2009-11-29

山口優夢 海程秩父俳句道場参加レポート 後篇

海程秩父俳句道場参加レポート 後篇
2日目
 「思い」は「肉」に、「肉」は「思い」に

山口優夢


11月8日(日曜日)

朝ご飯をいただいたあと、午前中はこの俳句道場の目玉イベントの一つ、池田澄子トークセッションである。

2部構成で、まず第1部は海程会員が事前に提出していた自選2句について澄子さんがあれこれ語るというもの。自選2句の中から何句か選んで評をする、というようなものではなく、提出された全ての句について澄子さんが「自分がその句の作者だったらどう思うか」を語る、というもの。このままの形で良い句だと思えるものについてはどこが良いかを語り、そうでない句についてはどのように推敲するか、自分の推敲の仕方を語ってゆく、という趣向だ。

これは、幹事の宮崎さんと澄子さんがトークセッションの内容をどうするか話し合った結果、このような形になったということであった。個々の句について澄子さんが何を語ったかということももちろん大事ではあるが、まずは、トークセッションをそのような独創的な形で行うことにした澄子さんの見識に敬意を表したい。

自選句の中から何句かいいと思うものを選んで評することにすればもっと簡単にこのトークセッションをこなすことができたであろう。しかし、上の立場から選をするのは嫌だと言って、句そのものの評価について云々するのではなく、句を借りて自分の作句工房の手の内を語ることにしたのだ。しかも出てきた全部の句についてこのようなことを行うのは大変面倒なことであるだろうけれども、聞く側にとっては非常に役立つ話になるに決まっている。

澄子さんは俳句の言葉の組み立て方については非常に高いプロ意識を持っている方なので、助詞の使い方や切れの入れ方、略語の使用、口語を用いるか文語を用いるかといったことについて、個々の句の作句意図を汲んで行きながら具体的に詳しく語ってくださった。このトークセッション第1部では兜太さんはいらっしゃっていなかった。俺が居ない方がやりやすいでしょ、自由にやってください、との心遣いだったそうである。

興味深く思ったことは、「切れ」の有無に関する認識が兜太さんと澄子さんで微妙に異なっているという点である。前日の句会でうかがっていたところでは、兜太さんは明確に切れていることが分からない句でも、読み手側の態度として切って読むのが当然、というお考えであったが、澄子さんは、読み手側がどのように受け取るとしても、書き手側としては切っているのか切っていないのか、自分ではっきり意識しながら作らなければダメだ、というお話をされていた。僕は海程の人間ではないのではっきりは分からないが、海程の傾向として、切っても切らなくてもどっちでも読める句に対する評価が甘いようだと、その澄子さんのお話を聞いて思った方も中にはいらっしゃったようである。

以上のような澄子さんの句作に対する態度をもっと知りたい方には池田澄子俳論集「休むに似たり」を一読されるのをお薦めすることにして、ひとまずこのトークセッション第1部については筆を措きたい。

ただ一言添えるとすれば、澄子さんが自分の句を推敲する際には、それを自分が作った句だと思わずに、誰かイヤなヤツが作った句だというくらいの気持で粗捜しをしながら直すようにするとよい、とおっしゃっていたお話が殊におもしろかった。

少々休憩をはさんだのちの第2部は、澄子さんの来し方や過去の作品について司会の宮崎斗士さんがインタビューし、語ってもらうというもの。手許に資料が配られる。そこに載っているのは池田澄子のプロフィール、既刊四句集『空の庭』『いつしか人に生まれて』『ゆく船』『たましいの話』さらにそれ以降発表されたものから抄出された作品、そして一番最後に池田澄子の戦争俳句と金子兜太の戦争俳句を並べて抄出してある。

プロフィールをもとに、まず澄子さんの俳句の来歴を振り返る。中でも山場はやはり三橋敏雄に師事するくだりであろう。俳句研究の三橋敏雄特集に感銘を受けた澄子さんは、三橋敏雄に俳句を教えてもらえるよう手紙を出すが、それに対して返ってきた返事は「俳句は教えられるものではない」という御返事。しかしそのあとに続けて「五十句持ってきてくれればコメントする」との言葉があった。

「それを、わたし、利用したってことね」ぺろっと舌を出しそうなかわいらしい様子で澄子さんは語る。「三橋敏雄っていう人は、俳句が好きだから、俳句を見たら、やっぱり何か言わずにいられないのよね」そして、澄子さん自身も、そんな俳人になっていった。

また、このイベントの中では、司会の斗士さんが『空の庭』から抄出された作品を見て

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 澄子
ピーマン切って中を明るくしてあげた

これらの代表句がすでに第1句集の中に存在していることを指摘すると、澄子さんは、ちょっと困った顔をされて、「代表句じゃないわ、これは、出発の句」とおっしゃったのが印象的であった。

そうしているうちに話は戦争俳句のことに及ぶ。レジュメの最後に池田澄子の戦争俳句と金子兜太の戦争俳句が並んでいるのを見て、澄子さんは「いやだわ、こうして並ぶとなんとも恥ずかしい」とおっしゃる。澄子さんいわく、澄子さん自身はこのような戦争俳句を「思い」で書いており、兜太さんは「肉」で書いているのだから、両者は根本的な性質が違う、ということであった。確かに、

