夕方の猫 中嶋憲武
夕方になった。
ちょっと疲れて甘いものが欲しくなり、喉も乾いたので作業場を出て、近くの自動販売機へ向かう。 自動販売機は、この路地の突き当たりを右へ曲がったところにある。路地の正面に少年が立っていて、なにかやっている。
少年は、おおかた公文式の学習塾から出て来たところなのだろう。 近づいて行くと、少年は子猫と遊んでいる。少年は見たところ小学校4年生くらいか。
喉が乾いていたのは事実だったが、ぼくの関心は自動販売機よりも、子猫の方にあったのだ。
子猫は、生れてたぶん半年は立っていると思う。半年前にこの路地の角の家をねぐらにしている猫が生んだなかの一頭だ。ほかの兄弟だか姉妹だかはちかごろは、とんと見えない。生れて間もないころは人の姿を見ると、ぴゅーっと逃げてしまったものだが、つい二週間ほど前、やはり自動販売機へ飲み物を買いに来て、この小さな黒猫を見つけ、声をかけると「みゃあ」と返事をしたのだった。
しゃがんで「ちよちよ」と舌を鳴らして呼ぶと、「んみゃあん」と鳴きながら股間へすり寄ってきたのだ。ひとしきり下あごを撫でたり、耳のうしろを撫でたりした。目をつむってごろごろと言う。ぼくはすっかりこいつが気に入ってしまった。全身真っ黒けのけで、尻尾が細く長い。尻尾の先は何かに挟んだのか、「く」の字に曲がっている。抱くと、抱かれるのには慣れていないのか、もじもじとして、そのうちするりと降りた。顔つきは、「魔女の宅急便」のジジに似ている。
公文式の少年は、手に赤い短冊ようのものを持って、猫をかまっていたが猫はぼくの姿を見つけると、「んみゃあん」と言いながら、駆け寄ってきた。ぼくは自動販売機の前で、何を買おうか迷う振りをしながら、少年の手前、すぐには猫に手を出さなかった。撫でたい衝動に駆られていたのだったけど、耐えて立っていた。猫はそんなぼくの思惑はちっとも意に介さず、尻尾を立てて体を擦り寄せながら裾のあたりを、ぐるぐると回った。
ぼくは午後の紅茶を買うと、取り出し口へしゃがんだ。猫の顔がすぐ近くにある。ぼくは少年に向かって「この猫、かわいいね」と言いながら、猫の下あごを撫でた。猫はますます体を擦り寄せて来た。また少年に向かって、「ひとなつっこいね」と言った。少年はなんだか不服そうな顔をして、赤い短冊をだらりと下げて、突っ立っていた。少年はぼくに返事を返さず、猫に向かって「ちび、ちび」と呼んだ。猫はぼくの股間のあたりにぺったりと貼り付いて、動かない。ぼくは立ち上がって猫に、またねと言うと歩き出した。猫はちょっと付いてきそうになったが、少年が立ちはだかり短冊をゆらゆらさせたので、そちらの方に気が行ってしまったようだ。
しばらく歩いて振り返ると、少年は笑顔で猫へ向かって話しかけていた。
ぼくは少年の笑顔と猫の姿を見ているうちに、なんだかとても寂しい気持ちになった。ぼくが寂しいのではない。少年と猫がひどく寂しい存在として感じられたのだ。この寂しさはなんだろう。
恐らく家では生き物を飼ってはいけないと言われているであろう少年と、人の顔を見ればにゃあにゃあ鳴いている猫。
少年が笑顔になって猫と遊べば遊ぶほど、少年と猫の関係はぼくに寂しさをもたらした。
この不思議な寂しさの所在を考えているが、まだよくわからない。
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2009-11-22
夕方の猫 中嶋憲武
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