2009-11-08

真っ赤な嘘をつく 鷹羽狩行『俳句の秘法』 猫髭

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真っ赤な嘘をつく
鷹羽狩行『俳句の秘法』 ……猫髭



鷹羽狩行の新著『俳句の秘法』は、昭和62年から平成21年までの二十年余にわたる講演のうち八篇の講演録を中心に寸言や添削をまとめた一書である。タイトルが蠱惑的で、わたくしのような下手の横好きでも、これを読めばたちどころに上達するような錯覚を起こさせるので、早速買って、ページをめくる手ももどかしく、いつ秘法が公開されるのか、次か次かと読んでいるうちに読み終わってしまった。

「あとがき」にはこうある。

タイトルの『俳句の秘法』の「秘法」は秘密の方法という意味である。だから講演だけにとどめておくべきものだが、あえて公開することにした。
「あえて公開することにした」という、門外不出、一子相伝のような「秘法」を読み落としたのかと、読み直したのが今回のブックレビューである。

わたくしが『俳句の秘法』に期待したのは故がないわけではない。鷹羽狩行には『俳句入学』(NHK出版)という俳句入門書があり、初学時代に学んで舌を巻いたからだ。殊に「俳句の背景」の章は、「数と俳句」「色と俳句」「地名と俳句」というように、「季語」という扇の要のような俳句の中心だけではなく、その背景になる数字や色や地名などを論じて、俳句の全体構造を説くという、実にシャープな切れ味の俳句入門書だった。

有季定型俳句は、普通「季語」を中心に詠む。しかし、ある程度五七五のリズムが指を折らなくても一塊の十七文字という形態として身に付けば、「季語」以外の「数」や「色」や「地名」や「五感」を心に置いて詠めば、自然以外の世界に対しても瞬発力と想像力を養い、素材のヴァラエティが広がるため、「写生」という単色のデッサンの、次のステップとして理に適った指導方法だった。

例えば「数と俳句」を例に取れば、鷹羽狩行は、「一」「二」「三」「四」「五」「七」「八」「八十」「百」「千」ひいては「おおよその数」といった、それぞれの数の持つイメージやニュアンスを説き起こして例句を並べるので、実に明解で、工夫を凝らすとはどういうことなのかがワイドショーのように楽しめる。わたくしが原石鼎という俳人に惹かれ、分厚い『原石鼎全句集』(沖積舎)を買ったのは、鷹羽狩行の緻密にして繊細な鑑賞を読んだためである。
「二」という数は、本来、同じだけの力・価値をもって対峙・対立しあう意味をもっています。この同じ対立の関係でも、そこから生じる内容によっては、不統一なものや調和のないものといった、いわゆる“違和感”や“不安定”な気分を表わす「二」もあります。たとえば、

  秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎

夏が過ぎて秋風が立ち始める頃の、そぞろ慌ただしく落ち着かない季感が根本にある句です。風だけは秋なのに(外部の皮膚感覚)、なお夏が残っている初秋の違和感(内部の身体感覚)が、「模様のちがふ皿二つ」の「二つ」といえないでしょうか。
『俳句の秘法』を読み始めての違和感は、この緻密にして繊細な目が、別人28号かというほど大雑把になっていることで、例えば第一章は「俳句の素材と発想」「詩趣と品格」の二編からなるのだが、「俳句の素材と発想」では、まず、「山寺にはらはら降りし落葉かな」という「俳句のような格好をしているが、俳句とはいいがたい」、いわゆる月並句を挙げ、「降ったものが落葉」だから「木の葉かな」でなければならないとダメ出しをして(「降りし」と目睹回想の過去形だから既に落葉になっていると思うが)、山寺と落葉の取り合わせや「はらはら降」るというのが手垢のついた古臭くて使い古されたものだから、「俳句でもっとも大切な“感動”が感じられない」と切り捨てる。

いきなり「感動」を出されると困る。感動はひとそれぞれなので、万人が感動するものなどありえないし、ことに俳句は「感動=主観の最たるもの」なので、「感動」を省略するのが俳句の骨法だから、感動を押し出す論法は俳句からは最も遠い。

「感動(emotion)」というと、わたくしなどは映画『気狂いピエロ』の中でサミュエル・フラーがジャン・ポール・ベルモントに「映画とは何か」と聞かれて「映画は戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、死、つまり、ひとことで言えば感動だ」と応えるシーンを思い出すが、映画のような暗室に詰め込まれて、映像、音響、音楽などがでかい銀幕から体ごと鷲掴みにするように降りそそぐ装置であればまだしも、俳句はぴらぴらの短冊一枚で納まる仕掛けだから、「俳句は戦場のようなものだ」とは言い切れない。感動の仕掛けが恐ろしく低いので、蚯蚓が鳴いたり亀が鳴いたりする幻の声に耳を傾けないと聴こえないほど、俳句の声はか細い。

