2009-11-22

山口優夢 海程秩父俳句道場参加レポート 前篇

海程秩父俳句道場参加レポート 前篇
1日目
「兜太の秩父へ」

山口優夢


11月7日(土曜日)

御花畑、という名の小さな駅から、僕らは秩父鉄道に乗った。今回の幹事を務めていただいている宮崎斗士さんとその奥さまの芹沢愛子さん、それに海程俳句道場のゲスト・池田澄子さんらとともに4人で横長のシートに腰かけて目の前の車窓を眺めていると、どこまで行っても次々山が流れてゆくのが見える。乗客が少ないため、お昼前の暖かな光が目の前の車窓いっぱいに満ちて、列車の中はしずかに明るかった。

隣に座っている池田澄子さんと他愛ない話をしていると、車窓が木々に覆われてゆき、その次の瞬間、にわかに目の前の風景が豹変した。レールの脇の木々が尽きて、世界が不意にきらめいた。鉄橋にさしかかったのだ。窓の下をのぞくとかなり下の方に荒川の源流が流れているのが見える。川岸には、石のしきつめられた河原と、その周辺を覆う木々。列車の中にいてもそのせせらぎがごおと聞こえてくるかのように、川の流れは激しかった。ふと立ち上がって見とれていた、その一瞬のち、短い鉄橋は終り、また視界は木々に隠れた。

荒川の瀬音身ぬちを冬にする 優夢

海程に所属しているわけでもないこの僕が、秩父俳句道場に参加することになったのは、澄子さんから来たメールがきっかけだった。最近たまたま週刊俳句の10句のことでメールする機会があったとき、俳句道場の話になり、ナマ兜太句会、行ってみたかったら仰って、と、誘っていただいたのである。兜太さんと池田澄子さんの対話が聞けるというのは俳句史的にも貴重な機会であろう、そう思い、この秩父行に同行することを即決したのだった。

秩父鉄道の上長瀞駅を降りて数分のところに位置する宿舎に荷物を置き、まずは吟行。道場参加者のうち、早めに着いている人たち20人程度でマイクロバスに乗り込み、秩父近辺を回る。バスの中では愛子さんが気を使ってくださって、僕と海程の方たちをあれこれと引き合わせてくださった。

午後2時ごろ、バスがまず到着したのは秩父事件資料館・井上伝蔵邸。ここは龍勢まつり資料館が併設されており、我々はまず龍勢まつり資料館の方から見学した。これは毎年10月の第2日曜日に開かれる地元の祭りで、高さ数メートルの大きな櫓から巨大な花火を打ち上げるというもの。資料館の奥ではその祭りの様子を録画した映像を放映しており、それを見る限りでは真っ青な空にもくもくと煙を吐きながら消えてゆくロケット花火の勇壮さは、なかなか見ものであるようだった。

秩父事件とは明治時代、自由民権運動の先駆けになったと言われる農民蜂起事件で、その首謀者が井上伝蔵。彼の住んでいた邸が復元され、『草の乱』という秩父事件に題材をとった映画を撮影した際に使われたのがこの井上伝蔵邸であるとのことであった。要は映画のセットが映画を取り終えたあとも残っているというようなもので、妙に明るく新しい日本家屋は、当時の農民の生活をしのぶには少々不似合いなようにも感じた。歴史を語り継ぐことのむずかしさを感じる。

資料館を後にして向かったのは椋神社。神社そばの駐車場に止まったマイクロバスから20人ほどの俳人がどやどやと降りてきては、思い思いの場所に立ち止まる。ここは毎年の龍勢祭りの舞台になるのみならず、かの秩父事件の際、蜂起のために農民が集った場所としてもつとに知られていると言う。周りは畑に覆われ、人家の灯からも遠いように思われるひっそりした場所である。遠くに見える山々は、早くも日の衰えにさとく、かすかな暮れの気配を感じさせていた。俳人たちは、鳥居のそばに控えている狛犬がやけにスマートな顔立ちであるのを見て、これはオオカミではないか、とうわさしあったり、柊の花を見つけてはその香りを嗅いでいたりと、実ににぎやかなものだ。

境内の外れには鮮やかな大銀杏が全身の葉を黄色く色づかせ、しかもまだ葉が落ち始めていないその様子はまるで、一つの葉だにこぼさじと気を張っているかのようだった。黄落の半歩手前といった風情、実に見事である。澄子さんがその銀杏をバックに宮崎さんご夫妻の写真を撮られている。ほのぼのとした、いい光景だった。

