2009-01-25

対談 新しい鷹女像と文体的実験 三宅やよい×神野紗希

特集『鷹女への旅』完結
対談
  新しい鷹女像と文体的実験 

三宅やよい×神野紗希


評伝「鷹女への旅」について

神野:今日は、よろしくお願いいたします! まず、「鷹女への旅」連載、本当にお疲れ様でした。「船団」に連載されていた頃から、私が鷹女が好きだったこともあって、楽しみに読んでいました。このたび、「週刊俳句」という、誰でも読める媒体に登場したことで、更に嬉しく思っています。上田さんの要望にしたがって、とりあえず、流れとしては

①評伝「鷹女への旅」について
②鷹女という人間について
③評伝の難しさ・面白さについて
④鷹女の俳句作品について(句集を追いつつ、偏愛の句を挙げながら)
⑤女性俳句について

という感じで進めていければと思います。いかがでしょうか。はじめに決めておくことなどありましたら!

三宅:流れはOKです。まず①から順に行きましょうか。神野さんは鷹女が好きだということですが、私の場合「船団」に書き始めた動機らしい動機はあまりないですね。

坪内さんに一人の俳人を取り上げて何か書いてみないと言われたとき候補として考えていたのは鈴木しづ子と、藤木清子と鷹女でした。資料的な面からも鷹女がいいんじゃないですか、と坪内さんに背中を押してもらったのがきっかけです。

神野:そ、そうだったんですか!私も、まず、なぜ鷹女について書いてみようと思ったのかを、はじめに聞いてみようと思っていました。

藤木清子や鈴木しづ子というラインナップを見ると、現在、あまりスポットのあたっていない俳人という感じがしますが、この三人を候補として選んだのは、彼女たちの俳句が好きだったのですか?

三宅:それはあります。川名大の『新興俳句表現史論攷』に作成された「新興俳句作品年表」ってあるのですが、その年表をコピーしてチェックしたとき、女性で抜群に面白かったのが鷹女と藤木清子。鈴木しづ子はコスモスの句や夏ミカンの句しか知らなかったのですが、句を見て興味をひかれました。

神野:私も、修士論文で富澤赤黄男や新興俳句について書いたときは、川名大さんの資料に非常にお世話になりました。

この三人には、今まであまり取りざたされることがなかったということと同時に、なんだかある種の暗さや鋭さがあるような気がしますね。清子は、私も特に好きな俳人です。

連載の冒頭に「回りの俳人に聞いてもストレートに「鷹女、いいねぇ」と膝を乗り出す人より、「鷹女、うーん、いいんだけどねぇ…」と語尾を濁す人が多い。」とありましたが、これ、私も分かるなあという体験でした。やはり『羊歯地獄』あたりが難解だというイメージなんでしょうか。

三宅:うーん、『羊歯地獄』は特にだけど、初期の句でも好き嫌いははっきりわかれるように思いますねー。表現が大仰ですし、比喩や見立ての句や口語表現もそうですけど、控え目に微妙な見つけどころを大切にする俳人には、どうも、苦手という人もいるような。舞台仕立てが派手ですからね。暗さといえば後期の句なんて思いきり暗いですね、ちょっと読むのがつらいぐらい。そのあたりももちろん影響していると思います。

神野:確かに、読んでいて決して心地よくなるタイプの句ではないですよね。むしろ、その媚びない気分が好き、とも言えるのですが。ぜひ、その話も後ほどさせていただきたく。

平成13年に富士見書房から出た、『女性俳句の世界』の中でも、櫂未知子さんが、鷹女について「現実とは(おそらく)全く異なる自分を俳句の中に作りあげることを望んだ、いわば「舞台派」とでも呼ぶべき存在」と、演劇になぞらえて表現しています。確かに、鷹女は、人間としての自分と俳人としての自分(作品主体といいかえてもいいかもしれません)を、きっちり分ける人という印象があるので、そのあたりが舞台や演じるということと通じてくるのかもしれないですね。

鷹女は、文章が少なく、結社への参加もほとんどなく、定期的な発表も消息表明も少なく、また、作品自体も作者の個別の人生を要求していない句という気がしますので、今まで、その人生をまとめて評伝として書かれるといったことがほとんどなかったですよね。

なので、「鷹女への旅」のように、一人の俳人の人間としての姿が書かれたことは、稀有なことで、またその作業は非常な労力のかかったものだったと思います。

実際に、調べてみて、今までの鷹女の捉えられ方と、違う面が見えてきたと思うのですが、特に感じたのは、どのようなことでしたか?