現に、「落葉」という古い素材でも新鮮な感動に満ちている句として挙げている、

  啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子

の有名句にしても、綺麗な句だとは思うし、うまいとは思うが、感動するかというと、少し違うという気がする。

わたくしのバッテリーの感度が悪いといわれればそれまでだが、この秋桜子の句もそうだが、この後に「古い素材を新しくよみがえらせる」例として、

  滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半

  をりとりてはらりとおもきすゝきかな 飯田蛇笏

  ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 高野素十

といった句を挙げられると、これは余りと言えば余りに権威主義的引用で、牛刀を以って鶏を割くようなものではなかろうか。

山寺のはらはら落葉が、駄目な事例というのはわかるが、これらの大家の例句は、彼らにとっても代表句として人口に膾炙される句であり、彼ら第一級の俳人たちでもおいそれとほいほい作れる句ではないだろう。それをもって、
このように、ふだん見たり聞いたりしていても気がつかず、なにも感じなかったものを、詩人の目で眺めることである。/句の材料の発見ではなく、すでにある材料を自分の目で新しく見直さなければならない。素材を既成概念に左右されず、子供のような目で見ること、体験を重ねて想像を広げることなど、素材が自分の所有物になる喜びを得るまで、よく吟味してみることが大切である。
と押し出されても、誰が夜半や蛇笏や素十の真似が出来るというのだろう。いきなり裏山へ散歩からエベレストに登れというようなものだ。

また、「詩人の目」とか「子供のような目」と言われても、先ず、詩と俳句は構造的に違う。詩は「虚」の構造を持つが、俳句は「実」に根ざした構造を持つ。「子供のような目」と言われても、「子供=純真」というのは大人の幻想に過ぎない。不遜な目も、残酷な目も子供は持っていることを忘れては困る。古来「泣く子と地頭には勝てぬ」といったほど持て余し者でもあるのだ。

それにしても、これをしも「秘法」というのだろうか。とりあえず、「俳句の素材と発想」の結論を見てみよう。「秘法」は最後に明かされるものだから。こうある。
結論として、社会の事象などもふくめた「自然」と、そこにかかわって切りはなすことのできない「人間」が、その只中に身を置いて、その時々刻々をどのように見つめ、聞き、感じ、喜び、悲しみながら、生きていることのかけがえのなさをどう表現してゆくか、ということにつきるのではないだろうか。
何か身の上相談を漠然としているような結論だが、少なくとも「秘法」はどこにもない。

第一章のもうひとつの「詩趣と品格」は、ここでも、

  ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋

を筆頭に、誰も文句をつける者がいないような「詩趣と品格」に溢れた高名な俳人の代表的な句が並ぶのだが、最後とは言え「秀句・佳句の条件」という項目を立てて、四句の例句の後に自句を置き、

  鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな 久保田万太郎

  大寒や転びて諸手つく悲しさ  西東三鬼

  春寒やぶつかり歩く盲犬    村上鬼城

  露の世に生れて怺へきれず泣く 山口誓子

  昼寝より覚めてこの世の声を出す 狩行
狩行句では昼寝の別世界に遊んでいても結局はこの世の現実に戻ってこざるをえない、どこか哀しい人間の存在への嘆きである。これらが、読者の内部にある過去の体験を思い起こさせ、共感を呼ぶのではあるまいか。
と鑑賞するのは、いかがなものであろうか。

自句自解は、俳句では最も恥ずべき野暮事とされている。俳句は省略の文芸だから、省略した部分を滔滔と解説されると、解説しないと十七文字では成り立たない句なのかと作品自体の自立性を否定しかねないのと、この句はここが眼目、ここで苦労したと自慢話を聞かされるようで疎まれるからだろう、だったら人には見せずに独り善がりをしていればいいということになる。俳句は未完の文芸とも言われ、作者が半分を作り、読者が読むことで残りの半分を完成させると言われるからだろう。自句自解とはイコール自句自壊なのだ。

にも関わらず、俳人協会からは『自註現代俳句シリーズ』が二百冊以上出ているし、『自選自解句集』というのも白凰社や講談社から出ている。最近は粋人加藤郁乎も『俳の山なみ』に「實話私註自句自解」を収めているのに驚いた。小説の神様と崇められた志賀直哉も自作を語っているから、年を取ると、どうでもよくなるだけなのかも知れないが、自句自解を句会ではどこでもタブーとされるのに、俳人協会の会長自ら自句自解し、自解句集が陸続と編まれるのは俳壇七不思議の最たるものだ。

そういうわけで、第二章がいよいよ本論の八篇の「秘話」が山盛りの講演集ということになるが、第一章で見たように、「大雑把」「権威主義」「野暮」という3点セットで押してくるのは間違いない。

一番目の講演は「私の初学時代」。この本は参照が無いので、いつどこで誰を相手に講演したのかの記録が全く無い。タイトルでわかるように自句自解のオンパレードで、多分、自分が育った尾道での講演だろう、はばかることなく自画自賛をしている。処女句は、十五歳の時の校内俳句雑誌『銀河』に掲載された、

  稲刈りの進めば進む蝗かな 高橋行雄(鷹羽狩行の本名)

