2009-01-11

〔俳句関連書を読む〕『俳句の力学』岸本尚毅 …上田信治

〔俳句関連書を読む〕
『俳句の力学』 岸本尚毅

上田信治


発行 ウエップ 2008年9月刊

目次
俳句の可能性;主題について―季題という秩序;季題を演じる;季題と取り合わせ;写生について;「写生」と「読み」について;言葉選びの心理;名山と名月;切れ字について―『葛飾』の場合;切れ字と叙情について;常態としての変化―俳句と時間;感覚について;俳句の設計思想;会話と棒読み―他者としての言葉;言葉と自然;内言語について;俳句という器



いわゆる昭和30年世代(←もう「通り名」ということで、いいでしょう)を代表する作家・岸本尚毅による俳論集。

一昨年、同じく世代の代表者の一人、小澤實の評論エッセイ『俳句のはじまる場所』について、本欄で取り上げ、「著者(小澤)の関心は、俳句の根拠すなわちそれが「はじまる場所」を、個人による表現から、伝統と共同性に置き直すことにあった」と書いた。

小澤が、いわば俳句の「外」に俳句の成立要件を確かめようとしたのと対称的に、岸本の思考は、本書において徹底して俳句の「内側」に向けられている。

そのことは岸本という作家の関心を、よく表していると思う。



見たところ、本書は、ざっくりと3部構成になっている。

1)主題=季題から見た俳句 
「主題について―季題という秩序」「季題を演じる」「季題と取り合わせ」

2)表現技術から見た俳句  
「写生について」から「俳句の設計思想」まで。

3)言葉の性質から見た俳句 
「会話と棒読み―他者としての言葉」「言葉と自然」「内言語について」



まず、表現技術に関する中盤が、面白い。

世が世なら「一子相伝」か「門外不出」かというようなテクニックが、惜しげもなく披露されている。だいたい、ここまで、技術を言語化できる作家は、そうそういないだろう(*1)。

「曖昧であることを明確に」とは、会社の仕事だけでなく、俳句の要諦でもあると思われます。(p.77「「写生」と「読み」について」)

切れ字を使うと、一句の中に緩い部分と急な部分、濃い部分と淡い部分が生じます。(…)緩く淡い部分を、急で濃い部分が吸い寄せることによって一句の一体感が生じます。(p.118「切れ字について」)

下五の「○○かな」の○○が季題でない場合、虚子は中七を「て」で止めます。(p.130 「切れ字と叙情について」)

さらに、切れ字「や」「かな」が、句内でどう「力学」的に働くかを記述するくだりなど、まさに「実作者としてはこれで十分」(筑紫磐井「豈weekly 16号」評論詩(切れについて6 又は岸本尚毅の『俳句の力学』))。

このまま書き続ければ、著者は、角川『俳句』の10年分の特集テーマに、端から結論を出してしまうだろう。

技術論に関心のない向きでも、『葛飾』の秋桜子が、その調べの中で切れ字「や」「かな」をどう生かしたか、またそれ以後の句集で、どう、その使用を抑制したかというような分析からは、得るところが多いはずだ。

まさにこれは「内側」からの思考である。

身につければ、俳句の分解掃除ができるようになる。





しかし本書は、それに尽きる本ではない。

まず、前半の、主題論。

著者は、虚子に倣って「ある俳句が「何を」詠ったものか、一句の主題は何かという問に対する答えは、季題というだけで十分です。」(p.31 「主題について」)と、立論する

すでに、まったく賛成できないという読者も多いと思われるが、注意してほしい、著者はまだ、その句の題を「問」われたら、その答は「季題」だと、つまり「題」は「題」だ、と言っているだけなのだ。

そして著者は、季題を軸に、中村草田男のある高名な句を理解しようと試みる。

金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り  中村草田男

草田男自身の意図する主題は、本人の「怒り」であって「金魚」ではないだろうと認めつつ、岸本は、ではこの「金魚」は何なのだと問う。

この「金魚」から「夏」の季節感を感じる人はいないと思います。読み手はただ、何の意味も脈絡もなく「彼奴」への手向けとして「金魚」が選ばれたことに当惑することでしょう。金魚は何を意味するのでしょうか。何の象徴なのでしょうか。

私は、この句の金魚は金魚以外の何物でもないと考えます。(p.41「季題を演じる」)