三宅:なんていうのか、書き方も全然わからないし、まずはネットで立風書房の「鷹女全集」を買ってとりあえずは読んでみました。

神野:『鷹女全集』、二冊組の片方は資料編になっているのが、全集の形態として珍しいですよね。普通、全集はその作家の書いたものを掲載してあって、他者が評をするのは栞の形ですけど、この全集では、鷹女に関する評論などが一冊にまとめられているので、鷹女のことを知るのに助かります。

三宅: そこから方向性もなく、まずは資料集めかな~ってネットを検索してたら、偶然にも成田市役所の広報の人が「鷹女とゆさはり句会」って記事を出してたんですよね。今まで人も寄せ付けない印象のあの人が会社の素人句会にまじって句を出していたなんて! まずそれにびっくりしたのと、ついでに成田へ行けばなにかわかるかも知れない、とりあえず成田のこの人にあって見よう、ってそこからスタートですね。足でかせぐデカみたいな感じ。

神野:引用してくださっていた「ゆさはり句会」の方や息子さん・娘さんの証言を読むと、鷹女は、気難しい人ではなく、とても優しい人だったということが分かりました。鷹女が厳しかったのは、人間に対してではなく、あくまで俳句や言葉に限ったことだったと。

「鷹女への旅」を読んでいておもしろかったのは、その「足でかせぐ」感じが、時系列に書かれていて、まるで鷹女の人生の時間と現在のやよいさんの時間とが、ときどきねじれて交錯しているような感じがあったところです。

三宅:事前に市役所の人に電話をして、時間までとりあえず資料探そうって成田図書館に行ったら、隣にいた女の人が私に興味もってくれて、そのご主人が鷹女の銅像の建立者だったのですね。そのご主人からは鷹女の写真をわけていただき、広報の方からはご家族の談話など貴重な資料をごっそりもらいました。だから動けば人の糸ってつながるんだなぁって。その日のことはすごく不思議。そういうことから、生身の部分が見えてきたのが最初の驚きでしたね。

神野:実際、旦那さんともすごく仲がよかったことが分かりましたし、性格もそんなにわがままという風には 見えなかったです。わがままというよりも、芯が動かない、といったほうが正しい気がします。

鷹女自身も、自分のプライベートな部分と創作は、分けて考えていて、できるだけ隠していたのかもしれませんね。「私といふものが、さうらくらくとわかられてはたまりませんわね」(「鶏頭陣」昭和10年12月「ひとりごと」)とも書き残していて、確かにほとんどその「生」の人間像を知る手段はないので、御家族の談話は、ほんとに貴重な資料だと思います。

三宅:「作品だけがすべて」「作家にとって実生活とは何物でもない」と背景を切り離し、テキストのみにこだわる視点ももちろん必要だとは思いますが。そのあたりのテンションの持ち方は片寄るでもなく、少しゆるめてもいいように思います。

神野:そうですね。まず、作品は作品としてきちんと読まれ、作家の背景を下敷きにすることによって、より深く作品を味わうことができる、という風になると、より読みが深まりますよね。一方で評伝があり、一方で作品論がある、というバランスがうまく保たれれば、と思います。

三宅:えーと、私も、そう言いながらも「これって評伝なの、いったい私って何を書きたかったんだろう」ってそれなりに悩んだこともありまして。

そんなとき本屋においてあるどこかの出版社のPR雑誌に「ひとりの作家を通観するのは、その作家の生き方を学ぶためである。その生き方を学ぶ急所はその生涯における危機をいかに作家は乗り越えたか、乗り越えそこなった以外にはない」という平野謙の言葉が孫引きされていたのですね、それを読んだ時、ああ、この作家の部分を俳人を置き換えると、鷹女から私が教えてもらったことに近いかなぁ、なんて思ったことはありました。

言うならば、その人生の節目に見事に俳句が変わってゆくのですよね、鷹女って。あれはすごい。

神野:確かに、あれだけ作風を変えていった俳人は、男性にも稀だったように思います。その裏には、戦争があったり、重信や赤黄男、耕衣といった俳人たちとの出会いがあったり、追っていくほどに浮き彫りになるものがあることを、この連載でまた実感しました。

三宅:ところで紗希さんは鷹女のどこに惹かれました?


鷹女という人間


神野:まずは俳句に惹かれます。

それから、どんどん新しい句を書いていけるその実力や、未だ書かれぬ新しい俳句を目指す意識的な句作姿勢も好きです。その句づくりの姿勢でいえば、〈春愁の紫をきらうてひとり〉という自分の句に対して「春愁の紫をきらうてと詠ふ私ひとりの心情ではあるけれど、たれか一人や二人は同意してくれる人もあらうかと思つてゐる」(「鶏頭陣」昭和11年8月号)と書いているのですが、このあたりも共感します。

人間性も好きです。鷹女の発言や生活、人間性などに、強く惹かれ、律されるところがあります。自分に芯があるところが、何よりいいのかもしれません。あ、あと犬好きなところも!

三宅:ああ、犬好きいいですね。〈吾が好きは犬と牡丹よ水を打つ〉って句があるけど。ぴしっとした俳句もいいけど、こういう肩の力が抜けたのもいい。

神野:その句もいいですね! 犬と牡丹が並べられることで、犬も目がくりくりっとして走り回る健康的なものを想像するし、牡丹も気持ちよさそうにひろびろと咲いている感じがします。そう、びしっとしたのも、力が抜けたのも、好きです。

三宅:自分に芯があるっていうのか、そこはひとを緊張させる部分があって、後期はそこが俳句にたぶんに出ているように思いますね。もっと楽になってもいいのに、と。

神野:確かに「楽になってもいいのに」と私も思う反面、もしかしたら鷹女は、実生活では、割合に充実した時間を過ごす才能と周囲に恵まれていたのではとも思います。俳句から感じられる破滅型というイメージとは、鷹女の人間性は違うかもしれませんね。

新しい一句を追い求めることは、鷹女が『羊歯地獄』の自序で「一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である」と言ったように、本当に苦しいことでもあるけれど、 一方で、ひとつの枷に縛られてしまうことなく、十七文字や季語、その他、俳句はこうあるべき、女性はこうあるべきという枠を超えて、自由に俳句を作っていくことのできた、鷹女の俳句の変遷には、どこかのびのびとしたものを感じるというところがあります。そういう意味で、むしろ『羊歯地獄』などを読むとき、私は、その展開の面白さに、わくわくもしてしまうのです。

三宅:恵まれた環境にあったのは事実ですね。俳句をあれだけ突き詰められる 時間と余裕があったのですから。

神野:そうなんです! 実は数日前に久女の評伝を読んだのですが、これが、とにかく、悲惨で。いや、実生活が金銭的に、もしくは精神的に豊かであることと、心が満たされていることや孤独でないこととは、またもちろん別のことなんですが…。

三宅:久女は可哀そうですよね。あれだけ俳句の実力がありながら、虚子の序文をほしがったために、不幸になって。さっさと句集だせばよかったのに。

私が鷹女が好きなのは俳壇的秩序に染まらなかったところです。当時の4Tの評価もやすやすと捨てることができた。 自己表現を常に改革しようとする、あの積極的で前向きな気の強さはすごく気持ちいい。

紗希さんの言われる「どんどん新しい句を書いていくというその実力や、それを目指す意識的な句作姿勢も好きです」に共通する点かも。

神野:そうですね!「気持ちいい」、まさに私もそんな気分で鷹女という人間を見ています。

何のために俳句を書くのか、というときに、他人の評価や俳壇的な交流よりも、まっさきに、 私が書きたいものを書きたいから書くんだ、という姿勢が、非常に共感できます。また、それが「誰にも理解されなくてもいい」ということではなく、そのように突き進んできたものが、時間を超えて、たとえばやよいさんや私の心を実際につかんでいるという事実が、またカッコいい。「自分の奥底の感情に共感してくれる人に、一人でも二人でも、届いてくれたらうれしい。」そういう鷹女の気持ち、すごく分かる気がします。

人間性という観点から付け足すと、 鷹女には、確固たる自分の生活がある強さを感じます。まず生活があって、そして俳句はその上にあり、どちらもかけがえのないものになっている。その強さ。

三宅:ところで角川の『俳句』1月号の座談会読んでいたら、紗希さんのお父さん、お母さんって 私と同じ年なのね。そういえばうちの娘たちも25歳と21歳だからそうなんだなーって

神野:はっ、まじですか。うちも、私が25で、弟が22なので、かなり家族構成が似ていますね・・・。もちろん、俳句に年齢が関係ないっていうのも真実なんですが、時代が人間性に影響を及ぼすっていうのもまた真実なんですよね…。うーんややこしい。

三宅:時代っていうのか、これも上田さんの質問の「女性俳句」の部分にかかってくるでしょうけど、社会的に規定された「性の在り方」が女性俳人に与えた影響ですが、鷹女の場合明治期の女学校教育が多分に作用しているように思います。

作家の社会的に規定された部分が女性に与えた影響ですが。生活の中身として言えば、明治期の女学校教育が鷹女の性格に与えた影響はあるような。ダブルバインド、っていうのか、行けっていう部分と行くなっていう自己規制的な部分ね。なんといってもあの人には良妻賢母の枠があったような。

さっきの久女の話にも戻るけど、女が一人で句会に出かける困難さ。めぐまれているといっても虚子の娘たちのように俳句を作るのに囲われた環境にいるわけじゃないしね。 そこは影響しているように思います。

神野:そうですね。「行けっていう部分と行くなっていう自己規制的な部分」、分かる気がします。

今日の朝、画家の片岡球子のことをテレビでやっていて、彼女が、誰に認められなくてもいい、自分を信じて描くんだというようなことを言っていました。また、桂信子なんかも、「世評などはどうでもよい。有名になろうとも思わない。ただ自分の心に適う俳句が出来ればよい。それは俳句を始めた時からそうだったのだから…」(『女性俳句の世界』富士見書房)というように書いているのを読むと、何か、ある特定の時代の、女性たちが持たなければいけなかった、(追い込まれなければいけなかった)矜持に思い至るところがあります。

片岡 球子(かたおか たまこ、1905年(明治38年)1月5日 - 2008年(平成20年)1月16日)は昭和・平成時代に活躍した日本画家である。日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章受章者。北海道札幌市出身。(→wikipedia