皆がマイクロバスに乗り込んだ後、僕は最後にバスに乗ることになった。それまでわいわいとにぎわっていた境内がものさびしく、秋風に吹かれている様は、この神社本来の姿、建立当時から何100年もの間そうであったのと同じ、100年前に蜂起する農民が集まったそのときと同様の様子を、垣間見たような気になった。

みんな帰つて秋風の秩父かな 優夢

吟行から宿舎に帰ると、17時半までに2句出句とのこと。夜、宿舎で句会が催されるのだ。出句時間まで間があったし、折角普段来ないような場所に来ているのだから、と、澄子さんと二人で辺りを散策することにする。宿舎は荒川のすぐそばに建てられているので、河原まで降りてみる魂胆だった。方向音痴だと言っていらした澄子さんが、さっさと河原とは反対方向に行こうとするのを制止しつつ、二人で林の中の坂道を下って、5分程度で河原にたどりついた。

すでに西の空が赤く色づき始めた時間帯、瀬の音はごうごうと目の前をとめどなく通り過ぎてゆく。対岸はもう暗い森である。そう広くない川には一艘のカヌーが川を上ったり下ったりしていた。僕ら2人が歩いているところよりやや上流の方では、4人くらいの若者のグループが河原の大きな石に座って何事か談笑しているようであった。そちらの方にしばらく目をやっていると、その上の方から何かの轟音が聞こえる。何かと思って振り仰げば、我々が昼間乗ってきた秩父鉄道の鉄橋だった。割合にゆっくり走ってゆく列車の窓という窓が、はるか向こうから照らしてくる夕日に透けて赤く輝いている。逆光で暗い人影も時折その中に見えた。

澄子さんは河原を歩きながらきれいな青い石を拾ってポケットに入れる。もうひとつ拾うと、今度は僕にそれをくれた。掌におさまるくらいの大きさで、五平餅のような楕円形の真っ青な石だった。それを持ちながら、僕と澄子さんは適当な石に腰かけ、いろんな話をした。

一時間くらい話していただろうか。何度か鉄橋を列車が通り過ぎ、夕焼が少し小さくなって、涼しい涼しいと思っていた空気がやがて肌にひんやりと感じられるようになってきたころ、僕らはちょうどいいころ合いだろう、と河原を後にした。おだやかなひと時であった。

出句のあとは1時間ほど風呂に入ったり同室の人と話したりしてのんびり過ごし、6時半から夕飯。大広間に行く途中、澄子さんと落ち合って、一緒に兜太さんにごあいさつをしに行くことに。大広間に入ると縦に何列か御膳が並べられていて、気の早い人はもう自分の席を決めて座っている。その奥に横向きに御膳が一列だけ並べられており、その真ん中に、もう、かの兜太先生が坐していらっしゃる。

澄子さんがご挨拶しにいく後ろからくっついてゆくと、どういう話の流れからか、兜太さんのお隣に澄子さんが座り、その隣に僕が座る、ということになる。明らかに海程の重鎮クラスの方が座るに違いない席に、こんな若造が座ることになってしまい、いかに厚顔無恥な僕としても恐縮しきりである。しかし、海程の方々はどなたにお聞きしても、そんなこと一向に構いませんよ、と言ってくださり、その懐の大きさというか、おおらかさを垣間見た気がした。

夕飯の前のあいさつで、兜太さんが秩父音頭の一節を披露されていたのも趣深く、ああ、自分たちは今、秩父というこの土地に歓待されているのだ、という心持ちがしみじみとしてきた。しかもそれはスタンダードな秩父音頭ではなく、兜太さんのお父上が作られたものだとか。その歌声を聴きながら、僕は、昼間、ここへやってくる列車の車内で愛子さんが言っていた話を思い出していた。それはどこだかの地方に海程で吟行に行った折のこと、和太鼓の演奏を皆で聞いていたとき、兜太さんが突然「ウオー」と太鼓の調子に合わせて遠吠えのように吠えたというエピソードだ。何か常人とは生きているエネルギーの大きさが違うのではないか。御年90歳にも関わらず、しっかりと皆の前で秩父音頭を披露される兜太さんを目の当たりにして、改めて感じ入った。

