2008-11-02

『俳句界』2008年11月号を読む 舟倉雅史

【俳誌を読む】
『俳句界』2008年11月号を読む


舟倉雅史









●文字のないエッセイ p113-

先月号より始まった企画。9ページ(先月は8ページ)も割いているのですから、この雑誌の重要なコンテンツの一つになっていると言っていいでしょう。では、なぜ俳句雑誌に写真なのか?(そういえばこの「週刊俳句」にも毎週欠かさず動画が貼り付けてありますけどね。)


最近、俳句と写真のコラボ作品(「俳写」と呼ぶらしい)をよく見かけますが、ほとんどの場合、俳句は写真の説明の域を出ず、これはと思う作品に出会った記憶がありません。今後、新しい表現ジャンルとして定着していくのかどうか、この点に関して僕はいささか懐疑的なのですが… それはさておき、「文字のないエッセイ」はそのタイトルどおり、純粋に写真だけを楽しむページです。僕のように写真が好きな者にとってはこれはこれでなかなか楽しいのですが、それにしても、俳句雑誌にしては写真にずいぶんページを割いているなあという印象です。

今月号は、コスモス・紅葉など、一目で「秋」とわかる素材をフレームに収めた作品を並べています。単独では季節が特定しづらい作品もありますが、全体としては深まり行く秋を感じさせる構成になっています。題して「深秋・仙台」。(ちなみに、先月号は「風立ちぬ」。)おそらく、季節感の溢れる写真で俳句雑誌に彩を添えようというのが編集部の一つの意図なのでしょう(註)。そしてそれが、「俳句とは季節の詩である」という俳句観(あるいはそうした俳句観が一般に受け入れられているという事実)を前提としていることは間違いないでしょう。これからもこのページには発売時期にあわせた季節の写真が載るのでしょう。(ちなみに「次号予告」を見ると、来月は「冬の街」…ほら、やっぱり。)

しかし、次の記事は、「俳句=季節の詩」という俳句観を自明のものとして疑わない現状に揺さぶりをかけようとします。


●俳句界時評 俳句にとって歳時記とは何か 林 桂 p50-

林氏は、坪内稔典氏の「船団」所収の文章(「過激な暇つぶし」)に触れつつ、次のように述べます。

坪内は、俳句は「優美な季語詩」でよいのか。そして、それは俳句本来のあるべき姿なのかと問う。それは教科書的に、また教条的に信じられている俳句像は根本的に疑うべきものだとする認識に根ざしている。(中略)坪内の疑義は真っ当に思える。俳句は本当に「季語詩」なのであろうか。

さらに、俳句を作る場面において、参照機能を強く持った「歳時記」が不可欠となっている事実を指摘し、次のように言います。

一体、「歳時記」という合わせ鏡が必要な俳句の表現とは何なのであろうか。純粋に表現の問題として見るとき、非常に特殊であることは言うまでもない。このことを俳句は一度本気で考えてよいのではないか。

ここで「特殊」というのは、例えば短歌において、「万葉」以降の詞華集が参照・引用の機能を持つことはあるものの、それらが今日の歌人にとって必ずしも不可欠なものではない、という事実と比べて言っているのです。先日、どちらかと言えば「革新」陣営の側に立つと目されているある結社の句会に参加したのですが、そこでも「季語は絶対」という雰囲気で、誰もが熱心に「歳時記」のページを繰っていることが僕にはちょっと意外でした。これほどまでに、今日の俳句と「季節」の関係は強固なのですね。(かく言う僕自身も、「歳時記」なしで俳句を作ることは到底できそうもありませんが…)

こうした今日の俳句を「後ろ向きだ」とする坪内氏の指摘は、重く受け止めるべきなのかもしれません。そして、林氏の言うようにこの問題について「本気」で考えるためには、どうやら俳句の出発点に戻ってみること、すなわち教科書的な芭蕉像のとらえ直しという作業が必要になるようです。そしてその作業は、貞門・談林の再評価にもつながっていくのかもしれません。

ところで、貞門・談林といえば、こんな記事もありました。


●となりの芝生から 古式の俳諧の面白さ  林 望  p29-

私は、じつはゲンダイハイクというものが好きではない。(中略)俳諧がもともと滑稽な連歌から生まれたと言う、その根本のところを忘れて、衒学的で高踏的なスタイルに走ってしまうと、それはやはり俳諧の本道からは外れると私は思っている。超小容量の文字の構造のなかで、ややもすれば類型に流れようとするのに抵抗して個性を出そうとすれば、どうしてもある意味で独善的な所に入り込んでしまうことも分からぬではないのだが。

そういう状況に背を向けて、いわばナイーブな時代であった貞門、談林の古風な世界に分け入っていくと、そこに意外なほどの面白さがあることを知る。


林望氏の意見には全面的には賛成しかねますが、「貞門、談林の古風な世界」がちょっと気にはなってきます。

(註)あるいは、俳句と写真の、表現ジャンルとしての相似性を示そうという意図もあるのかもしれません。どこかにこの企画の趣旨が明記してあるのを僕が見落としているのだとしたら、ご指摘ください。


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3 コメント:

tenki さんのコメント...

俳句ではよく「説明はいけない」と言われます。「ツキスギ」もいけないと言われる。近頃流行の「俳句+写真」で、この2点をクリアしているものを見たことがありません。お取り上げの「文字のないエッセイ」は、その愚を犯さないために俳句を添えずに、写真だけで、という意図なのかもしれませんが、それはそれで写真に多大な負荷がかかります。このグラヴィア、私には「文字のないエッセイ」というより、「日付が印字されていないカレンダー」に見えます。

それはともかく作る側からいえば、ヴィジュアル面での季節と俳句の関係はひじょうに難しいところがあります。例えばこの週刊俳句のトップ写真。季節とベタベタで付いてしまうのが怖くて、いかにも季節季節した写真は持って来にくいです。紅葉とかね。そういうのは、あまり週俳ぽくないでしょう? 動画もほぼ同様。季節とベタにつくヴィジュアルは、俳句関係ならどこもやるので、週俳がやる必要はないだろう、という感じです。

季節ばかりが俳句じゃないし、俳句ばかりが俳句じゃない、というところも、個人的には強く持っています。

舟倉雅史 さんのコメント...

方法として「取り合わせ」を用いることが多い俳句を、さらに写真と組み合わせるのはどうなのかな、と思うのです。(でも、今後いい作品が出て来ないとも限りませんが…)
「週俳」に「紅葉」、確かに似合いませんね。それと、「俳句ばかりが俳句じゃない」、ある意味その通りだなあと思います。ただ、「週俳」の中の動画にも、そこに貼り付けてあることがしっくりいくものとそうでもないものがあるような気がします。「季節」がどうのこうのということではなく。

tenki さんのコメント...

「俳句+写真」というのは、すこし厳密にいえば作品ではなくて展示なのでしょうから、展示法の可能性は(良否・好悪いろいろ含め)あるのでしょうね。