三宅:そうですね。鷹女ってうちの祖母とほぼ同じぐらいの年だと思うのですが、女学校は出ていても男の世界と女の世界の役割分担はけっこう明確で、男の文学と言われた俳句で表現を確立しようと思えば突っ張らざるをえない、そのあたりの時代背景は知っておきたいと思いますね~。そのうえで、昭和11年代に昼顔の一連の作品や新しい文体で突っ切っていった思いきりのよさは、回りを瞠目させたと思います。

神野:ほんとですね。宇多喜代子さんが、新しく出された『女性俳句の光と影』(NHK出版)の中で、「女性俳句」という呼称をなくすという意見もあるが、ある困難な時代の中で、それぞれの形で戦いながら俳句と向き合って来た女性たちのことを思うと、 この「女性俳句」という枠を取り払って評価するのは、何か違うように思う、といった 趣旨のことを書かれていて、そうだよなと頷きました。

「女性らしい俳句」「女性らしい感性」といった批評用語は、どうも怪しいと思いますが、「女性俳句」という俳句史は、確実に存在する。これからはどうか分かりませんが。

「新しさ」というのは、その時代によっても変化していくものだと思うので、ある作品を 評価するときに、すべて現代の物差しで測るというのは、横暴、という気もしますね。研究に時代考証が必要だというのは、そういうことだと思います。ただ、作品を、時代背景から離れて読むという自由も、残しておきたいという気がします。

三宅:それは勿論そうですね。 俳句はやはり一句の言葉がどうなのかが第一義でその背景に意味や実生活の影響を必要以上に深読みをするのは、ある意味いらない。(えー今までのはなんなの、って思わないでね)

「新・増殖する俳句歳時記」で俳句を鑑賞するときはできるだけニュートラルな 状態で読もうとは思っています。やはり言葉と向き合うことが大切ですからね。その意味でこれらの句が初めて読む人にどう読まれるか思うと期待満点ですね。

神野: 昼顔の一連の作品は、テーマとも物語とも言えず、面白いですね。 〈しんじつは醜男にありて九月来る〉なんていうの、特に。「九月来る」が、あかるいというかさみしいというか。文体は、新興俳句の口語もそうですが、いまでも新鮮ですから、当時であれば、いかばかりか、と思います。

三宅:そう、醜男って誰よっ?! とか当時話題になったかも。それとか『魚の鰭』の「火星」って題で〈かはほりは火星を遂はれ来しけもの〉とか〈衣紋竹は火星国にもあるなるべし〉なんてユニークな句もあるのですが、そのころ火星が接近したのか 思いもつかないユニークな展開。萩原朔太郎にも〈人間に火星近づく暑さかな〉なんて句もありますが昭和13年ごろに火星が接近したのかな、なんてふと思いました。なんでも想像力を飛躍させられるのはこの人の強みかな。

神野: ネットで検索したらこんなものが。

昭和14年7月28日夜、火星が最も地球に近づくとあって、東京など各地で天文ブーム。 月明かりの東京では15年ぶりの火星接近に、上野博物館「火星を観る会」のイベントなどがあり、定員を締め切るほどの大人気。

これですかね!

三宅:わっ、ほんとだ。朔太郎もそのときに作ったのかな~。

神野:その可能性は高そうですね。そうすると、赤黄男や耕衣の影響にしても、 鷹女は取り入れて自分のものにするのが、上手だったのかもしれませんね。

時代背景から考証するのって、謎解きのようで、これはこれで研究として 楽しいですよね。 ただ、それがひとつの俳句を解き明かしたことになるわけではないというところが落とし穴で、多面体の一つの面なんですよね。

「言葉と向き合うことが大切」同感です。鷹女は、俳句は言葉で書かれていると分かっていて、言葉の力を知っていて、言葉を大切にしたところが好きですね(いっぱい好きなところが出てきます)。


評伝の難しさ・面白さ


神野:そういう、作家の背景と、作品を読むということのバランスを保つのが、 評伝という形式においては、ことさら難しいのではないかと思うのですが、「鷹女への旅」を書くにあたって、気をつけたことなどはありますか。

三宅:うーん、やはりそのバランスをどうとるかですね。

ただ評伝といっても俳句がメインですから、ゴシップ的というのか、鷹女が書いてほしくないだろうな、というところは知っていても捨てました。それはたぶんずっと書くことはない。やはり作者に対する一定の礼儀いうのか…。

評伝と評論の兼ね合いは今でもそのさじ加減が わかりません。作品はまず表現、構成、文体ですね。それを発見するにはいったん背景として仕入れたものを捨てないといけない。それがけっこう難しくて、結局は自分が書いたものに「引きずられた」反省はすごくあります。

神野:「作者に対する一定の礼儀」、分かる気がします。実際、自分が作者だった場合に、関連して書かれたくないことって、結構多い気がします。

評伝については、やはり人間が書けてるかどうかってことなのかなと思います。実は、数日前に、この対談をするということで、評伝について調べようと思って、坂本宮尾さんの『杉田久女』(角川選書)を改めて読み直したんですが、熱中してしまって、俳句文学館で涙が出そうで困りました(恥ずかしいですね)。

