〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年10月号を読む(下)
山口優夢
●兜太ばかりがなぜもてる? p129-
つい先頃最新句集『日常』が刊行され、『俳句』編集部からは『金子兜太の世界』も出版されるなど注目を集めている金子兜太がらみの企画。松澤昭、八木健が主に金子兜太の人物について語り、池田澄子が金子兜太宛ての手紙を書き、兜太のインタビューがあり、山崎十生、神野紗希、佐藤文香の『日常』論、という流れだ。
中では、池田澄子氏が兜太宛ての手紙と言う形で書いた兜太論に、殊に心動かされるところが大きかった。手紙形式で雑誌に載せる文章を書く、ということは、完全に手紙と同じようにその人一人だけに宛てて書いても、その人しか面白くないのではダメだし、かといって雑誌の読者ばかりを意識して書くのであれば手紙形式の意味がない。つまり、本人への親しみを込めつつ、誰が読んでも面白い発見のある文章にしなくてはならない、という特殊性と普遍性の高度なバランス感覚を要求する原稿なのである。
澄子氏の文章は、兜太自身の持つ人間的魅力と、俳句作品の魅力をうまく結びつけ、時には作品に対するルビの振り方に(親しみをこめて)注文をつけており、兜太へのリスペクトを感じると同時に、兜太論としても楽しく読めて、さすがだと感じ入った。詳しい内容は、買って読んでいただければ、と思うが、特に僕が心惹かれたのは、文章の最初の方に、
昨夕、句集『日常』にサインをいただき、握手で先生のエネルギーを盗んだ私は、帰宅して嗽をし入浴して冷たいものを飲んで、テーブルの前に坐ったところです。この稿の締め切りはまだまだ先ですのに、気持が後を引いていて書きたくなってしまったのです。と書かれてあったところだ。この原稿は仕事で書いているのであろうに、澄子氏の兜太に対する仕事を離れた個人的な敬意が垣間見えて、そのような気持ちをもって書かれた文章なのだと思うだけで、兜太自身でない僕までもとても楽しい気持ちになってしまうのだった。
兜太インタビューの副題は「俺が五七五そのものなんだ。」。この豪放な言い方、やはり魅力的。これは、兜太節を生のまま楽しむことのできる原稿として読むべきであって、たとえば「有季定型っていうけれど、定型は大事だけど、有季は別に拘ることじゃないです。」という彼の発言の根拠がこのインタビューからではいまいち分からない、というところにいちいちケチをつけて読むような性質のものではないのだろう。昔の、中村草田男と山本健吉との論争の様子を語っている部分など、興味深い話も多い。
『日常』論では、神野紗希氏の
穴子寿司食べてる鬼房が死んだ
を皮切りに、丁寧に兜太俳句を読み解いてゆく論も心地よく思ったが、
合歓の花君と別れてうろつくよ
に「涙が出た」と言う佐藤文香氏の文章の、一句一句熱のこもった句の読みにも感銘を受けた。
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
ほうぼうで話題になる句だが、この句に「あたたかく母から生まれた」という文言をつけてみせるのは、さすがであろう。
●坂口昌弘:俳句界時評 俗から造化へ~俳諧精神の自由 句集『夏至』と『日常』 p76-
この時評でも、故意か偶然か特集同様に金子兜太の句集を話頭に挙げている。気になったのは、正木ゆう子の『夏至』、金子兜太の『日常』それぞれから
太陽のうんこのやうに春の島 ゆう子
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太
の二句を挙げ、「優秀な二人の共通点と特徴を表していて、これらの句を引用しない二人の句集論はあり得ない。」としているところ。兜太の句が佐藤氏の言うように「あたたかく母から生まれた」自己の肉体、というものを想起させ、しかもグロテスクではなく、「長寿」の母に捧げる感謝の念や母の毎日の排泄という人間としての営みへ寄り添ってゆく深い思いを感じさせるのに対し、さて、正木ゆう子の「うんこ」の句はこれと同一に議論できるものであろうか。「うんこのやうに」という言葉自体は同じでも、それが「われを産みぬ」にかかって自意識を表現するのか、「春の島」にかかって天地創造を幻想するのか、によってこれらの言葉の持つ意味合いは全然違っているのではないだろうか。