これには笑った。

確かにそうだ。草田男の「怒り」と無関係に、金魚が金魚として(意味や象徴に堕することなく)存在しているから、この句は人に記憶されるだけのチャームを備え得たのだ。

しかし「金魚以外の何物でもない」金魚とは、前後の脈絡からして「季題」としての金魚ということになる。

ここは危ないところで、「金魚」が「季題」であることの価値を、俳句内部から説明することは、おそらくできない。(*2

岸本は、西洋古典絵画の花や風景が寓意を担っていたことを挙げ「画家は本気で寓意のために花や鳥を描いたのでしょうか。そうではないと思います。「寓意」とは口実に過ぎず、画家は花や鳥、虫そのものを描きたかったのです。」(p.41 同)、と、美術のアナロジーから、「金魚」が、草田男の主観的意図を離れて一句の中心たりうることを説明しようとする。

しかし、絵の花はそれ自体美しいが、「金魚」という言葉は、それ自体、没価値である。そこは岸本もよく分かっている。

俳句を知らない人にとって「金魚」も(〈勇気こそ地の塩なれや梅真白〉の)梅」も唐突です。何で金魚なのか、何で梅なのか。(…)「季題だから」という答は、水戸黄門の印籠のように絶対的かつ無意味です。季題とは(…)一種の約束事です。(p.54 「季題と取り合わせ」)

けっきょく岸本は、虚子が「季題のあるところには如何なるものにも俳句はあります。如何なるものも季題のないところには俳句はありません。俳句は花鳥諷詠の文学であります。」(『俳句読本』)と述べた地点に立ち戻り、虚子と共に(開き直って?)言う。「これでいーのだ」と。(*3)(*4

「何か」を、その「何か」の内部から説明しようとする思考は、どこかでトートロジーにおちいることが必然で、それを「神学」的思考という。言いたいことは「神は、いるから、いるのだ」に尽きてしまうのだが、その思考の究極の一点には、やむにやまれぬ「霊感」がある(霊感抜きでそれをする人は…気の毒である)。

「虚子」神学における問答無用地点を前にしての、岸本のためらいと立ち止まりが、本書前半の記述の特徴だ。

たとえば「このような考え方は「季題崇拝者の天動説」かもしれません」(p.43)と、立ち止まる。そこでいったん常識の地平に立ち戻り、逡巡の末、また元の(論理的に支えることが難しい)地点にまで戻ってくる。

そのためらいが、「ホトトギス」的ドグマの連発になりかねない思考を、救っている。



自分は、岸本の逡巡から、かえって「季題」の現代的価値についてヒントを得た。

実のところ、草田男の「金魚」を、文脈上の必要や寓意で読もうとすれば読めないこともないのだが(「彼奴」の卑小さを際だたせる作者の「可愛さ」の象徴、とか)、それでは金魚が、観念となって死んでしまう。

しかし俳句には「季題」という約束事があり、それは、俳句の「読み」にビルトインされているので、金魚は文脈中にありつつ文脈に完全には拘束されない。その異質さは、人間にとってまるで「生きた自然」のようだ。

そして、そんな仕方でそこに存在させられる「季題」は、構造的に「謎」となる。たとえばそれが、田中裕明に見られる「季題」の方法だったのではないか。(*5



後半、岸本は、言葉の性質について、音楽家のエッセイや、作り手であり読み手でもある実感を参考に、こつこつと考えを進めていく。もはやイデオロギーとしての「虚子」は登場しない。そして、いくつかの聞き慣れない方法論(表現技術よりは包括的なもの)が、提示される。

言葉を他者として扱うこと、「自然」に「言葉」の真似をさせること、言葉が内言語として読者に共有されるように書くこと…。

ここには、たしかに、俳句を考えるためのオリジナルの概念が含まれている。それは、本書の達成と言えるものだろう。



それにしても、あらためて感心するのは、岸本において、俳句について考えることのほとんどが「どう書くか」に収斂していくことだ。

小澤實の『俳句のはじまる場所』は、現代に俳句の新しい「旗」をかかげる試みであったと思う。小川軽舟の『現代俳句の海図』は、この世代の作家を俳句史上に位置づけることを企図していた。

