2009-09-06

〔週俳8月の俳句を読む〕太田うさぎ 術中にまんまと

〔週俳8月の俳句を読む〕
太田うさぎ
術中にまんまと


菊や菊何回占つても勝利  北大路翼

今から七十年ばかり前、「枯菊」という季語を用いただけで咎められることがあったそうだ。そうした時代にこの句が発表されていたら、と想像してみる。作品名を俟つまでもなくこの「菊」は同じような象徴的な役割を担っていると思うからだ。やっぱり呼び出されるだろうか。「何回占つても勝利」が浮き彫りにするのは根拠のない勝利の未来に酔い痴れる狂気だ。「菊や菊」の戯れた言い回しがそれに追討ちをかける。然し、表層は勝利バンザイの句なのだ。不敵だなあと思う。「噴水やまつすぐ進む縄電車」にも同様に句の底に毒針が光っている。「首肩を逃げきたる蚊を腿に撃つ」「すぐ馴染む中国人留学生暑し」のちょっといやな感じ。私(たち)が目をそむけたい自分の内側が陽光の下に見せしめになっているような、それをまた観察されているような感じ。むろん作者は読者にそのような感情を起こさせることなど見越していることだろう。イヤだけど、見たい。そう思った時点で私は北大路氏の術中にまんまとはまっているのかもしれない。


国に恩売りしことあり蠅叩く   八田木枯

ありがたいことに、いまや、国と国民との間柄に「恩」なるタームはおおやけには存在しない。「お国のため」が当たり前に、或いは崇高なこととして世間に受け入れられていた(と聞いている)一時期の日本に八田氏は身を置いていた。その過去ゆえに「国に恩売りし」がリアルに届くのだろう、と考えたのだが、ここまではその時代を経験している人ならば書けるかもしれない。この句に実感があるのは、「蝿叩く」、この剽げたような季語が苦く働いているからではないか。回顧から一転、目の前の蝿を打ち据えることの無関連な関連-とつい意味不明なことを口走ってしまうが-に泣いていいんだか、笑っていいんだか、よく分からなくなる。そもそも、八田氏には、一元的に捉えられない、得体の知れぬ句が多い。「蠅帳のなかで死にたる蠅ありき」は蝿の骸の汚らしさをまざまざと見せながら、単なる昆虫の死以上の意味があるには違いなく、しかし、それを追おうとすると、蝿が一匹転がっているところに戻ってしまう。チンドン屋の人を喰ったような五句もまた一筋縄ではいかぬ作品だ。チンドン屋は氏自身の自画像にも思えてくるのだが、また煙に巻かれてしまいそうなのでもうこの辺にしておこう。


シャワー浴び了へたる空や鳥流れ  高柳克弘

勝手な思い込みだけれど、夕暮れどきのような気がする。例えば外出の前のさっとひと浴び。浴室を出て頭など拭きながらふと見上げた空の遠くを一羽の鳥。さっぱりしたからだと飛び行く鳥の取り合わせが何だかとてもいい。「や」の切れが空の広さを演出している。そして、鳥の飛ぶさまを「流れ」と表現したところに甘さぎりぎり手前の詩情があり、全体的に清々しい叙情をよぶのだと思う。「風細く吹きゐる蛇の卵かな」「白雲やきうりトマトは水に浮き」の「細く」「白」も「流れ」と同じく、一句の要になっていて、どうということない事柄(蛇の卵はどうということあるけれど)を締めている。上手い、というより、対象をよくよく見た上での言葉の選択は揺るがないのだな、と同じく俳句を作る者として学ばせて頂いた。それにしても、掲句。流れていく日々の、いつかあるときこんな光景が自分にもあった心持になってくるから不思議だ。


近況のあまり変はらぬ残暑かな  野口る理

「実家より」の作品名からすると、いっときの里帰りのひとコマのことだろう。久しぶりに会う故郷の昔馴染みとの会話かもしれない。「どう、どうしてた?あれから何か変わったことあった?」なぞと。どこにどう暮らしていようと、生活に劇的な変化というものはそうそう起こらない。それでも、半ば予定調和的にお約束のように近況というものは尋ねてしまうものだ。そこのところが、軽い笑みと共に伝わってくる。おそらく、大きな変化があれば、「実家より」の十句は生まれなかっただろう。変わらない家や風景や友だちのなかで過ごす穏やかなひとときを気張らずに描写していて、読んでいるこちら側も肩の力がふっと抜けるような、そんな作品群。



八田木枯 世に棲む日々 10句  ≫読む
井上弘美 夏 館 10句  ≫読む
村上鞆彦 人ごゑ 10句  ≫読む
ま り ガーデン 10句    ≫読む
橋本 直 英國行 10句    ≫読む
北大路 翼 ニッポン 10句  ≫読む
野口る理 実家より 10句  ≫読む
髙柳克弘 ねむれる子 10句  ≫読む
山口優夢 おいでシンガポール 10句  ≫読む

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