〔週俳4月の俳句を読む〕
関 悦史
徴候的一句
鳥交るあをぞら神の見えざる手 小川軽舟
市場原理主義の行き過ぎが「神の見えざる手」のあるべき調和を破壊したのか、それとも「神の見えざる手」という考え方自体が実体を離れて暴走しがちな人の欲望への洞察を欠落させていたのかは詳らかにしないが、現在それがうまく機能していると思う人はあまりいまい。
この句は「神の見えざる手」を経済から融和的なものとしての自然に転じた。軽い思いつきといったものではない。人界の不快さ、濁り、他者性、他界性を切り捨て、自己とその延長としての環界に対象を絞り、洗練された表現で愛惜を注ぐというこの作者のスタンスを言挙げしているような句である。切り捨てられたものは小さくはない。俳句形式が持つ潜在力の大部分、そして小川氏自身の真面目までそちらに含まれている可能性すらある。小川氏の叙情は憂愁を帯びる。切り捨てたはずの他者性に却って主体が囲繞されてしまうからである。かすかな不安さという形で他者性・他界性が各句に介入し揺曳する。しかしこの介入によって逆説的なことに小川氏の句は永遠性への通路を持ち、俳句として成り立つことになる。
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2009-05-03
〔週俳4月の俳句を読む〕関悦史 徴候的一句
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