はじめに読んだときは、ああ、しっかりと考証がされているなあという程度だったのですが、それから数年の間に、思うところがあったのか何なのか…。虐げられた久女の懸命さや、久女を排除しようとした人たちの所業の残酷さなどを思うと、どんなにか辛かったろうと、胸が熱くなりました。捻じ曲げられて伝えられてきた久女という俳人の、より真実に近い姿を描き出したという点で、本当に面白いと思いました。

他にも幾つか、最近の主要な評伝を読んで考えたのは、評伝というものの面白さにおいては、いかにその作家の新しい側面を発見し、描き出せるかが一つのポイントなのだろうということです。イメージ通りの作家像をなぞるだけでは、資料性はあるかもしれないが、一書として読むのに苦しいし、結局レポートを見せられたという気がする。その作家の新しい一面を描き出して、新しい作家像をつくるという意志をもって書かれ、それが実現されている評伝は、読み終わって、何かを得た気がします。

そうした点で、今回の鷹女への旅も、「とっつきにくい気難しい人」という鷹女像に、新しい家庭人としての鷹女像を描き足した点で、鷹女という作家にさらに深みを持たせていて、 非常に意義深いと思いましたし、面白かったです。一人の、凛とした人間の人生が描かれていて、ノンフィクションの小説という印象でした。

三宅:そう言っていただけるとありがたいです。

評伝は今まで貼られていたレッテルから違う見方というのか、それを少しでもずらせればうれしいです。紗希さんが言われるように多面体ですからね。人間って見る角度を変えれば違う面が見えてくる。今回は気の強さだけでなく、普通に常識的で優しい部分が印象的ではありました。

神野:この評伝とは別に、今度は、やよいさんの書く鷹女作品論も、是非読んでみたいという感じがしました。

三宅:作品論ね。今までと違う作品を発見して位置づける形で書いてみたいですね。

神野: 評伝というのは、特に鷹女のように、実人生の裏打ちを要請しない、虚構の完結性をもった作品を書く人にとっては、作品の理解に第一義的に関わるものではないのかもしれませんが、作品の理解をより深めたり、今までとっつきにくいと思っていた鷹女のような俳人へ、読者を向かわせるきっかけになったりという点で、非常に大きな意味を持つのではないかと、思いました。

…やよいさん、日付が変わりましたが、このまま続けても構わないですか?

三宅:いいですよ!


わたしが好きな鷹女句


神野:では、とりあえず、どの句集が一番好きということはありますか? 私は、『白骨』か『羊歯地獄』ですね。あ、でも『向日葵』も捨てがたいかも。

『白骨』は、まず愛唱句が一番多いのと、あとは、一番方法論というか、方向性が定まっていないところが、逆に幅を見せてくれていておもしろいです。

『羊歯地獄』は、言葉がざわざわしているのが、こちらの心にまで伝わってきて、こちらまでざわざわするそのパワーに強くひきずりこまれます。一句ではなく、一冊で見せようとするのも、同時代の女流からすれば、珍しいことのように思います。

三宅:私は『向日葵』かな、でも『羊歯地獄』も今回書いてみてかなり好きになりました。

神野:『向日葵』、夏の句集だって書かれてましたね。

私、今鷹女の句で一番好きなのが

 みんな夢雪割草が咲いたのね

なんですが、これも、『向日葵』ですよね。

三宅:『羊歯地獄』の句は現実の裏側の想像世界というか、女のもってる情念というのか、あのおぞましい風景の展開は鷹女以外誰にもかけないですね。

 墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挾み

ですから。

『向日葵』では口語をたるまない文体で書ききったのがいいですね。〈みんな夢雪割草が咲いたのね〉私も大好きです。やはり口語文体はゆるいと会話の断片や情景の切れ端のようになってしまう。気の利いた言い回しだけでは広がりがなかったり、帯に短し襷に長しなんですよね。新興俳句で口語が成功しているのは鷹女と白泉かなと思います。

この句も儚いですが、「雪割草」を媒介として想像世界への広がりをきちんともった句ですね。

神野:「雪割草」がいいんですよね。雪割草が目の前にあるというリアルを書くために「みんな夢」といったと考えてもいいし、現実も、夢の中も、似たようなもので、そのどちらともつかないところで雪割草が咲いているという気分でもいい(私は後者の解釈が好きです)。

「みんな夢」というと、「胡蝶の夢」とか思いだしますが、そうした故事をはっきりとひかず、自分の言葉「みんな夢」という言葉で、すべてが終わったあとの茫漠としたあかるさを見せてくれるところもすごいです。 雪を割る草、という字面も、どこか「夢」というものの持つ手触りやつめたさ、明度を言いえているような気がします。
口語は、鷹女が一番って気がしますね。白泉も確かに。個人的には赤黄男を加えたいところですが(「ペリカンは秋晴よりもうつくしい」が好きだもんで)、いかんせん失敗作も多く。