この二句を挙げて議論を展開するのであれば、少なくともそのような相違点を確認したうえで各々の作者の個別性に筆を進めてゆく必要があるように僕には感じられるが、どうもこの論においては「うんこ」や「糞尿」を詠むということが「荘子の思想」やら虚子の「俳諧スボタ経」やらに通うところがある、と一緒くたにくくられ、一つの思想パターンに組み込まれてしまって、話を終わらせてしまっている点は少々残念に思えた。「これらの句を引用しない二人の句集論はあり得ない」という大見栄切った言い方に見合うほど、僕自身がこの論に説得されなかったのである。
坂口氏の句評は、たとえば正木ゆう子氏については「個性的なコスモロジーを表現する、今日稀な俳人である」としていたり(個性的なコスモロジー、ってなんでしょう)、さきほどの「うんこ」で荘子を持ちだしてきたり、というように、それぞれの俳人の句をもっと一般的な概念や思想の中に組み込むことで論を進めるということが多く、それはたとえば自分が句評を書く際には、あまりない発想だったので、なるほど、そういう書き方もあるのか、と興じながら読み進めた。
●隔月連載 絆~親子対談:森澄雄+森潮 p183-
今月から始まった隔月連載で、親子や夫婦で俳句をたしなむ方を毎回一組まねき、聞き手に坂口昌弘氏を配して対談してもらおうという企画。坂口氏は、この第一回を見る限りでは聞き手というよりも司会者といった印象を受けたが。
この親子対談、はっきり言って何をしたいのか、意図がまるで見えない。「聞き手」の坂口氏は、冒頭で「親子で俳句や結社を継承してゆくことが非難されている」現状を指摘したものの、つづいて「ただ、私は、親から子へ俳句理念が引き継がれてゆくのは、何か必然のようなものがあると感じているんです。」と、問題提起した先から自分で解決してしまい、ではこの対談では彼が感じているという「必然のようなもの」が見えてくるのかと言うと、そうでもないようである。
対談の内容は、主に森澄雄氏の語る俳句理念を受けて、坂口氏と息子の潮氏がさらに言葉をつけ足しながらその理念の素晴らしさを語り合う、というようなもの。坂口氏は、森澄雄氏の俳句について「大きな老荘思想が息づいている」としており、時評のときと同様にここでもある俳人の句業を一つの思想の中にカテゴライズしている。
ところどころで、森澄雄氏の奥さまの句が出てきたり、潮氏が俳句の世界に足を踏み入れるきっかけが語られたりするものの、親子の間での俳句観の相違や共通点がどこにあるのか、親子で俳句をやっているということの意味はなんなのか、ということがあまり伝わってこない。そもそも、この対談中では森澄雄氏の俳句ばかり話題に上がって、森潮氏の俳句が一句も登場してこない。寡聞にして森潮氏の名前をこの企画で初めて知った私のような読者からしてみれば、彼がどのような俳句を詠むのか、ということすら分からないのである。
親から子へ伝わっているものは?老荘思想?残念ながら、第一回の対談は、読んでいて納得のいくものとはとても言い難かった。
●魅惑の俳人たち 高屋窓秋 奇跡の俳人、そのロマンと叙情性 p95-
以前から興味を抱いていた俳人であったものの、自らの怠惰のせいでなかなかまとまって句を読む機会がなかったところ、編集部の抄出による句セレクションで初期から後期までの句を見ることができたのは大変面白かった。
特に
降る雪が川の中にもふり昏れぬ
一つづつ万の夕日が山に消ゆ
核の詩や人肉ふたり愛し死す
などの句をこの特集で知り、新たに感銘を受けた。
1 comments:
黄金句篇
太陽のうんこのやうに春の島 正木ゆう子
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 金子兜太
立冬のかたきうんこをいたしけり 雪我狂流
「うんこ」は小さな子どもが好きな話題なので、童心で詠む/読むことが大切だと思います。
「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」は、長寿の母が今まさに兜太を産んだみたいで、おもしろいです。老い=幼児化
「太陽のうんこのやうに春の島」は小学生俳句のようで、おもしろいですね。
参照:比喩をめぐって【前編】
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