〔週俳4月の俳句を読む〕
さいばら天気
ふだんのふつうのごはん
東京・中野新橋の川島商店街の入り口、アーチの上に地球儀が載っかっていて、そのさまがなかなか素っ頓狂で愉快だったのだけれど、まだあるのでしょうか。
子どものとき買い与えられた勉強机の上には、分厚い木製の本立てと地球儀だけがあって、本立てはともかくとして、地球儀など、指でくるくると回すのもすぐに飽きて、やがて机の上からどこか邪魔にならない場所に移してしまったような。
小学1年生が地球儀を眺めて、そこから何を学ぶのか、よくわかりませんが、大袈裟に言えば、近代を生きていくのに知識として最小限必要な世界観か。人間が住んでいるのが丸い球体の上だということ、色分けされた陸地を見れば、「国」というものが領土を分割しているさまは、わかります。
なにしろ古代インドでは、大蛇がとぐろを巻き、そのうえに4頭の象が載り、背中で「海と陸」を支えている、それが「世界」だった。地球儀によって与えられる世界観はそれとはずいぶん違う。机上の地球儀にも用途はあったのです。
地球儀の古き世界や百千鳥 寺澤一雄
この句の、その「古き世界」ということの意味をしばらく追ってみましたが、頭の中でくっきりとはしてきません。さっき「近代を生きていくのに」なんて書きましたが、新しいか古いかと問われれば、地球儀には、古い世界の像があるように思う。政治的な話でも芸術的な話でもなく、感触として、それは古い。
でも、どう古いのか、私にはうまく言えない。うまく言えないから、この句には、私に親しく長くそばにいてほしいと願う(わかるものは忘れ、捨て去ればいいのだ)。
そして、百千鳥。ここがまさに俳句的愉楽の瞬間です。俳句をたしなむ皆さんが「季語、季語」とやたらおっしゃる理由が私にもわかります。このように、ときとして快楽作用を及ぼすのですね、季語というものは。
で、もし、私が俳句をやっていなくて、「百千鳥」なんて季語のことを知らなかったとしても、「地球儀の古き世界」によって醸成されたアトモスフィア(大気、空気、雰囲気、気分)に、百や千の鳥が現れたら、(それが姿であっても声音であっても)、昇天(get stoned)するほどの快感を味わうはずです(ちょっと大袈裟かも)。
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矢印へ急げ急いで春の尿 麻里伊
公園などで「トイレ→」と書いた立て看板の文字はたいていひどくぞんざいです。ビニールテープで「トイレ」の3文字をかたどったのもよく見るような気がします。いや、そんなんじゃなく、男性・女性のアイコンでさりげなく知らせたり、TOILETとアルファベットで書かれたラミネートか何かの看板も最近では多い。その2つを比べて(というのもヘンな話ですが)みると、あのぞんざいな字の標識のほうが、むしろ捨てがたい。
もよおしたとき、それが切迫したものであればあるほど、後者のようなすっきり綺麗なサインではダメという気がします。理屈じゃなくて。
掲句の切迫感は、ここに改めて申すまでもありません。
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ひとの家のカーテン揺るる柳かな 川嶋一美
窓が開いているなら風か、閉まっているなら「ひと」の手か。どちらかわからない。というより、それがわかるほど近くはない。歩いていて目が止まるのはこういう景、それ自体に感興や詩情をもたらす要素が希薄なものだったりします。「柳」は(個人的な思い込みかもしれませんが)都会、というか街場。
その「ひと」がどうとかこうとか、そこまでは立ち入らない、あっさりとして、それだけにオツな出来事です。
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温みたる水に寄りがち自転車も 南十二国
「越後」10句という連作に置かれなくても、田圃道を思わせる句です。「季語の本意」という言い方、それに固執することにふだんからちょっとした抵抗感がありますが、こういう句を読むと、「これが『水温む』だよなあ」と、妙に俳句プロパーな人のように頷いてしまいます。
視線は、自転車の車輪と水を。この視線のありようも、「自転車句」としてユニークと思いました。
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空気より夕日つめたき落花かな 小川軽舟
夕日が赤く見えること、天空にあるときよりも大きく見えることには科学的な説明がつくそうです(後者は知覚の問題も絡んで簡単には行かないようですが)。
夕日が空気より冷たいことの説明は、科学の分野を探しても見つかりそうにありませんが、この句を読んだ私たちは、ひじょうにすなおに「そうそう、冷たいよなあ」と頷きます。それも花の散る季節に、この「現象」が起きることを、まるでこの句を読むずっと前から知っていたような気になります。
ことばの不思議であり、ことばの驚きです。
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惨劇の跡はイチゴの匂いして 江口ちかる
ドラマなどで血糊の代用にケチャップを使うという話は聞いたことがあります。
ケチャップより苺ジャムをレモン水で稀釈したものにしてほしいと、私が役者なら思います。ケチャップの匂いの中で死の演技をするより、苺の香りのほうが何倍もいい演技ができるはずです。
この句、フランスのヌーヴェル・ヴァーグ映画のような雰囲気です。そう言えば、惨劇とは違いますが、苺をピンで壁に留め、そこから血が滴るように壁を伝って流れ落ちる映画シーンを見たことがあるような気がしますが、何の映画か思い出せません。
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まどろみのびくつとひるのさくらかな 山口昭男
この「びくつと」してしまうことはよくあって、ストレスがあるのかな、と自分の精神状態のことを心配したりしますが、見ていると、猫も、これをよくやります。ストレスとは関係がないのでしょう。
桜が咲くと、華やいだ気持ちになり、花見の好きな人はとりわけ気分が昂揚するようです。桜は、いろいろな特別の感興をもたらすようですが、特別に、ではなく、ふつうに、桜が咲くのもいいものです。
うまく言えませんが、おおっと声をあげるようなごちそうよりも、ふだん食べるごはんのほうが、自分にはだいじ、という感じでしょうか。
この句の「さくら」は、そんな感じです。
■江口ちかる ぽろぽろと 10句 ≫読む
■山口昭男 花 札 10句 ≫読む
■小川軽舟 仕事場 10句 ≫読む
■麻里伊 誰彼の 10句 ≫読む
■川嶋一美 春の風邪 10句 ≫読む
■南 十二国 越 後 10句 ≫読む
■寺澤一雄 地球儀 10句 ≫読む
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2009-05-03
〔週俳4月の俳句を読む〕さいばら天気 ふだんのふつうのごはん
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