また、このとき、兜太さんのあいさつのあとにお話をされた澄子さんのお話にも感銘を受けた。こういうイベントで兜太先生に教えていただいたことがすぐに実践できるわけではない、それでは、こうしたイベントの目的は何かということを考えると、それはイベントが終わって帰路についたとき、俳句を作りたくて作りたくてたまらない、という状態になっていることなのではないかと思う、そういった趣旨のお話をされていたのである。ああ、本当に、イベントが終わった後、そんな状態になっていたら。そう思いながら、僕は一人深くうなづいていた。

そんなこんなで夕飯が済んだあとはお待ちかね、俳句道場第一回目の句会である。夕飯の済んだ人から句会場に移動し、それぞれ選句する。選句用紙を係りの人に渡して、みなが選句し終わった頃合いを見計らい、披講。

披講、と一口に言っても、参加者53人、一人あたり6句選んでいるわけだから、なかなか終わらない。6句、というのは、普通の選が5句に、「問題句」としてあともう1句を選ぶ、という形式である。問題提起のために選んだり、好きだけど言葉づかいを直すべきだと思って選んだりするものであり、これは所謂、「逆選」というものと同義であろう。披講の終り頃になって、兜太さんが句会場においでになり、兜太選が披講されて、ようやく披講終了となった。

その後は高得点を得た句について票を投じた人2,3人と、投じなかった人2,3人がそれぞれ意見を述べ合い、最後に澄子さん、兜太さんが評を述べて、また次の句…というふうに、句会は進められていった。名明かしは一番最後、一遍に行う形式らしい。ここで句会に実際出てきた句を紹介しつつ稿を進めて行きたいところではあるが、それは差支えがあることであろうから、具体的な句は書かず、興に入った兜太さんの発言を中心に書いていこうかと思う。それはたとえば、次のような発言。

「これは私の言い方ですからね、作者の方、気に障ったらごめんなさいよ、でもね、この句はキザで俺はでえっ嫌えだ」

ある高得点句について、会場では賛否両論分かれたあと、兜太さんはそうおっしゃった。兜太さんにそう言われてしまっては誰も反論できまい。不思議と抗いがたい魅力がある口ぶりなのだ。それはつまり、反論すること自体が野暮と思えるような言い回し、とでも言おうか。

本当はどういう句をキザでいやだと言ったのか、そういうことも書きとめなければ金子兜太の俳句観を語ることはできないが、ここではとにかく、そういった俳句論とは別個に、抗いがたい魅力を持った兜太像というものが描ければ僕としては満足である。

また、もうひとつ興味深く思ったのは、兜太さんの切れに対する考えである。世の中には切れているのだか切れていないのだか分からないが、どちらで解釈するかによって中身ががらりと変わってしまう句というものがたくさんある。たとえば

さまざまのこと思ひ出す櫻哉 芭蕉

のような句、「思ひ出す」のあとで切れるのか切れないのか、によって、私が思い出しているのか、桜が思い出しているのか、その主体が変わってしまう。それと同じような構造を持った句が句会中に出てきたのだが、そのような問題に対する兜太さんの答えは実に明快であった。つまり、「切れ」があるからこそ俳句はほかの文藝に対抗する強さがあるのだから、俳句の仕掛けとして切って読むのがまずは基本である。それで意味が通じない場合のみ、切らずに読む、というのが兜太さんの意見であった。このドグマを適用すれば、先の芭蕉の句も「思ひ出す」主体は桜ではないことがすぐに判然する。僕は必ずしもその読み方に全面的に首肯するわけではないが、なるほど、これは一つの見識であるな、と感じ入ったのであった。

兜太さんの評は、自分が選んだ句についてはどこが良かったのか褒め、さらに注文がある場合には注文をつけ、自分がとらなかった句についてはたとえ高得点句であってもはっきりどこがダメだったかを述べる、というもので、聞いていて清々しかった。このような兜太さんの句評が聞けただけでも、今回の秩父行はまずまず成功という心持ちであった。

句会解散後は部屋の一つを貸し切って、宴会。20人近くの人間が畳の上にひしめき合って酒を酌み交わした。宮崎斗士さんに挨拶したり、以前、別の飲み会でビール瓶を倒してビールをかけてしまったことのある田中亜美さんや、学生句会などでご一緒したことのある小川楓子さんとも言葉を交わしたりする。毎度おなじみ、僕が大学で専門に研究している火星について一席ぶったりなぞしていると、もう夜中の2時近い。部屋は宴会用だから大丈夫とのことだったので、片付けもせずに自分たちの部屋に三々五々帰って行き、その日はそのまま沈没したのであった。

(つづく)

後篇

0 comments: