2008-10-12

〔週俳9月の俳句を読む〕村田 篠 思いっきり遠くから

〔週俳9月の俳句を読む〕村田 篠
思いっきり遠くから



地にふれて草にしづみて秋の蝶   武井清子

はじまりは、地にふれ、草にしずむ秋の蝶である。
作者はこの蝶を、上から眺めているわけではない。作者の視点は、秋蝶と同じ高さにある。「(地に)ふれ、(草に)しづむ」という動詞を選んだとき、蝶の高さまで下りてきた。
いや、最初からその高さにあって、動詞の方が降りてきたのかもしれない。

葉脈の大きく走り露の玉

葉脈も、露の玉も大きい。自分は小さなものになって、大きなものに埋もれてゆく。
が、そんなほのかな憧れをかき立てる心地よさに、作者の視点はとどまらない。
同じ秋の一日が、目の高さによって、明度も、湿度も、深さも、感じる重力もさまざまなものになる。

ふつくらと脛のわけゆく草の花
波がしら見んと高きに登りけり

草に沈んでいたからだが、立ち上がって草の花を分けゆき、高いところから波頭の眩しさを見ている。風景は、視点によって授けられ、言葉によってあらためて発見される。

双眼鏡・硯・地球儀・獺祭忌

最後に置かれたこの句が、「追伸」のように恬淡とした風情で、風景の広がりの帰結になっていないところがいい。
あらゆる風景は、並べられた道具たちのように、ただそこにある。幸せなのは、それを「見る」ことなのだ。


しやつくり出づ満月ほどの寸法の   さいばら天気
アンメルツヨコヨコ銀河から微風
しゃっくりが出る。アンメルツをヨコヨコする。
そういう、きわめて卑近な日常の、なにをどうやって俳句にするのか。
なにかをぶつけて飛躍する。あるいは、なにもぶつけないで、しゃっくりやアンメルツそのものを楽しむテもある。
どちらを選ぶかは、そのまま、作り手のスタンスだ。

作者は、ぶつけてくる。それも、思いっきり遠くから、ロマンティックなものを。
けれど、あまりにも無造作な、周到なほどに無造作なぶつけ方によって、「満月」や「銀河」はそのはるかな抒情性をはく奪され、秋の季語という「器としての役割」も放擲して、一句になんともいえない諧謔が立ち上がってくる。
作者の句にはじめて出会ったときから、私は幾たびも、的を射抜くその無比の正確さに、驚き続けてきたような気がする。
でも、いっぽう、いや、だからこそ、

つばめむかしへ帰るチェ・ゲバラの忌

のような(無防備な、とすら言えるような)抒情が、同じ作者から出てくることを、なんだかとても、好ましく思うのだ。


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