『羊歯地獄』は、文体がかなり切羽つまっているということもあって、あとは「鱗の……」云々があって、痛々しいという評価が多かったですけど、私は、案外、いきいきとしていて、どこかで深刻でない部分も孕んでいるような気がしてます。

たとえば、夕日の句も、「股挟み」という言い方はあんまり色気を感じなくて、ますらをぶりというか、「がばーっ」という音がどこかで聞こえてきそうな。

他にも、

 土中深く来て歎息す一箇の種子

これ好きなんですけど、「あれえ、結構深く埋められちったよ、あーあ、芽だすの大変だなあ」と。もちろん一方では、生き続けることへの屈折した思いというものがどうしようもなくあるんでしょうが、それを、「歎息す」というように、少し諧謔を交えて語る。

三宅: >あんまり色気を感じなくて、あー、そうなのか。私どちらかというと、ぞぞっとするほど色気感じたかな。たとえば

 遠ちに僧形木蓮ぐぐと花開く
 花火待つ花火の闇に脚突き挿し

とかね。エロくていいなーとかね。

 土中深く来て歎息す一箇の種子

これも面白いですね。
私が思ったのは

 頭上一箇の木瓜の実に犬考へる

だったっけ、こういう諧謔ってけっこうありますね。そのあたりが面白い。

神野:木蓮、花火の句は確かにエロいですね。

しかし、闇に溶けあったり、夕日と溶けあったりはせず、挟んだり突っ込んだりと、あくまで触れ合っているだけというところが、「私」の輪郭を保たせていて、その、常に確固たるわれを確保する意識は、かなりはっきり明晰なものだから、エロスの恍惚とはどこかで一線を画しているという気がしたのかもしれません。

「木瓜の実」の句、犬のぼーとした顔が面白いですよね。「木瓜」というのが用意されすぎているのか、面白いのか、しかし「頭上一箇」というかたいいいかたが、その諧謔を面白すぎる方向から引き戻しているようにも思います。他にも

 双手に綿菓子 枯木の瘤に腰おろし

あたり、綿菓子もって誰かを待ってるのか、かわいい。「枯木の瘤」に座るっていう不思議さに、一回性があると思いました。あとは、

 秋の蝶です いつぽんの留針です

 青葡萄天地ぐらぐらぐらぐらす
 枯蔦となり一木を捕縛せり
 川ながれはうだい椿散り放題
 ひまはりかわれかひまはりかわれか灼く
 鷹棲めり獣園に網めぐらして
 薄氷へわが影ゆきて溺死せり
 羊歯地獄 掌地獄 共に飢ゑ

などスタンダードに好きです。鷹女の句は、それぞれ、個別の一回性が確保されているので、そこにリアルがあるのかもしれません。

三宅: なるほど。その時々の出会いを大切にしているということでしょうね。その「一回性」に鷹女の句の文体には自己模倣がほとんどないというのもプラスしていいかも。「署名なしにその人の作品ってわかる」文体を作るのも大変だけど、それを捨てるのもしんどいのにね。

神野:そうなんですよ! これはすでに〈蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫〉から、その兆候がはっきりありますよね。

三宅:あと、

 鍵屋老い九月真紅の鍵作り
 囀りや海の平らを死者歩く
 ひれ伏して湖水を蒼くあをくせり
 夫なしに似てうつくしや狐火は

なんていう彼女独自の美意識で作られた句も好きです。これらの句には

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

の句のように違う異次元の世界から不思議なものをくみ上げてくるような 巫女的な怖さもある。こうしてみると、ほんと鷹女の句っていろんな可能性を含んでるよね。

神野:そうですね、新しさというと、すぐ、素材の方に目がいきがちですけど、実は文体の新しさっていうのもあって、鷹女の場合は、構造というよりも文体をいろいろと模索しては成功させていってますよね。

 あす覚める眠りかみがく桃色ひづめ
 一匹の蟻ゐて蟻がどこにも居る
 氷上に卵逆立つ うみたて卵
 秋の蝶です いつぽんの留針です
 貝族の呟き冬はこれからです
 ひるがほに電流かよひゐはせぬか
 風鈴の音が眼帯にひびくのよ

俳句の形式や型といったものを、どこまで規定できるのか、これらの句を見ていると、疑問に思うくらいです。俳句は、このような俳人に出会って、成長していく。

三宅:「自分自身の俳句を書く上で一番大切なことは、何でもいいからなるべく早く、自分の独断を生み出し、これを育成し構築することである。」っていうのは高柳重信の言葉だったと思うのですが、なんていうのか、最初から文体的実験は意欲的ですね。

初期は言葉に飛躍はあるけど着地どころには距離や落差はあまりないけど、それも後期に変化してゆく。自分で自分に近しい人の要素を盗んで肥ってゆくふてぶてしさもある。自己規定しないことが彼女の俳句だったのでしょうね。

