2008-09-28

鷹女への旅 第1回 三宅やよい

 鷹女への旅

 第1回

 夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり

 三宅やよい

初出『船団』第64号(2005年3月1日)


プ ロ ロ ー グ

うかつに近づけばぴしゃりとやられそうな断定の強さ。前面に押し出される烈しい自我。こうはっきり言われては、デリケートな表現を愛し、平穏をよしとする俳人には苦手な人も多いだろう。回りの俳人に聞いてもストレートに「鷹女、いいねぇ」と膝を乗り出す人より、「鷹女、うーん、いいんだけどねぇ…」と語尾を濁す人が多い。「ストイック」「孤独」「潔癖」。誰にも寄りかからない鷹女の凛とした句は好きであるとともにある種の近寄り難さを感じさせる。

でも、本当のところ鷹女ってどんな人だったのだろう。二年前東京に来た私は、鷹女が住んでいた家が裏道をたどれば自転車で二十分ばかりのところであることに気付いた。今もその場所に家があるかどうかわからないが、これも機縁。鷹女が後半生を過ごした武蔵野の土地を歩き回りながら鷹女になじんでいけたらどんなにいいだろう。鷹女の人となりを調べてみたいな。漠然と思い始めた。

五月二十一日(金)

ところで、鷹女を調べるって言っても、どうやってスタートを切ればいいの? ドシロウトの私は途方にくれるばかり。何から手をつければいいのかわからない。試しにインターネットで検索してみることにする。鷹女についてのサイトは二百件あまり。一件ずつサイトを覗いてみる。

その中で成田市役所の広報『成田』に掲載された「三橋鷹女とゆさはり句会」という記事に惹かれた。どこの結社にも属さず「孤高の俳人」と認識されている鷹女が最後まで指導を続けたのが日鉄鉱業の社内サークルだったことがミスマッチのような気がして不思議だ。記事を書いた方と話してみれば、何かわかるかもしれない。まずは成田市役所の広報課に電話をかけてみることにする。

成田市役所広報課で鷹女の記事を書いたTさんと話す。成田では一九九八年十二月、三橋鷹女の像を建立している。そのとき「ゆさはり句会」のメンバーや、鷹女の関係者から詳しく聞き取り調査をされたそうだ。とりいそぎ成田に出向いてお話を伺うことにする。


成 田 へ


五月二十五日(火)

初夏の光りがまばゆい火曜日。初めて成田を訪れる。

七十年代に学生時代を送ったものには、成田という地名には特別の響きがある。最後の最後まで滑走路の建設に反対した農民達が地面に打ちつけた杭に身体を縛り付けて立ち退きを拒否した姿が残像として残っているからだ。当時は大学の中にも成田があった。開港が決まった日、ヘルメットをかぶって学内闘争していた友は「もう一生海外へは行かない」と言った。大学を中退して故郷に帰ったあの人は今頃どうしているのだろう。船橋を過ぎると車窓の風景はずっと田舎めいてくる。低い里山の麓まで瑞々しい植田の続く田園地帯。東京から一時間とは思えない景色だ。

京成電鉄「成田」駅で降りて、まずは成田図書館を訪ねてみることにする。駅からバスで十分あまり、三階建ての立派な図書館だ。カウンターの人に頼んで鷹女の資料を出してもらう。第一句集から最後の句集まで並べて見ることができる。写真を撮りたかったが著作継承者の許可がいるようだったのであきらめた。

机に鷹女関係の資料を積み上げてノートをとっていると、隣に座っていた六十ぐらいの眼鏡のご婦人から、
「鷹女を調べていらっしゃるの?」と声をかけられた。

「私は短歌をやっているけど、鷹女の句はとても好きですよ。鷹女さんの家は近所だったし、うちの主人が鷹女の像の建立のとき発起人に入っていたから」

これもご縁といろいろと成田についての話を教えていただく。ご主人は全国の文学碑を調査する郷土史家だそうで、本も書かれているという

「鷹女にはもうお会いになりましたか?」
「成田に来てすぐ図書館に来たのでまだです」
答えた私に、
「是非会ってやってください」

鷹女への愛情と親しみが感じられる柔らかな口調で、鷹女像のある場所を教えてくださった。三橋家や「ゆさはり句会」について知っていらっしゃる図書館の方がいらしたので少し話してみる。