岸本の『俳句の力学』は、「どう書くか」を考えつづけることによって、俳句の本質に迫る試みである。

長期にわたる雑誌連載をまとめたものでありながら、狙い所にぶれがなく、その本気さを伺わせる。この人は、きっと、俳句をどう書くかにしか関心がない。しかし、その「書きかた」についての精緻な思考は、示唆に富み、これはやはり類のない俳書であると思わせる。

広く一読をお勧めします。(*6





*1. 「ピタゴラスイッチ」などで知られる佐藤雅彦が「方法をとことん意識化してしまえば、その先にある、本質的に新しいものが発想できる」というようなことを言っていたのを、連想した。

*2. かといって、伝統的美意識や四季のある日本の風土と、季題の価値を「直結」するのも間抜けな話。それらが「よきもの」であることは、まともな日本人ならみ んな知っているわけで、そういう「好感情」をあてにした表現であるなら、カレンダーの菜の花と富士山の写真で十分ということに、なるまいか。

*3. 「私は虚子の言葉を金科玉条のように信奉しています。虚子を信じていれば間違いないと実感するからです」(p.58「写生について」)

*4.
本書において「題」(title)あるいは「お題」と、いわゆる「主題」(theme)が、おそらく意図的に混同されている。

しかし、とにかく季題を一句の本質と見なすのだ、という詐術は、句に思わぬ奥行きを付け加える。たとえば本書p.31 。〈花を見し面を闇に打たせけり 普羅〉この句の主題は、季題の「花」ですとあるのを読んだ時、それまで「主」と見えていた普羅の内面が、景にさーっと溶けていくようで、ちょっとうっとりしてしまった。

*5. そういえば伝聞なんで不確かですが、田中裕明は「草田男好き」だったとか。

*6. 本書がけっこう入手しにくいところが、また奥義書めいている(笑)。Amazon.jp では品切れ中で、とんでもない値段で中古を売ろうとしてるプロ出品者がいる。他の書店サイトには在庫あるみたいです。(08.1.10現在)

そういえば、小澤、岸本、ときたら、次は田中裕明の文集が待たれますね。


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5 コメント:

もっち~ さんのコメント...

信治さま
アマゾンで探してみたら「2200円」という出品者がいて新品。
これならまあいいやと発注したら、なんと出品者は著者ご本人でした。
とし江

上田信治 さんのコメント...

とし江さま

うわあ。

それは「手売り」ってことですね。
あれ? ちょっとプレミアついてる・・・

上田信治 さんのコメント...

補足。

記事中の「プロ出品者」は、¥6000なんぼで、同書を売ろうとしてまして(たぶん同じ人が「昼寝の国の人」を¥4700で売ろうとしてますが←09/1/21)、その人を、引っ込ませるために、著者ご本人が出動されたのかもしれませんね。

猫髭 さんのコメント...

わたくしも東京駅八重洲ブックセンターに置いていなかったので、アマゾンで買いました。アマゾンが品切れなので岸本さんが在庫から出しているそうです。

田中裕明追悼特集2「昼寝の国の人」は八重洲ブックセンターで平積みで売ってますので高いのを買う必要はありません。

「日本の古本屋」と「アマゾン」などを併用して価格を比較すれば、どちらか安い方を選べます。「日本の古本屋」は郵便振替の手間はありますが、在庫が豊富なので、こまめに探せば5年以内に大体揃います。常連になると分厚い「古書目録」を送って来ますので、インターネットに載っていないものも入手出来ます。あとはコツコツ古本屋を回って探すことです。予算を言えばセドリで探してもくれますから。

古本と中古レコードは「求めよ、さらば与えられん」が極意です。迷ったら無理しても買う。でないと次に出会うのは10年後なぞ、この世界ではざら。
でも、俳句の場合、早く読みたい時は「俳句年鑑」で住所を調べて直接在庫が無いか著者に手紙を書いて問い合わせるのも手です。礼を尽くせば、そこまで読みたがっている愛読者を作者は邪険にはしないものです。
グッドラック♪

もっち~ さんのコメント...

信治さま
「プレミア」分は、アマゾンに出品する手数料の一部だそうです。それに送料が掛かりますが、本屋に行くのも電車賃かかりますしね。
『昼寝の国の人』は執筆者にツテがあれば、現在、千円で購入可能です。

とし江