2008-10-19

〔週俳9月の俳句を読む〕澤田和弥 呼び鈴

〔週俳9月の俳句を読む〕
澤田和弥

呼び鈴



星合のPCぽろろんと灯りぬ  池田澄子

今更書くまでもないことをまずは書いてみたく思う。
「作者は○○○のように感じた。だから~」というような鑑賞文。
作品は発表と同時に作者の手を離れ、鑑賞者たちの手へと委ねられる。
だから作者がどう感じたかは鑑賞者が勝手に思うところであって、実際に作者がどう感じ、どう考えてその作品を制作したかは鑑賞の場ではあまり関係ない。
鑑賞者が好きなように鑑賞すればよいことであって、「それは深読みしすぎ」などというのは全くもって大きなお世話である。
また、その句の主人公が作者だとは限らない。
年齢も性別も性格も何もかも超えて、句の中に主人公が現出される。
だからこの句の主人公を池田澄子氏と考える必要はない訳で、深読みだろうと何だろうと私なりの鑑賞を記したい。

ここまで来て、冒頭でも書いたように今更書くまでもないということがお分かりいただけただろう。
わざわざそんなことをなぜ書いたか。
答えは簡単だ。自己弁護のためである。
では本題。

この句の舞台は食卓である。

食卓と言って頭に浮かぶのは食事が並べられた卓である。
しかしそこには食事どころか、大きなテーブルクロスが掛けられているだけで何もない。
クロスはさきほど新しいものを掛けたので、全く染みのないきっぱりとしたものである。
しかしそこだけが真新しく、よく言えば生活味のあるこの部屋にはふさわしくないものかもしれない。
前にクロスを換えたのは昨晩である。その前が一昨日の夜。
つまり毎晩夕食後に換えている。
夫には「最近、なんだか私、神経質なのよ」と言ってある。
妻への関心などとうの昔に捨てている夫は新聞紙越しに「ふーん」と言っただけであった。

夫が眠りにつくと彼女は明かりのない食卓でノートパソコンを開く。
アルバイトのお給料を貯めて、或る安売り家電店で買った。
アルバイトは家庭用電話機のコードに巻き癖をつけるというものである。
単調な仕事ではあるが、根気さえあれば新たに知識をつける必要もなく、楽といえば楽である。
電源を入れる。画面いっぱいにパソコン会社のロゴが現れる。急に目の前が明るくなる。
最初は頭がくらくらしたが、最近ではそのくらくらを楽しめるようになってきた。
なんだかよくわからない英文が現れたり、消えたり。
5分ほど待ち、インターネットのマークをぱちぱちとクリックする。

「星合」という言葉を先日初めて知った。
最近マンネリ気味のクイズ番組で言っていた。
七夕のことらしい。彦星と乙姫が一年に一回だけ逢うことができる日。星合。
私も一つの星なのかもしれない。妻は思う。
本当の私はとてもとても輝きつづけているのに、地球へと届く光は空気などに邪魔されて弱まり、またたいているようにしか見えない。
本当は、あんな鼻毛ばかりが伸びて、頭の毛がどんどん薄くなっている亭主の女房になんてなるはずではなかった。
幼少の頃、白馬の王子様に憧れた。きっといつか、本当の私に恋をしてくれる人が現れる。
本当の人生を歩ませてくれる人が現れる。
私には本当の愛が必要なのだ。

パソコンが灯るときのぽろろんという優しい音。
それは毎晩私が本当の世界へと入っていくときの呼び鈴なのかもしれない。
ぽろろんと竪琴を弾く王子様がこのコードの先で私を必ず待ってくれているのだから。



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