「関係者の電話番号をすぐにはお教えできないのですよ。あなたのことを向こうの方に承諾してもらって電話番号をお知らせしていいかどうか許可をとってからでないと」

とりあえず怪しいものではないと信じてもらえたからいいようなものの、肩書きや名刺を持たない無名の私が一人の俳人を調べてゆく難しさをつくづく知らされた。客観的に考えれば見ず知らずの人間に個人情報をうかつに教えられないのはまったく正当であるのだけど。あちらから連絡がなければ、これで壁につきあたってしまうかもしれない。初めて会った私のために連絡をとっていただけるというご好意に感謝して、あとは待つしかない。

四時過ぎに図書館を出たあと、勧められたとおり鷹女の像を見て行くことにする。JR成田駅を迂回して表参道を五分あまり歩く。平日なのにお年を召した参拝客があちらこちらに団体で歩いている。初めて来た道は遠く感じる。駅前のカメラ屋で、一本道だと聞いていたのに、像らしきものはどこにもない。漬物屋の前にいる地元の人らしきおばさんに確かめてみる。

「ああ、着物きた女の人の銅像やったら市営駐車場のすぐ前に立ってるわ。ほらその病院の看板少し過ぎたところ」

銅像はあっけないほど近くにあった。等身大の鷹女の像は三十代後半の美しい姿を写したもの。若い頃の鷹女はほんとうに美しい。ほっそりとした輪郭に黒目勝ちの目は遠くを見つめているように潤み、かすかな微笑みを含んだ中世のマリア像のような表情が印象的だ。その鷹女の姿を忠実に写しとろうとしたのだろうが、残念ながら迫力と存在感に欠ける、等身大でなくてももっと鷹女の魅力がにじみ出るような力強い表現にしてくれればいいのに。でも、しとやかに微笑んだこの像が、理想の「鷹女さん」として地元の人たちに慕われているのなら。それもまたいい。台座に掘られた紅葉も、

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

…の句も折からの夕日に照らし出されている。成田が好きだった鷹女はここに立って、朝に夕に門前町に集う人々の行きかえりを見守っているのだ。だんだん暗くなってきたので、駅前に出る裏通りを帰る。黒地に金の和菓子屋の古びた看板が街灯に浮きあがり、ひときわ美しく感じられた。


成 田 ふ た た び

六月二日(水)

だいぶ成田に行く要領がわかってきた。日暮里から一時間かけて急行で下るのも、この間より短く感じられる。

成田市は新勝寺の参詣がさかんになるにつれ発達してきた江戸時代からの門前町。旅籠屋や飯屋といった商売中心の場所であり、まわりの田園風景とはまた違う印象がある。JRの駅から続く、広い参道の両側にずらりと土産物屋が並んでいる。京都や奈良と違って袖を引かんばかりの呼び込みは少ない。目が合えば仕方なさそうに、「どうぞ寄っていってください」と声をかける程度。外に出てのんびり近所の知り合いと話し込んでいる店の主人らしき人もいる。道端で大きな声を張り上げているのは、携帯電話の広告チラシを配っている赤い半被姿の若者だけだった。

新勝寺にお参りして参道を下る。確かこのあたりが鷹女の住んだ田町なのだが。脇道に逸れてしまったらしく、山際から遠ざかった国道に出てしまった。もう一度やり直し。神戸生まれの私は海が南、山が北、高架を走る電車が東西と方角を考える必要もなく育った。そのおかげでちょっと路地に入るだけでたちまち方角を見失ってしまう。

