2009-04-19

谷 雄介 「~を読む」のコーナーに辟易

「週刊俳句」のココがとことんダメだ
「~を読む」のコーナーに辟易

谷 雄介




どうも、こんにちは。谷です。

「週刊俳句のココがダメだ」ということなんですけども、「~を読む」のコーナーに少し不満があります。

それぞれの作品について鑑賞を書いておしまい、という体裁のものが多いなという気がしてます。

まあ、作品について取り上げてもらった作者はそれだけでうれしいんだろうなと思うし、的確な鑑賞が多いとも思うのですが、傍から見ていると、少なくとも僕にとってはあまり面白くない。どれだけ豊かに読み込めるか、どれだけ上手く書けるかの勝負を見ているような気がしてしまい、少し辟易。

最近の「~を読む」の中では、菊田一平さんの「クリスピーサンド(パンナコッタ&ラズベリー)」の書き方に好感を持ちました。

菊田さんの文章のよさは、文章を書いている菊田さんが紛れもなく菊田さんでしかないこと。攝津さんのことを思い出してみたり、クリスピーサンドの封を切ってみたり。菊田さん以外の書いてる鑑賞文は、ほとんど「先生」の立場になって書いた講評のように僕には見えます。

そもそも、正直なところ週刊俳句自体最近あまり読んでないです。忙しいのを言い訳にはできませんが、仕事から帰ってきて、パソコンを開いて「よし、週刊俳句読むぞ」となかなか思えない。

そんなこともあり、「~を読む」の中でももっといろいろな書き方が出てくるといいなあと思った次第。的外れだったらすみません。

あ、石原ユキオさんの「はいく×まんが」面白いです。

1 コメント:

天気 さんのコメント...

御執筆ありがとうございます。
拝読しました。

この内容から、読んだ人がみな予想する当然の流れとして、
「では、週俳4月の俳句を読む」の原稿をぜひ谷雄介さんに、と。

一両日中に原稿依頼を送ります。
ご多忙とは存じますが、文字量の多寡は問いませんので、
ぜひよろしくお願いいたします。



と、それはともかくとして。

個別の句について書く、ということには、いろいろな困難がつきまといます。

>菊田さん以外の書いてる鑑賞文は、ほとんど「先生」の立場になって書いた講評のように僕には見えます。

いろいろな俳誌をの鑑賞文を読むとき、講評・評価にしか読めないものが多く、その点に貧しさを感じていました。週刊俳句で「俳句を読む」がその貧しさを免れていないとしたら、運営する一人としても、ちょっと悲しいことです。

しかしながら、いろいろな書き手の「俳句を読む」をどう読むかは、また人それぞれです(当たり前ですね、すみません)。

例えば、私個人は、「菊田さん以外の書いてる鑑賞文は、ほとんど「先生」の立場になって書いた講評のように」は見えない。つまり、谷さんの指摘にまったく首肯できない。

菊田一平さんの「クリスピーサンド(パンナコッタ&ラズベリー)」については、クリスピーサンドはともかく、なぜ摂津幸彦の個人的エピソードがこの箇所にあるのは「???」です(本筋とは違う傍系のネタに過ぎませんから、こだわるところではないのですが、谷さんの例示があったら、いちおう)。

谷雄介さんの言う「紛れもなく菊田さんでしかないこと」、一般化すれば、「書き手が紛れもなくその書き手でしかないこと」、それは個人的経験とを結びつけるような書き方によって実現されることもありますが、そうしたエッセイ的鑑賞文は、「先生的講評」の不毛を逃れるための一手段ではあっても、手放しに喜べる「書き方」ではないと思っています。

 ●

自戒を込めて言うのですが、ざっくり言えば「読み手に引き寄せて書く」書き方、個人的経験と絡ませるにせよ、読み手の妄想か連想ゲームのように、作品から自由(笑)に読み解くにせよ、それが往々にして纏ってしまう弱点もあります。

くだけていえば、「あんた個人のことはいいよ。句のことを話してよ」という反応もあるということ。

句について書くとき、「句をおいてけぼりにしていないか」「他人様の句をダシに、自分を披瀝するための批評文になっていないか」、そうした自問を繰り返しながら、「俳句について書く」ことになります(少なくとも私の場合は)。

一方に、もちろん、谷さんか指摘するように、「俳句のセンセじゃねえんだから」「なに評価してんだよ、この人」というツッコミもありうる。

俳句について書くことの難しさから目を逸らさず、それでも俳句について書く/語ることの愉しさに向かって、皆さん、書いていらっしゃるのだと、私は思っています。

長くなってしまいました。とりとめのないところも多々。

次号の記事にすればよかったかも(あらためて、私が、あるいは別の人がレスポンスの記事をお書きになるかもしれません)

取り急ぎ。