前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル 澄子

という澄子さんの句と

後ろより編隊機過ぐ鴨が過ぐ 兜太

という兜太さんの句とは、両方とも優れた句ではあるものの、志向する方向が異なるように思える。全体性と個別性、と言おうか、否、これはやはり澄子さん本人が言うように、「思い」と「肉」の違いなのであろう。戦死者に対する思いは澄子俳句に深く、戦争の生々しさは兜太俳句に濃い。

戦争俳句について話していると、そこへ金子兜太が登場。自身の戦争俳句と澄子さんの戦争俳句について聞かれ、話は澄子さんと兜太さんの対談になっていった。兜太さんから見て、澄子さんの戦争俳句は「ユーモラスでマンガチックだが、おちゃらけていない」という印象なのだとか。そういう戦争俳句を書ける書き手として、澄子さんには注目しているとのことだった。

池田澄子の戦争俳句に対して「マンガチック」と言える人もそうそういないだろう。でも、確かにそれは澄子俳句の正鵠を射ている。マンガチックにあえて書くことによって鋭い批判精神、風刺を内在させているのだ。だから、「私の戦争俳句は、父を戦争で失ったという恨みが書かせているんですよ」と澄子さんがおっしゃるのも、もっともなことである。兜太さんは「そうは見えないがなあ」とおっしゃるが、たぶん、そうは見えないところまで思いを俳句表現の中に沈めているということなのだ。まるで巨艦の錨のように。そこまで思いを沈みきらせる俳句形式というものに、あるいは池田澄子の作家根性というものに、次のような句を読んだとき思いいたって、僕はやや戦慄してしまう。

忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 澄子

それに対して、金子兜太自身の戦争俳句としては以下の句が話題に上がった。

魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ 兜太

この句は、トラック島で野面積みにされた魚雷を描写したものであるということだった。普通は魚雷などは穴を掘って隠すのだが、終戦間際のころにはそういう暇がなかったらしく、パンの木の陰に野面積みされていたということだった。自分自身では自信を持っていたものの人からはあまり評価されなかった句だが、兜太さんの師である加藤楸邨からは「トラック島で詠んだ句の中ではこれが一番いいですね」と言われたという。命に対する危機感を生々しくうたった作、とのことであった。この句は蜥蜴の感触が生々しく描けているし、殊に最後の「去りぬ」という措辞には、取り残された魚雷の静けさや不気味さが表れていて、僕も秀逸な句だと思う。

この戦争俳句についてのお話を聞いていて思ったのは、澄子さんが戦争を描くとき、「思い」が肉体化する凄まじさがあり、兜太さんの戦争俳句には「肉体」が思いを醸成する凄まじさがあるのではないかな、と、これは僕の勝手な感想である。なんにしても、お二人の戦争関係の俳句をこうして並べて当人たちに語ってもらうという機会は今後絶無に近いであろうから、貴重な機会であったと思われる。

昼食をはさみ、午後は日中いっぱい句会。秩父まで遠出をしていながら日のあるうちに一歩も外へでないというのは、なんだかやるべきことをやらずにさぼっているみたいで、逆に楽しい。昨日一日見て回ったのだから、今日はこうして屋内で過ごすのもいいかな、と思える。

句会の形式は一回目と同じ。ただし、時間の都合上選句は四句普通選と一句「問題句」として選ぶ、ということになった。時間短縮のために選句の数を減らす場合も、「問題句」の選出は必ず行うのだな、という点、面白く思った。

この句会では、「切れ」に対する兜太さんと澄子さんの見方の相違が顕在化したのが興味深かった。ある句について、切れているとも切れていないとも読めることから高く評価することはできないとする澄子さんと、切って読むのが基本なのだからそれは傷にはならない、むしろこれは二物衝撃がうまくいっている良い句だ、とする兜太さんと。どちらの見解が正しいとか正しくないとかではなく、それぞれの俳句観が表れているようで面白い。

そうして句会が終了したのは午後5時過ぎ。俳句道場自体は、本当はこの翌日まで続くのであるが、翌日は月曜日ということもあり、この日に帰るという方も多くいらっしゃる。僕も澄子さんもそういう方々と一緒に宿舎を後にした。

宿舎を出て上長瀞駅まで五分の道は、まだ日が沈んで間もないころと言うのにもうずいぶんと暗かった。しみじみ、東京から遠いところに自分がいることを感じる。

帰りは西武線の中で津波古江津さん、小川楓子さん、澄子さんと四人で日本酒を酌み交わした。津波古さんに「優夢さんは院生とおっしゃっていたけれど、近世文学か何かやっていらっしゃるの?」と聞かれて「いえ、キンセイじゃなくて、火星なんですよ」などと馬鹿馬鹿しい応答などしているうちに、楽しい時間はあっという間に過ぎて、池袋に到着。

楽しい二日間であったが、多くの海程の方々は三日目まで奮闘されているという。三日間の間俳句と真剣に向き合おうという海程の方々の熱意と、それを引っ張っていらっしゃるお元気な兜太さん、そして含蓄に富むお言葉と楽しい思い出を沢山くださったお茶目な澄子さんに敬意を表して、この稿を終りにしたいと思う。

あの日くれし河原の石がまだ青し 優夢

(了)

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