六月だというのに照りつける日差しはすっかり真夏。

やり直した道からまっすぐ坂をあがって小高い丘にある成田高校を見つける、近くにあった鷹女の生家の家屋敷はもうなく、いまは駐車場になっている。(鷹女の生家があった土地は鬼澤家に譲り渡され、駐車場の奥にある鬼澤家の家の間取りは昔の三橋家をそのまま復元したものらしい)家を基点に娘時代の鷹女が図書館に通った道を地図で探す。先ほどお参りしてきた新勝寺には図書館のある山を回ってすぐ裏手から境内に通じているようだ。

成田高校裏門へ巡り、まずは鷹女の墓のある白髪庵墓地へ。たくさんの折鶴と色とりどりの風車をさした水子地蔵。そのすぐ脇に二手に分かれた墓地への道が続く。傍らの建物にいる管理人らしき小母さんに鷹女の墓を聞く。

「ああ、鷹女さんね。この細い道をまっすぐ行った突き当りですよ。」

教えてくれるままに右手の脇道を行く。鬱蒼と木が茂った墓地は昼でも暗い。三橋はこのあたりの名家なのだろうか。大きな墓が幾つもある。鷹女の墓のそばには句碑があると聞いているから、すぐわかるだろう。ずんずん行くと突当りに柵で囲まれて南京錠のかけられた墓があった。ちょっと気が咎めたが、誰も見ていないのを幸いに柵を乗り越える。

「三橋之塋」と書かれた四角い御影石の墓の左側に霊標と右側には、

鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ

…の句を刻んだ自然石の句碑。

四方は林でさえぎられているものの墓地の一番端にあるせいか、ぽっかりと日当たりがよい。すぐ隣にある高校から生徒達の賑やかな声が風にのって聞こえてくる。ここならば鷹女も寂しくないだろう。

「鷹女さん、お会いできますように、いい俳句が作れますように」

ちゃかり自分の願いも混ぜて、墓の前でしばし手を合わせてお参りをする。今度来るときにはちゃんと花を持ってこなくっちゃ。

帰りに成田市役所のTさんを尋ねる。私が来るのにあわせて、貴重な聞き取り調査の分厚い資料をすべてコピーして準備しておいてくださった。

「鷹女像建立の折に関係者がお集まりのときに、いろいろとお話を伺うことができました」
「私は俳句のことはまるでわかりせんが、聞き取り調査をして鷹女の半生を知ってゆくととても興味がわいてきました」

柔和な顔つきで淡淡と話すTさんの堅実なお仕事に頭が下がる思い。この聞き取り調査ののすぐ後に鷹女の一人息子陽一さんが亡くなられたそうだ。

「鷹女像建立のあと、図書館に講演に来てくださった中村苑子さんもあの後すぐに亡くなられました」ぽつんと呟かれる。

資料をいただいたうえに、関係者の方に連絡をとってくださるというTさんに御礼を申し上げて市役所を後にする。帰りの電車の中で鷹女の資料を読みながら、鷹女が故郷の人たちに忘れられずに大事にされている幸せを思った。


鷹 女 と 成 田

おほかたは仏門にまし秋の人(ふる里詠草) 霊地として知られた成田の町は狭いところではありますが、かつて荒い風雨に見舞はれたこともなく、人々の心も春のような和かさであります。ふる里を離れて生活してゐる者に取りふる里は常にうるほひの泉です。母のふところです。ともすれば荒みゆかふとする私共の心をしづかに清らかに守りいつくしんでくれる処が故郷の外にあらうとは思ひません。路傍の草の葉揺れにさへそのかみの夢は愛しくもまざまざと呼び出づるではありませんが。よきふる里を持つ私は幸福でございます。『小野蕪子先生を郷里の俳壇にご案内して』