神野:やよいさんのおっしゃったように、口語もそうだし、鬼女の句は能が下敷きにもなっている。見立てということについても、どこまでが幼稚にみえてどこからは素敵なレトリックになるんだろうというのは、最近いろいろと考えているところですが、鷹女の句の根底には、何かを別のもののように見るという見立て(幻視とも言えるが)の思想があって、比喩ということを考え、突破するための大きな糸口に、鷹女がなるんじゃないかと、朧げながら思っております。

三宅:見立て、比喩の入り込み方がやはり神がかりというのか、対象にとり憑く、みたいなところありますよね。怖い。普通は見えないものが彼女にとったら本当に見えていたのでしょうね。紗希さんの言われた「比喩の突破口」、これは面白い課題です。

神野:そういえば、

 一匹の蟻ゐて蟻がどこにも居る

なんて、〈鴨の中の一つの鴨を見て居たり 虚子〉の逆バージョンみたいですよね。虚子は、クローズアップ。鷹女は、画面をひく。

三宅:あー、画面というか、虚子の場合は、一匹の鴨との親和関係が感じられますが、蟻の句はちょっと違和感というのか、 気持ち悪さ、蟻がどこまでも自分の対象物のような印象です。

神野:確かに!蟻が一面にいて気持ち悪いですね。不安感が掻き立てられます。

もうひとつ、高柳重信の句に

蝶が降る
――黒い蝶類
みじろぎたじろぎ
私は埋まる

という句がありましたが、これにも、無限増大を感じさせるあたりに、共通点を感じました。

先ほどおっしゃった「自分で自分に近しい人の要素を盗んで」鷹女の句がいかにして成ったのかを考えるためには、石鼎や赤黄男、耕衣との比較文学的視点で見る必要がありそうですね。特に、いくつかの鷹女についての文献で、石鼎の俳句から彼女が学んだところは大きい、とざっくり書いてありましたが、具体的にどのへんを盗んだのか、調べてみたいと思いました。ところで、

 あす覚める眠りかみがく桃色ひづめ

これも大好きなんですが、やよいさん、こういうのはいかがですか?

三宅:ああ、確かその句は池田澄子さんが好きだったように思います。いいですね。「眠りか」という疑問形で切れているところが。磨いているひづめも印象的で、嘶いたり、蹄を磨いたりと、最後の句集で鷹女は変幻自在で、かつ寂しさを含んだところがいいです。

神野:確かに澄子さん、『鑑賞女性俳句の世界Ⅱ』(角川学芸出版)で、その句を挙げて鑑賞されてました。本当にさびしい句ですね。さびしいと言ってしまうよりも。
この句、「あす覚める眠りか」というその眠りに、「ももいろひづめを磨く」という具体的な行為を与えたことによって、理知からリアルに変貌している気がする。ももいろひづめってやわらかそうですよね。それから、夢の時間が、まるで永遠に続きそうな気もする。この、果てのない感じが、どうにも切ないのかもしれません。

三宅:明日もう眠りは覚めないかもしれない、という悲壮感に引っ張ってゆくのではなくてね、死んでもももいろひづめは、やわらかい光を放っているのでしょうね。句の中では永遠に磨き続けているわけですから、切ないですね、

神野:そうなんです。永遠に。

私は、鷹女の魅力は、 俳句史的に言えば、文体を開拓して新しい俳句を作ったこと。人間的に言えば、嘘が嫌いですごくまっすぐで、旦那さんや子どもなど、周りにいる人たちを深く愛して大切にしたこと。俳人的に言えば、自分を律して、俳句の中に含まれる様々な要素の中の、俳句を作るということ、そして出来たその作品を一番に愛したその姿勢と、自分の実生活と俳句の中の主体を、直接のイコールで結ばなかった姿勢。個人的な感情で言えば、句の中に担保されている永遠性と、そこから来るさみしさ。このあたりに惹かれてます。

鷹女の句の中に出てくるものは、みな一生懸命生きていて、単純ですが、そこも、ぐっと来るのかもしれません。

あ、ちょっとまとめてみました。

三宅:ありがとうございます。紗希さんの句の見方、鑑賞は私にとってすごく刺激的でした。

流れのままに書いちゃて、ちょっと考えを置かないとわかんないところもあるのですが、俳句の作中主体についても興味深いところです。鷹女の俳句はメモリアルな俳句、実感に基づく俳句、回想の俳句では決してないのですよね。そのあたりが、新しさとして蘇ってくるように思います。

神野:俳句の作中主体については、現在でも、「主体イコール私(作者)」と信じてやまない風潮があるので、そういう意味でも鷹女の句の示唆するところは大きいですよね。必ずしも、すべてに当てはまる法則ではないと。

それに関連して、鷹女を読むときに問題点だと思ったのは、たとえば、 上野さち子さんは、著書『女性俳句の世界』(岩波新書)で、鷹女の項では、「蟻は作者自身なのだ」「枯蔦もまた作者自身」「彼女の句集中に頻出する動物は、ほとんど鷹女自身と見られる」と、句は鷹女の心の象徴だと書いている。

