〔週俳11月の俳句を読む〕
上から下へ、とその逆
上田信治
今週のhaikuーmp3のリトル・フィートについて教えてくれた高校時代の友人は「メロディには、水が流れるように上から下に流れるメロディと、なぜか下から上に、無理なところを這い上がっていこうとするメロディがある。リトル・フィートには両方あるんだ」と、言っていた。週明けにあげる予定の willin' は前者の流れるメロディの典型、土曜深夜にあげた Fat man in the bathtab は、後者の這い上がるメロディの典型です。
とうぜん言葉を書くことにも、上から下へ流れることと、下から上に逆流することの両面がある。
丘の木に日月疾し狐罠 大井さち子
枯園に膝のパンくづはらひけり
〈膝のパンくづ〉が〈枯園〉に帰ってゆく日常を好感する一方で、下五の〈狐罠〉で企図された宙返りもまた、見逃さないように、と自分に。
白鳥の柵嚙む音のして暮れる 対馬康子
残菊の垂直に死はすべり落つ
新海苔や薄い木箱の蓋に釘
絵の中に雨青くあり蕎麦の花
そういう意味で、〈柵嚙む音〉〈垂直に死は〉〈蓋に釘〉は、下から上へ逆行する言葉。〈暮れる〉〈残菊〉〈新海苔〉はハーフトーンの情緒、その同時表現。
〈蕎麦の花〉絵に描かれた季語に眉をひそめる向きもあろうが、ここは絵の蕎麦の花に降る雨が、現実の蕎麦の花にまで、と取るべきか。
秋風に涙ぐみつつ木の心地 池田澄子
蒟蒻玉から感情溢れ出で斜面
火星冴え給水塔は倒れない
感情があふれ出ることは、ずぶずぶの自然である。〈木の心地〉〈蒟蒻玉から感情〉という詩語によって、高さを指向しつつも、上から下へ人間の自然が流れている。〈花牛蒡流れてやまぬ泪あり 幸彦〉〈あゝ小春我等涎し涙して 白泉〉などを思い出した。感情は〈斜面〉を滑り落ちるのか、せき止められるのか。
〈給水塔〉と〈火星〉ぺらぺらのオブジェ二つが、ピッと張った構図に置かれる。素朴派絵画の「偶然の」名品を見る思い。
空港やマスクをかけて一人客 櫂未知子
母を出でゆく赤きあれこれ雪降りぬ
冬の灯のひとつと思へ無影燈
父に会へる電気毛布にまどろめば
そういう意味で、ここに描かれた感情は、自然であり通俗なのだが、通俗を調子の高さによってキッチュの美にまで高めてしまうのが、『貴族』以来のこの作家の方法(やり口)である。
〈母を出でゆく〉これ見よがしに突き放した視線のドラマ性=通俗性と、それが、とにもかくにも詩になっていることが、同じ〈赤きあれこれ〉というフレーズの上に成立しているという、効率の快感。
奥の間に蒲団伸べある町家かな 角谷昌子
そういう意味で、独立して読めば「京都暮らしをクールにオブジェ化したような」この一句が、花街を舞台にした連作の一句となると、なんでしょう、ほとんどバレ句のようで残念なのだが、
つまべにや祗園の路地の身幅ほど 角谷昌子
坪庭の沙のさざなみ雁のころ
あえて「通俗」を狙っているのだとすれば、こういう句が、いっそキッチュとして面白く思えてくる。
少女たち林檎噛んだり光ったり 月野ぽぽな
日の高き内にはじまり月の宴 小川春休
月を待つ豆腐は水の底にかな 小川春休
水のように情緒の流れにそって書かれた言葉、その中の小さな上げ下げが心地よい。
幾ら何でも笛下手すぎる良夜かな 小川春休
そして、その同じ人が、こういうことを言い出すのは可笑しい。
ゆく秋の京成バスの段差かな 吉田悦花
闇汁にさういうものは入れるなよ 西村麒麟
柚子一滴目玉をやぢの湯のあふれ 太田うさぎ
同じく、位置エネルギーのほとんどないないところで、成立させている句。こういう低回趣味は、俳句に遺伝子のように受け継がれて、座興と作品を往還する俳句独自の性質を伝えていると思う。
■角谷昌子 祗園町家 10句 ≫読む
■月野ぽぽな 秋 天 10句 ≫読む
■小川春休 三 歳 10句 ≫読む
■櫂 未知子 あを 10句 ≫読む
■池田澄子 風邪かしら 10句 ≫読む
■吉田悦花 土日庵 10句 ≫読む
■対馬康子 垂直 10句 ≫読む
■豊里友行 戦争 10句 ≫読む
■大井さち子 かへる場所 10句 ≫読む
■西村麒麟 布団 10句 ≫読む
■太田うさぎ げげげ 10句 ≫読む
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2009-12-06
〔週俳11月の俳句を読む〕 上から下へ、とその逆 上田信治
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