鷹女にとってこんなにも懐かしい故郷成田とそこでの生い立ちをしばらくは追ってみたい。

新勝寺住職石川照勤は、明治二十七年アメリカ、ヨーロッパをめぐり欧米の学校と教育制度を視察して三十三年帰国。成田五大事業といわれる教育文化事業を起こした。これによって成田中学校、女学校、図書館、幼稚園、感化院が建設された。鷹女の父重郎兵衛は新勝寺重役でもあり、成田市助役を務めた人物でもあった。娘を当時は珍しかった幼稚園に入れ、成田女学校に通わせたのも、自分がこの事業に深く携わっていたからだろう。

三橋家には数代に亘って歌人が出ており、この家に養子に入った重郎兵衛も号を「文彦」として短歌をたしなんでいた。祖父貫雄、曽祖父鶴彦も短歌に造詣が深かった。父の出身である神山家には田園歌人と呼ばれた神山魚貫がいる。(父文彦はこの歌人の弟子であった、)幕末から明治の初期にかけて活躍したこの歌人は師匠を持たずに独学で歌を作り上げた人だそうで、この孤高の精神は鷹女につながる。その名は近在のみならず日本全国に渡っていたようだ。

「苔清水苔つたふ岩間の清水せき溜めて独りすむにはたれる庵かな」『苔清水』

こうして、鷹女は幼い日から、和歌の朗詠を耳にし、枕元に置かれた屏風の色紙、短冊に和歌のちらし文字を眺めながら、眠りについたと、自筆年譜に書いている。(この屏風は寝るときに頭の周りに巡らせるぐらいの大きさで、三橋家の話によると鷹女が成田の家を整理したとき懇意の近所の家に引き取られたという)父、兄ともに短歌をたしなむ。この鷹女の生家の雰囲気を思うと、鷹女が言葉に鋭敏で、言葉の持つ力を何よりも大切にした気持ちがわかるように思う。

明治三十八年四月に成田幼稚園が設立されると同時に鷹女は入園する。まるで鷹女の成長にあわせて成田の教育環境が整備されてゆくようだ。一般の庶民が子供を小学校にやるのがせいいっぱいの時代に、幼稚園は珍しかったろう。全国から連日のように参観者が来たという。

モダンに完備した園舎に毎月二十円の給料をもらう保母が園児達の面倒をみた(明治三十五年東京の中心地で亡くなった子規の月給は四十円だった)。この幼稚園は成田小学校内にあったそうで、鷹女の自宅からこの小学校まではけっこうな距離がある、もともと病気がちだった鷹女も幼稚園、小学校と子供の脚には遠い道のりを通うことで自然と丈夫になったのだろうか。欠席も少なかったようだ。写真を見ると目鼻立ちの整ったかわいらしい顔をしているが、大人があやしてもにこりとも笑いそうにないきかんきが、まっすぐ見開いた目のあたりに感じられる。

余談だが、この時期、近くにある成田中学校には明治四十一年から四十四年にかけて「赤い鳥」の鈴木三重吉が教頭兼英語教師として赴任している。漱石門下でも有名な喧嘩っ早さを持つ三重吉は同僚達にも手を振り上げ、授業は厳しくどしどし落第させるので反発した生徒達が大規模なストライキをしたりしている。前述の新勝寺住職石川照勤は理事であったが、三重吉の才能を高く評価していたので辞めさせることはなかったが、三重吉は自分から教師稼業に見切りをつけ、以後文筆生活に専念することになる。

「学校は不動さんの寺で立ててゐるのだ。不動さんは年々二十五万の浄財を得る。その中で幼稚園、図書館、女学校、中学校を立ててゐる。而も宗教的の分子は更らにない。土地はみんな宿屋ばかり」と成田の印象を書き記している。(『三重吉と成田』)

石川照勤は見識の高い人であったので教育事業を完成せせてゆくために東京から優れた人材を抜擢してきた。

明治四十五年に鷹女は成田高等女学校に入学。恵まれた環境のもと、多感な少女時代を送ることになる。



(つづく)

1 コメント:

A.M. さんのコメント...

ライブ感溢れますね。
ドラマを見ているような導入です。