2009-10-11

〔週俳9月の俳句を読む〕山口優夢 情けない顔をしたおじさん

〔週俳9月の俳句を読む〕
山口優夢
情けない顔をしたおじさん

『花野』 柴田佐知子

詠もうとする事物に、感情がするっと入り込んでいるのを感じた。最初の三句まではおとなしいが、四句目

秋高し漁師は勁き貌に老い

などは、漁師が老いるという句そのものはこれまでにもあったものの、「勁き貌」という把握が見事である。真黒に日焼けして、いつも唇をきっと結んでいる感じが見える。村上鬼城の「鷹のつらきびしく老いてあはれなり」を思った。また、

太刀魚は長しどこからでも切れと

のように、太刀魚の長さをとらえた作には初めて出会った。生き物のあわれが、てらてらと光る背びれに垣間見える。たとえば先ほど例に挙げた鬼城のように、「あはれ」という直接的な言葉を使わずにあわれを感じさせるところが「感情がするっと入り込んでいる」と言った所以で、このような十句作品の冒頭に

直進を暑しと思ふ直情も

とあるのは、作者の美意識が、直情径行的な表現を迂回して丁寧に言葉を探すことにあることを提示してでもいるかのようだ。

父ははに薬ももいろ天の川

この句では「ももいろ」というエロティックにも若々しくもなるはずの色が、変に毒々しく見えて、その奇妙な存在感の分、天の川の大きさの中にとても小さく生きている父母の「あわれ」が感じられる。また、四句目「漁師」の句と六句目「太刀魚」の句に挟まれていると、五句目のこの作にも、天いっぱいに波音が聞こえるような気がしてくるから不思議だ。この配列も狙って作っているのだろうか。ただ、七句目からはがらりと景色が変わって、山の中へと舞台が移ってゆく。

屈葬は苦しからむに鰯雲

この「苦しからむに」は、言われるまでもない、と、あまり驚かなかったが、「鰯雲」という視点の飛ばし方は好きだ。土中に屈葬された誰かが、空を果てしなくたゆたう鰯雲を幻視している。十句に揺曳する、生きていくことの切なさが、この十句目で、ゆっくりと不可逆的な死に向かってゆく様に、心打たれた。

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『立秋』 
高遠朱音

筆圧に戸惑いのあり立秋
発条の影が絡んでいる素足
ボトルキャップをひたすら集め遠花火

これらの句に面白そうな予感を感じた。特に「発条」の句は、影が素足に絡んでいるという、一種の気味悪さが出ていて、好きな句だ。

「筆圧に戸惑いのあり」というのは、きっと書いている本人が感じたことなのだろう。「こんな手紙出しちゃっていいのかしら、どきどき」というような青春っぽいドラマよりも、「この文字こんなに大きく書いちゃったら端っこが入らないんじゃないかしら、どきどき」というような些細なことで腰が引けていると考えた方が個人的には面白い。

十句全体に、事物そのものの存在感よりも、事物と自分との関係性に重点を置くことで、どこかはぐらかしながら書いているところが特徴的だと感じた。そういう中では、「ボトルキャップ」の句などは何を意図して集めているのかさっぱり分からないのに「ひたすら」なところが面白い。

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『人の名』 
ふけとしこ

郊外の匂いが強くする十句。一句目、

小鳥くる手を合はすとき指組むとき

は、十句の導入として、静かで森閑とした時間を演出している。というのも、手を合わす、というところからうす暗い寺の御堂などで仏像を拝んでいる姿を思うのだ。指を組む、というのは、さしずめ和尚の話を聞いているのだろう。漏れ来る外の光の中に小鳥の鳴き声。

澄んできし水に草の根洗ひけり
青北風や蔓草に実の見つからず

三句目、四句目のこれらの句は、いかにも田舎を逍遥する中で見つけた景色、といった風情が漂う。地味ではあるが、かっちり作られているために、読者も一緒になって散歩しているような気分になるところが、このような句の醍醐味だろう。特に「蔓草に実の見つからず」という把握は面白い。実際に蔓を手繰り寄せてまじまじと見てみたりしたのだろう。

渇きゐる木の実いろいろ見し後を

歩いているうちに疲れてくる。秋だから、名も知らぬような木の実をたくさん見かける。赤いもの、青いもの、小さいもの、大きいもの、高いところになっているもの、手に届くところにあるもの…それらを見ているうちに、木の実の中に詰まっている水分が気になりだす。ああ、のどが渇いた!

