〔週俳3月の俳句を読む〕
馬場龍吉
連作のただしい読み方のすすめ 1/2
一枚の銅版画一月の夜 猫髭
獸偏つけて枯野を戻り来る
冬薔薇のコップの中のいのちかな
軟骨の冷えゆく耳や春浅し
一の橋二の橋歌橋花の橋
幸いにしてか不幸にしてか、いままでに詩編を読まずに来ているので、この俳句と詩のコラボレーションをどう受け止めてよいのやら。猫髭氏は詩、短歌に造詣が深く最近俳句を始められたと聞く。それも今年で五年余りだそうだから……俳句界ではまったくの「新人」である。
その新人が週刊俳句第102号(http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/04/blog-post.html)で注目の若手作家の作品もさりながら、インターネット外部の「大人の俳句」を読みたいと言っているのだからその姿勢は意欲満々であると言える。
掲句だが、例えば俳句のみの連作として十句列ねてあるのであれば読者は「一枚の」から始まり「花の橋」で終わる冬から春を享受できればそれでいいはずなのだが、その句間を「エヴァよ」の問いかけの詩が挟んであるということは読者にその鑑賞世界を限定するものであろう。ところがこの俳句+詩のコラボが成功しているのは一重に俳句の「切れ」が上手く呼応しているからではないかと思う。
連作の句間を繋ぐものは白い行間でしかない。しかしそこには作者が黙って並べた結果でないことは一度でも連作を作った者なら理解できるはずだ。完結しているはずの一句を次の一句に繋ぐものは白い行間でしかないのだが、猫髭氏の詩同様の作者の世界が存在しているはず、読者はこの白い世界をも鑑賞すべきなのだ。
一句目。銅版自体は金属の冷たさ以外の何物でもないが、そこに描かれた線はインクという媒介を通して柔らかな紙にその軌跡を残して行く。ネガとポジのまさに冷たく暖かい一月の夜に相応しい。
二句目。人が毛皮か革コートを着て荒野を来るようにも、獣が荒野を歩いているようにも読める愉しみがある。
三句目。薔薇のいのちは・・・花のいのちは・・・とつい想像してしまうが、これは「コップの中のいのち」とある。人為的なただ鑑賞されるだけのいのち。「いのちかな」に重みが出た。
四句目。厚い皮膚層に包まれてているにも拘らず耳の軟骨は寒さ暑さに近い部分にある。軟骨としても迷惑な話。しかし、グルメの氏が語るとどうも豚の耳は左耳が旨いらしいという話を思い出してしまう。
五句目、揚句である。この句は「歌橋」が無ければただの俳句だったであろう。満開の花の下で歌垣が行われているような錯覚を覚える作品である。そして初句に戻るという輪廻のような巧みな終わり方が愉しめる。
(次週につづく)
■猫髭 十句の封印による反祝婚歌 10句 ≫読む
■井越芳子 春の海 10句 ≫読む
■宮崎斗士 思うまで 10句 ≫読む
■高浦銘子 てふてふの 10句 ≫読む
■神戸由紀子 春眠 10句 ≫読む
■市堀玉宗 口伝 10句 ≫読む
■青木空知 あたたけし 10句 ≫読む
■大島雄作 納税期 10句 ≫読む
■鶴岡加苗 抱けば 10句 ≫読む
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2009-04-12
〔週俳3月の俳句を読む〕馬場龍吉 連作のただしい読み方のすすめ 1/2
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