〔俳誌を読む〕
『俳句』2009年10月号を読む ……上田信治
●特集 友を詠む、友と詠む p.63-
先月号の「老境こそ俳句は輝く!」に続き、今号も特集タイトルだけで「パス」しそうになりますが、特集前半の論考「俳人が詠んだ「友」」6編の、書き手の並びを見て、気を取り直しました。
女性俳句史研究の「麟」誌編集長・駒木根淳子「竹下しづの女」。父・勝彦が「鶴」所属だった石田郷子「石田波郷」。仲寒蝉「飯田龍太」というのは仲さんが長野県在住という地方性ゆえ? 神野紗希「桂信子」と、藤原龍一郎「田中裕明」は分かる人には分かるだろうという人選だし、「永田耕衣」関悦史も、これしかないと納得。
すごくいいですよね、この人選。
惜しいかな、文字数が400字詰め5枚足らず。ページのやりくりが大変そうな最近の「俳句」ですが、この倍は欲しいところでした。
ところで福岡市総合図書館には約百通のしづの女宛の書簡が寄贈・保管されているが、そのうちの実にハ割がより江(久保より江・編集部注)からのものであり、二人の深い絆を窺い知ることができる。(「しづの女が詠んだより江」駒木根淳子)
耕衣にとり重信(高柳・編集部注)は魅惑的ながらも容易に捕食して養分としきれぬ相手、重信にとり耕衣は「黙って作品を見せ合うだけで、うなづきあっていたい」「危険なおそるべき作家」ということで、双方食いも語りも自由には出来ぬ異和を抱えつつの微笑であるという互いの関係までもがここ(〈長生や口の中まで青薄〉〈長生や口の中まで青簾〉の2句・同)に一度に表されているのである。(「青薄と青簾」関悦史)
身体性をともなう色濃い友愛感覚を生み出す表現。これを田中裕明の友の句の特徴と言ってよいのではないか。(「濃密な身体性」藤原龍一郎)
●連載・名句合わせ鏡(22)「動詞について」岸本尚毅 p.114-
俳句の心象はしばしば動詞に宿ります。動詞中心の表現は心象を帯び易く、動詞のない表現は即物的である。これは私の仮説です。
名詞がモノだとすれば、動詞はコトです。動詞は句にコトを持ち込みます。動詞によって、句はモノの世界からコトの世界へと足を踏み出します。その結果、句はときとして心象の色を濃くします。
動詞は前後の名詞を巻き込んで文脈を決定する機能を持っています。動詞は一句の文脈を統べることになりがちです。それゆえ「俳句の心象は動詞に宿る」という仮説は的外れではないと思います。逆に、一句が過剰な心象を抱え込まないためには、動詞の使用に対し控え目であることも句作の知恵だと思います。
この連載、遊びの回もありますが、今月は『俳句の力学』(ウェップ)にも通じる内容の、本気の回。引用句も〈金亀子とび続けをりいま何時 波多野爽波〉など数多く、じつに面白い。
ところで、岸本さんの出たばかりの第四句集『感謝』(ふらんす堂)には、動詞というテーマに限って見ても〈剥落し風化し小鳥来るところ〉〈もの掛くる釘に影して日脚のぶ〉(動詞だらけなのに動きがない)、〈降る雨の見えて聞こえて草の花〉(「見えて聞こえず」または、その逆ならなら普通なんですが)などあって、ひじょうに意欲的。いやあ、ほんと、今年は句集の当たり年だわ。
●次号予告 p.275
次号、角川俳句賞の発表ですが、予告を見ると、受賞作の他に掲載される候補作品は、とうとう2作に。ま、それだけ選が寄ったということかもしれませんが、そういうわけなので、賞へ応募された方は、ぜひ、当誌「2009落選展」に、作品50句をお寄せ下さい。よろしくお願いいたします。
●今月の作品より
たとふればレタスを剥がすときの音 正木ゆう子
見事なる捩花に天はるかなり 大屋達治
折りて切れぬ草はそのまま墓へ水 島田牙城
かたつむり肉もて包む枝のさき 原拓也
枇杷の実の枝とつながる太さかな 金子光利
男あり猫の毛を炎天へ吹く 山地春眠子
おっと大谷弘至さんが載ってますよ。
見覚えのなき一冊も曝しおく 大谷弘至
あ、そうそう、これ言っとかなきゃ。隔月誌『俳句あるふぁ』(毎日新聞社)の連載「戦後の百俳人」(宇多喜代子)が、面白い。これからの俳壇を担うと目される俳人100人の、自選10句に対して、宇多さんが、かなーり遠慮なく論評を加えるという、この企画。その対象が「自選」10句であることが、救いでもあり、致命的でもありという……。1回につき5人をとりあげるので、あと17回。「俳句あるふぁ」には、がんばって存続してもらわなくては。
2009-10-04
『俳句』2009年10月号を読む 上田信治
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