触れた現象も、このような世界観自体の類似性が招来する結果的現象に過ぎない。

そして今起きつつあることは、このようなネット的世界観にさまざまな領域が次々と呑み込まれ始めているという現象だ。

さまざまなコンテンツの領域が、もっと言ってしまえばさまざまな文芸の領域が、このようなネット的世界観にいやおうなしに適応していく必要が生じている。当然、その馴化の過程でさまざまな軋轢も起きるだろう(例えば「ケータイ小説」を巡る戸惑いの言葉も、そのような軋轢のひとつのバリエーションに過ぎない)。

だが、興味深いことに俳句という文芸はそのような新しい情報世界の世界観と共通するものをもともと持っていた。それは別に、俳句という文芸が他と比較してもともと優れていたからとか、そういう理由によるのではなく、単に俳句という文芸が「短い」ものであったという、その特徴の自然な帰結に過ぎない。

しかし、仮に理由がそのようなものであるとしても、事実として俳句的世界モデルはネットが作り出していこうとしている新しい情報世界のモデルと極めて近しい面を持っている。そこで僕が夢想しているのは次のようなことだ。

長い時間をかけて洗練されてきた俳句的世界モデルが、新しい時代のコンテンツ界におけるひとつの模範のようなものとして機能できる可能性は高い。あるいは、俳句界自体もいささかその生態系を変化させる必要があるとしても、もともとの世界観自体に親和性が高い以上、その適応力は高いはずだし、その適応の仕方自体もあるいは他のコンテンツジャンルに対してひとつの新しい規範たりうるのではないか、と……。


2-5. コンテンツ産業としての俳句


そして、そのように考えるのは夢想ばかりでもない。例えば、こんな視点でも考えてみよう。つまり、コンテンツ産業としての俳句。

実は今、ネット化・デジタル化の大きな波の前にコンテンツ産業というビジネス自体が大きな岐路に差し掛かりつつある。それは、書籍だけでなく、音楽や動画も基本的にそうだ。デジタル化とネット化によって複製と配布がこれまでに比べて格段に容易になったため、著作権の管理がきわめて難しくなった。

著作権は、当然その対価としての収入に結びついているし、したがってそれがコンテンツ界というもの自体を産業として成立させていたのであるが、今の時代におけるそのような著作権管理の難しさは、それを産業として成立させている基盤をも揺るがしかねない。そこで、デジタル技術を活用した著作権管理技術(DRM)の向上の一方で、著作権概念自体の変革、もしくは著作権という概念自体をそもそも撤廃してしまおうというラディカルな発想も産まれつつある。

それと並行するように、新しい時代のコンテンツ産業をどのような形で産業として成立させるか(端的に言えば、どのようにビジネス化あるいはマネタイズするか、つまり優れたコンテンツを作る組織や人間に対してどのように収益を還元するか)、ということに対するさまざまなアイデアも提言されつつある。その背景にあるのは繰り返すが、著作権を管理することによる対価としての収益という構造がデジタル化・ネット化するコンテンツ界にどこかそぐわないものであるという理由による。

そのような視点から考えたとき、俳句は再び示唆的な世界を提示する。他のコンテンツ産業は、著作権管理されたコンテンツとその対価としての収入というビジネスモデルにほぼ則っている。文芸も例外ではない。本の売上げが書き手の生活を支えるというのは、多少のバリエーションはあっても文芸という産業の基本的な構図だ。

だが、その構図から考えると俳句という業界はかなり例外的である。句集の売上げで生計を立てる、つまりそれをビジネスとして成立させるという発想を最初から俳句は否定している。それもまた、俳句が極めて短いコンテンツであるということにどこか由来しているのかも知れない。作品に接触した瞬間に観賞が完了してしまうコンテンツである俳句は、接触→購買→観賞という通常のコンテンツ産業のサイクルが極めて成立しずらいジャンルとも言える。

世界最小の文芸である俳句とは、つまりおそらくはそれぞれの作品が世界最小の著作権でもあるが、しかし逆に最小であるがゆえに著作権としての役割をコンテンツビジネス的な観点からはそもそもほとんど果たしえていないとも言える。

それでは、俳句というコンテンツ産業は、どのような産業としてビジネス化(マネタイズ)されているのか。いくつかのパターンがあるのだろうが、典型的には結社を組織すること、もしくは入門者・初中級者を教導すること(町の小さな教室から、入門書の執筆、さらには新聞などの選者に至るまで)、という二つに大別できるだろう。

どこかボランティア的というか、ある種の〝尊敬(リスペクト)〟を軸とした非対称の関係をマネタイズの源としている。実はこのようなあり方が、現在、ネット化・デジタル化が進行する中で議論されつつあるビジネス設計の手法とどこか近しいものに映る。そこでも、リスペクトを契機とした新しいビジネスのあり方が模索されているからだ(例えば、オープンソースと呼ばれるような現象の根幹はこのようなリスペクトにある)。

少なくとも、コンテンツ(俳句)を観賞の対象として提供することの対価として収入を得るという発想を俳句は最初から大部分放棄している(ごく少数の例外を除く)。これもまた、今のコンテンツ業界の視点から見ると逆に実に未来的でもある。


(次号に続く)



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