やよいさんも、「羽を濡らして二度と飛び上がれぬよう水に飛び込んだか蝶に色濃く自分を投影している。蝶はすなわち鷹女自身であったのだ。」「鳴り狂う祭り太鼓」は彼女自身の混乱の独白」「「蟇」も「唐辛子」も「青すみれ」も「かざぐるま」も老いた鷹女の化身であろう」といったように、鷹女自身を見ていますよね。

実際、そう読むと、また句を深く思えるということもある。けれど、この作中主体と鷹女とのイコールを、一方通行にして、全て鷹女のメタファーであるとしてしまうと、違うように思います。

いったん、鷹女なのかもしれないと思い、しかし実際に蟇や青すみれや蝶の姿が同時に在る、そういうふうに、作中主体と鷹女の間を、自由に行き来して、最終的に作品へ戻っていけるようにしてやらないと、結局、俳句は、俳句の外にある鷹女の人生へと還元されるにすぎなくなってしまう。それでは、鷹女が人生をかけて書いた意味は、と、思ってしまうところがある。

私は、鷹女の句を読むときに、鷹女の人生に共感するのではなく、句に共感しているように思います(もちろん人間として人生にも共感しますが)。

俳句の中に、かなしくも精いっぱい生きる蝶や蟻、また太鼓のような無生物まで描いていますが、これらのモノ自体の姿に私は心を寄せて、共感しているように思います。ちょっと分かりにくいですが、象徴として読むときに、映像や句の虚構の世界自体を、そのものとしてまず感ることが必要だ、というか。

三宅:そうですね。確かに。私が「引っ張られた」というのは畢竟そういう点だったのでしょう。

神野:あ、しかし、評伝の場合は、多少フィクショナルに仕立ててもよい(というかその方が読ませることも多々ある)ように思うので、やよいさんの今回の評伝においては、引っ張られたというより、ひとつの方向に突き進むということで、この方法でよかったのではないかと思います。ただ、常にそういう読みになってしまうと、俳句にとってはちょっと怖いなあ、と思って、一応言ってみました。

最後に、この15回の連載で、やり残したことや、統一性の問題から省いた問題点など、ありますか? もう一度鷹女について書くとしたら、どんなことをテーマにしたいかというものを、伺ってみたいです。鷹女の可能性ということにもつながるかもしれません。

三宅:鷹女の俳句世界という点からいえば、今度書くときは彼女が動物や植物を行きかいながら作っていった作品世界を、もっと楽しく享受するかたちで書けたらな、と思いますね。緊張ははずして。

神野:「もっと楽しく享受する」、賛成です! 読んでみたいです。それこそ、新しい鷹女像ですよね。鷹女は苦しむ一方で、 一句を為すこの上ない喜びも知っていたはずだから、その明るさの部分が、人生の上でも俳句の上でも、注目されて欲しいです。

三宅:また、多様な読みも出てくるかもしれないのでそういう「鷹女の秘密発見」みたいな輪読を何人かでやれば面白いかも。いま思いつきました。明るさ、おもしろさ、諧謔、滑稽なんて部分にもスポットライトを当ててみたいですね。連作から独自の物語も読み取れそうだし。

神野:輪読、いいですね!「秘密発見」のように、勉強会をするとき、俳句を読むとき、その作家を知るだけではなく、新しい一面を発見するということを考えながら読むと、現在にその俳句がある意味のようなものが見えて来るかもしれないですね。
連作についても、「鷹女への旅」の中で、いくつか分類をされていたのを面白く拝見しました。

お笑いも、笑わせる方が笑っていては笑いにならないので、諧謔って、本来は真面目な姿勢からにじみ出るものですよね。その点、鷹女は、十分素質あり(成果もあり)です。より、鷹女とその俳句がいきいきして見える読み方を、これからも模索していけたらと思います。

では、時刻を見ると、2:14というバレンタインデーのような数字で、運命的できりもいいということで(?)、本当はもっともっと、鷹女の句自体について語り合いたく、残念な気持ちですが、それは今度お会いできたときか、もしくは文章の形で、また提示できることがあればうれしく思います。

頓珍漢なことも言い、いい加減な発言も多々、でしたが、どうか御容赦ください。今日は、ありがとうございました!

三宅:こちらこそ、ありがとうございます。書き終えてから、なんだかどうしていいのか、ぐずぐず思い悩んで放り投げていたのですが、今度本にまとめるときのヒントを、今日はいただいたように思います。ネットに出して、紗希さんにこんなに一生懸命読んでいただいて、本当にありがたかったです。
では、また。おやすみなさい。

神野:一冊の本になるのを、心待ちにしています。大変なことだと思いますが、これからの鷹女研究のためにも、是非よろしくお願いします。では、おやすみなさい!(ももいろひづめの夢は見られるか)

2009年1月20日21:00-2:25

※この記事は、BBS上の対談形式による
書き込みをもとに、構成されました。


三橋鷹女50句 三宅やよい選 ≫読む
三宅やよい「鷹女への旅」第1-15回 ≫読む


0 comments: