〔俳誌を読む〕 『俳句』2009年3月号を読む 上田信治
●大特集「実作の鏡としている10句」 p.59-
特集タイトルにあるとおり、作家に、他人の10句を「鏡」として自己を語らせる、という企画。
「愛誦句は多いが、選んでみると、私の師○○と、師の師××の句となった」とおとぼけをかます人あり、さりげなくご自分の詩作品が寺山修司に「聖句だ」と言ってほめられたという話を(10句と関係なく)叩き込んでくる人あり。と書くと俳誌にありがちな作文大会のようですが、がっかりはそれくらいで。
林桂さんの10句が、新興俳句系から10人10句選ぶとしたら、こうなるという教科書的なチョイスであること、中岡毅雄さんが、同世代の作家から3人を選んでいること、依光陽子さんの選んだ10句が凝っていること(〈手をうたばくづれん花や夜の門 水巴〉なんて、なかなか出てこなくないですか?)、小林貴子さんが威勢がいいこと(〈とかげ瑠璃色長巻く日本の帯銀無地 鷹女〉おもしろ)、など、楽しみどころはいろいろありますが、自分としては、細見綾子の句を4人の方(福神規子、伊藤伊那男、加藤かな文、津川絵理子)が取り上げているところに注目。
細見綾子くるかも。〈つばめ\/泥が好きなる燕かな〉(伊藤さん選・以下同)〈鶏頭を三尺離れもの思ふ〉(福神)〈峠見ゆ十一月のむなしさに〉(加藤)〈山茶花は咲く花よりも散つてゐる〉(津川)
●連載「現代俳句の挑戦 第3回 深さと浅さ」高柳克弘 p.156-
同時代の若手作家を紹介し、表現および理念上の転換について考える連載(今後は知らず、ここまでの流れは、高山れおな、谷雄介、鴇田智哉と名前が挙がっているので、そういうことなのかな、と)。今回は、榮猿丸さんを論じています。
高柳さんが猿丸さんをフィーチャーするのは『現代詩年鑑2009』に続いてのことです。
ペットボトル、Tシャツなどの、大量消費社会における代替可能な「商品」が、別の用途に使われることで「“かけがえのないもの”として」「一句の中でいきいきと存在を主張してくる」(〈若草や手紙をしまふ菓子の罐〉〈湯を入れてペットボトルや湯婆となす〉〈愛されずしてTシャツは寝間着となる〉)。
また「肉体」が「代替可能なツールとしてではなく、自分だけがその美や価値を承認しているものとして“かけがえのない”存在となっている」(〈指の肉照る箱庭に灯を入れて〉〈愛かなしつめたき目玉舐めたれば〉)。
間違ったことを言っているわけではないと思いますが、「代替可能」=非人間的現代社会 v.s. 文学という、かなり古い図式、猿丸さんの評価として正鵠を得ているかというと、微妙かもしれません。
Tシャツも肉体も、ただ、あるから詠んでるんじゃないかな、猿丸さんは。微細なところを攻めることで、「表現上の」唯一性と、(それとパラレルなものとしての)体験の一回性を主張している、ということはあると思いますが。
この句(※〈受話器冷たしピザの生地うすくせよ〉)のベクトルは、俳句に向いている。「宅配ピザ」という、普通に考えれば俳句の「外」にあったものから、俳句へと手を伸ばしている。(…)「受話器冷たし〜」という句、そして榮猿丸の句の多くは、素材ではなく気分に立脚し、そこから俳句へとにじり寄っていく。(さいばら天気「宅配ピザのある暮らし」ウラハイ2009/1/24)
どうしたって、猿丸さんはこっちでしょう。
猿丸さんは、いわゆる俳人らしさに自分を明け渡すことなく、「現代に生きるサブカル的素養を持つ一青年」のまま、俳句を書いてみせる。
もちろん、その「一青年」としての猿丸さんも、半面は、俳句を書くことによって打成されたといえるわけで。たとえば〈カーラジオ鳴りつぱなしや畑返す〉(2008年 角川俳句賞候補作より)などからも、現代的一風景として季語を眺めている、濃厚な趣味性(俳句+サブカルのアマルガム?)にひたされた作者像が見えてくる。
それを「無感動な日常に向き合いながら、そこに新しい美と情動の萌芽を促そうとしている」(同高柳p.160)と言ってしまうことは、猿丸さんが半分は(大量消費社会の表徴である)「サブカル」育ちであることを考えると、間違いではないにしろ、ずいぶん大づかみだと思われるのだ。
じつは、前回2回目でも〈浮いてゐる金魚の鉢を運びけり 鴇田智哉〉の読みが少々おかしく(高柳さんは「なるほど金魚鉢とは浮かんでいるかのように、透明で重量感のないものだ」と書くのですが。この句は「浮いてゐる金魚」のその「鉢」を運ぶ、としか読めない。その、行為というか事態の間接性が、あらためて妙な浮遊感を生んでいる)、高柳さんは若手随一の評論の書き手という評価があると思うのですが、ちょっと、けっこう荒っぽい。
とはいえ。
「パラダイムシフトに際しては、それ以前にマイナス視されていた特質がプラスの価値を持つものとして見直されていく(…)ひとりの作者の句をめぐり、「浅い」という否定的評価と「浅いよさ」があるという肯定的評価が両立している批評空間は、まさに振り子が振られつつある現状を、端的に物語っているのだ」(同p.162)
実は「平成俳句は俳句のパラダイムシフトを行ったのだ」とは猿丸さんのかねてからの主張なんですが(鼎談「サバービアの風景」前編)、現在もう一段の理念的転換が起こりつつあるというのが、高柳さんの状況認識なら、その予言の遂行的であることを信じて、全力で乗っかりたい。ならば、その荒っぽさは必要なものとして「あり」なのだと思います。
●合評鼎談 p.165
今回もおもしろい。
●俳句作品より
弾初の君よ眼鏡を変へたるか 松本てふこ
「替へた」じゃなくて「変へた」。「あ、変わってる!」なんですね。
蓮池の一面枯や訪ね来よ 藤田哲史
初富士に天の分厚しかつ青し 〃
7句それぞれ手堅い。安全、艶消しっていうんじゃなくて、地味かつ充実している。それはこの人の情緒の質がそうなんだろう。
目正月銭のかからぬものを観て 中原道夫
作者名つきで。
地につかぬ蹄の凍てて木馬かな 大木あまり
霜柱踏めば歯痛のにはかなる 鶴岡加苗
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2009-03-01
『俳句』2009年3月号を読む 上田信治
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