木の実の中の水気に意識を及ばせ、そこからのどの渇きという身体感覚がむくむくと持ち上がってくるという生理的感覚、とても面白く感じた。この句が十句中七句目というちょうど疲れてきてそうな場所にあるのも、一興である。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

海のものである秋刀魚が、「山近く暮らし」という語にくっつくことで、海から離れて人の暮らしに包まれているのがわかる。自然の中の秋刀魚とはまた別の、日常生活の中での秋刀魚、といった風情が面白い。

十句目で、散歩のあとの夕ご飯としゃれこんでいるところ、幸福な一日の終りといった感じで、好感が持てた。

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『少女期の』 
石地まゆみ

梶の葉やきのふの願ひ乾きたる

七夕の日、梶の葉に願いを書く風習があったと言われるが、その梶の葉が、一晩明けてみたら乾いていた。それだけの句だが、「きのふの願ひ」が叶ったとかダメだったとか、常套的な言い回しには落ち着かず、願いが「乾きたる」としたところが、ひねりが利いている。と同時に、一抹のさびしさもあり、詩を感じさせる。

この十句は、七夕から稲の刈り入れ(?)までの里の様子を活写している。全体に鄙びた感じが漂うという意味では、素材としてはふけとしこさんの「人の名」に通うところがあるが、自分自身の人生といったような物語の方により重点がかかっている点、逍遥して作ったようなふけ作品とは色合いが異なる。それはたとえば以下のような作品に表れている。

夏燕声失ひしひととゐて
少女期の傷持ちへくそかづらかな

それぞれに人が人生で背負うものの重さを感じさせる措辞だが、「夏燕」や「へくそかづら」の明るさが、やや救いになっている。ただ、これらは思わせぶりなわりには十七文字で十全に心の機微を描き切れていないのではないかという疑いなしとしない。むしろ、

朝寝髪残る河鹿をとほく聴く

の「朝寝髪」ってなんだかかわいらしいなあ、とか、

さはさはと神を背負ひし稲の波

の「神」ってすごい言い回しだな、といった措辞のこまやかさに面白みを感じた。「神」は、こうして書かれてみると、情けない顔をしたおじさんのような気がするから不思議だ。



『俳人としての私』 外山一機

先人たちの著名句に対するオマージュ的な要素の強いパロディの作品群。

とたえば「千年の留守に瀑布を掛けておく (夏石番矢)」に対する

千(せん)年(ねん)乗(の)る
巣(す)に

伯(はく)父(ふ)を
架(か)けておく

などは、元の句のイメージが「千年」というはるかな時間に立脚したものであり、今回の作品でもそこを変えずに「千年」と出してしまっているところからすると、元々の作品の勢力圏を出られていないのではないか、すなわち、番矢の句に負けているのではないかと感じたりもした。しかし、次の二つはとても好きだった。

 新宿ははるかなる墓碑鳥渡る (福永耕二)

信(しん)じゆくは
遥(はる)かなる穂(ほ)


ひとり渡(わた)る



 今朝咲きしくちなしの又白きこと (星野立子)

袈(け)裟(さ)裂(さ)きし
愚(ぐ)
父(ち)無(な)しの

股(また)白(しろ)き児(こ)と


これらは、元々の句のイメージから大きく飛翔し、一つの世界を作っていると言えるだろう。

このような作品の場合、どの先行作品を選んでくるか、とか、どのように言葉を変えてゆくか、ということのむずかしさもさることながら、ここに出ている十句なら十句全てに共有されるような世界観がなければ、パロディ作品を十句出してくるという意味がないと思う。この十句作品の場合は、「大欲情」「反吐」「股白き児」などの言葉が醸し出すイメージが、彼の世界を作り上げている点、十句のまとまりを感じさせて、興味深かった。ただし、そのような世界自体が、すでに一昔前の前衛と同じではないかという印象を与えてしまうということは否めないように感じもしたが。

いずれにしろ、大変な力作であると思う。「信じゆくは」の句は、福永耕二の句との距離感云々ということを考えずにこの句だけ見たとしても、好きになれる句だ。



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