実に上手い。当時はコンバインなどはないから力仕事である。稲穂の揺れから蝗が飛び立つ様まで能く見える。広範囲に目配りの効く集中力と才能を若くして持っていたことがわかる。

  春光や砂の皺より蜆貝

  苗代の乾きし泥の浮き上がる

  石に跳ね水に音して木の実落つ

など見事だが、本人が「砂の皺」はよくとらえたものだとか、乾いた泥のところが浮き上がっているとはよく観察しているとか、「木の実落つ」は「石を打ち水を飛ばして青い柿」が実際に見た景だが推敲して添削したとか、いちいち言うので五月蝿い。それを我慢すれば、やがて山口誓子に傾倒し、高橋行雄をもじって誓子が鷹羽狩行という俳号を与えて俳人鷹羽狩行の誕生を見るまで、高橋行雄が十代にして華やかな作句力と推敲力と添削力を持っていたことがわかる自伝である。

この「私の初学時代」の講演は、有名な、

  人の世に花を絶やさず返り花 鷹羽狩行

で終るが、これだけ見事な挨拶句を作れる才能は稀有だろう。巧過ぎて厭味なほどだ。ということで、ここでも自句自解は聞かせられるが「秘話」は出ない。

次の講演録は「選ばれてこその俳句」で、高浜虚子の「選は創作なり」から説き起こし、具眼の士に選ばれることが俳諧以来、俳句文芸の大事な特質の一つであり、「自分の中にもう一人の批評してくれる自分(自分の批判者)を育てる」ことも大切と結ぶ話である。とはいえ、「三冊子」で聞いたような話であり、自句に冷却期間を置けというのもよく聞く話で、「秘法」とは言えまい。

鷹羽狩行の師が山口誓子であり、山口誓子の師が高浜虚子である以上、師の師である虚子の言説には明るいと思っていたが、「選は創作なり」という虚子の有名な言葉を、これは昭和十八年に中村汀女の句集の序文に初めて出てくる言葉だと断言しているのは事実に反しているので、ここで訂正しておく。

この言葉は、昭和六年五月から刊行された『ホトトギス雑詠全集第四巻夏の部上』(全十二巻の第一回配本)の序に掲げられた。
選と云ふことは一つの創作であると思ふ。少くとも俳句の選と云ふことは一つの創作であると思ふ。此全集に載つた八萬三千の句は一面に於て私の創作であると考へて居るのである。
いつになったら、「秘話」が出て来るのだろうと、この辺でだんだん不安になるが、読み直してやっと気づいた。

わたくしは本を読むときに邪魔なので、カバー腰帯を外して裸本で読む癖がある。ふと、カバーと腰帯を今見てみると、腰帯にでっかく「摩天楼でなにが」という文字があり、その下に小さな字で「多感な少年時代から、ニューヨークでの衝撃的な一句<摩天楼より新緑がパセリほど>まで、名句誕生の秘法を公開する。」とある。

「俳句の秘法」とは自句自解のことだったのだ。

第二章の講演録の最後に「私の一句」という講演があり、これがパセリの句について滔滔と述べられているものだ。

この句は以前より、あれはエンパイアステートビルからセントラルパークの新緑を詠んだ景ではなく、東京タワーのビルから増上寺の新緑を詠んだ真赤な嘘をついた句だと噂があったものだ。モダンでお洒落で人工的な感じを与える句だからかもしれない。

わたくしもマンハッタンには仕事でよく出かけたので、セントラルパークは馬車馬の糞を除けながら何度も散歩したが、とにかくだだっ広い公園だった。高所恐怖症なので、自由の女神には登らせられて一週間膝が笑いっぱなしだったほど恐怖の体験をしたから、エンパイアステートビルや貿易センタービルに行っても下界をしみじみ見ることは無いが、百万坪の公園の緑がパセリほどの小ささに見えるというのはかなりデフォルメした景だとは感じていた。

ただ、作品として優れていれば、わたくしはその出自は問わない。自句自解も要らない。俳諧から俳句は独立して一句自立の栄光を確立したのだから、作品が良ければそれでいいと思う。

  摩天楼より新緑がパセリほど 鷹羽狩行

は、セントラルパークで詠まれようとエンパイアステートビルで詠まれようと、リッツ・ホテルで詠まれようと、秀句だと思う。

爽波は「つまるところ俳句は題詠ですよ。吟行で写生の技を身に付けておいて、題詠で想像力を駆使して臨場感を手に入れ、まるで見たような真っ赤な嘘をつくのです。心が自由になったときにふと生まれたその句は、紛れもなく写生句です。他人が写生句として褒めてくれるぼくの句も、そんな題詠から生まれたものが多いのですよ。例えば山吹の作品なんかもね(「ちぎり捨てあり山吹の花と葉と」のことだと思う)」と弟子たちに語ったそうだが、袋回しで「パセリ」という題詠で生れた句が摩天楼の句であったとしてもわたくしは一向に構わない。

さあれ、この爽波の言葉こそが「俳句の秘法」と言えるのかもしれない。


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