〔週俳8月の俳句を読む〕久保山敦子
秋の夜長のせいかもしれない
人ばかり映す姿見夜の秋 山口優夢
自分が自分であることの不思議を思ったのはいつごろだったろうか。
鏡に向かった時に、それが自分であると認識するのは人間の他には、チンパンジー、オランウータン、イルカ、ゾウ、などがいるらしい。
人間は他人と対するときに自分の顔を意識する。だから鏡を見て人にどう映るかを確認するのだ。
掲句では「映る」ではなく「映す」。まるで鏡に意思があるようだ。人がいないときにはまるで素知らぬ顔をしているような「姿見」である。
「鏡」といえば、中村苑子の〈貌が棲む芒の中の捨て鏡〉があるが、「捨て鏡」ほどの怖さを感じないのは、「姿見」の擬人化のせいかもしれない。
「自己意識」ということを思うとき、宇宙的なことにまで思いが広がっていく。
「夜の秋」はそんな哲学的な思索にもふさわしい。
水音のひしめいてゐる夏休 山口優夢
のうぜんのおぼるるやうに開きけり
「ひしめいてゐる」「おぼるるやうに」の言葉を得たときの手ごたえは、どのようなものだったのだろう。一気に書きとめたとすれば、なんともうらやましい。
「水音」は戸外であれば、滝や川、海、プールなど、生活の中では台所、シャワー、打ち水など。それらの音が「ひしめいてゐる」というのだ。いきいきと活動的な夏休。
「のうぜん」というと中村草田男の〈凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリア〉を思い浮かべる。のぼりつめ、垂れ下がる肉厚の朱色の花は、どこか官能的。
「おぼるるやうに」が心理的な様相を帯びてくる。
ゆく夏のシンクに水の伸びゆける 山口優夢
長き夜のどこもきしまぬ廊下かな
二句とも視線がすーっと伸びていく。
蛇口から出た水が、シンクのゆるい傾斜にそって排水口まで導かれる。「ゆく夏」の「ゆく」と「伸びゆける」の「ゆける」を重ねることで、夏の終わりを水の行方というイメージに定着した。
「長き夜」の句も、「廊下」の長さが見えてくるのである。「どこもきしまぬ」ということから、縁側の廊下というよりも、マンションなどの部屋と部屋の間の廊下を思い浮かべた。
台風や薬缶に頭蓋ほどの闇 山口優夢
圧巻はこの句。このごろ薬缶を見ると、頭にかぶっている自分を想像してしまう。
宇宙的に見ると、地球上のどこかで起る自然現象も、地球を出るわけではない。
水を湛えた地球で水が循環しているだけのこと。薬缶の中で滾る湯は、薬缶の中のできごとだ。
それにしても「頭蓋ほどの闇」というのは不気味である。宇宙がひろがってゆくものか閉じているものか知る由もないが、薬缶の内側が宇宙を抱えているようにも思えてくる。そしてそれを見下ろす眼がある。まるで宇宙を統べる創造者がいて、すべを見通しているような・・・・
こんなことを考えるのも、秋の夜長のせいかもしれない。
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2008-09-07
久保山敦子 秋の夜長のせいかもしれない
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