〔週俳9月の俳句を読む〕さいばら天気
だいじなのは愛嬌
音速を超えることなし秋の蟬 桑原三郎
いや、あの、ですね。超えない、というより、むしろ、音速とぴったり同じなんですけど? 蝉の声は。
「声」と読まない読み方もあることは承知のうえで、基本的に、音は音速を下回ることも上回ることもない。と、こう書くよりも、やはり、卑俗にクダけて、今様の口のききかたで、「てか、同じだし。超えないし」と反応したい。
足音は前を歩かず盆の月 桑原三郎
この句も同様。他人の足音と読む読み方もあることを承知しつつ、自分の足音と読めば、感興の質は違ってくる。「てか、足音は、前でも後ろでもなく、ぴったり足下なんですけど?」
物には言いようがあるものだ、それもかなり素っ頓狂で強引な、と、愉快になってくる。
さて、関西には「しょーもないこと言い」という語がある。「つまらないことを言う人」の意。非難の含意はあまりない。それが証拠にこれを言うときは必ず笑顔でである。愛情を込めて、「『しょーもないこと言い』か?」と受け止める。
「しょーもないこと」は、その人の愛嬌ともいえる。愛嬌を、言われたほうもまた好ましい弛緩をもって受け止める。
ただし、場をわきまえない、あまりにしつこいなどが理由で、人に愛され損ねる「しょーもないこと」もある(例えばこの駄文)が、それはさておき俳句の話。
俳句は「しょーもないこと」のメモのようなものだと思っている。「しょーもなくないこと」を言おうとする俳句はどこかにムリがあり、ムリが重なると、作者を偏狭で居心地の悪いところに追い込み、読者としては痛々しくも感じる。
ちなみに、「しょーもなくないこと」をうまく言えている俳句のことを、野暮という。俳句じゃないものでがんばればよかったのに…、残念だったね、と。
一方、「しょーもないこと」をうまく言えている俳句は、その徒労さ・無益さのゆえに、すばらしい仕事である。まちがっても、その技巧の成功のゆえではない。「よくもまあ、そんなしょーもないことを、労力をかけ、智恵をしぼって」と、その徒労・無益に賞賛の声をあげるのだ。
俳句をつくる人は、つくる苦労・つくる難しさを知っているので、うまく言えているだけで賞賛してしまいがちだ。しかし、読者は、読むことに関してもっと贅沢である。うまく言えているだけでは、読者を幸せにしない。
そして、個人的な趣味をいえば、俳句に限らず、文芸、音楽、映画等々、分野にかかわらず、「愛嬌」が重要な要素となる。それを愛せるかどうかの基準のひとつが愛嬌の有無だったりする。ふざけたり、おちゃらけたりせよ、というのではもちろんない。愛嬌とは、人を包み込む、ふわっとした弛緩のようなものだ。作品のもつ余裕といってもいいだろう。
「ポスターに雨」10句には、なんともいえず心地よく読者を包み込む愛嬌がある。空気がある。温度がある。いっしょにのんびりお茶でも飲むかのように、この10句といっしょに過ごしている時間が、とても楽しい。
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2008-10-19
〔週俳9月の俳句を読む〕さいばら天気 だいじなのは愛嬌
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