2009-12-27

〔新撰21竟宴シンポジウム感想記〕俳句からスーパースターを生む 酒井俊祐

〔新撰21竟宴シンポジウム感想記〕
俳句からスーパースターを生む ……酒井俊祐


今回、縁あって2009年12月23日に開催された「新撰21竟宴」シンポジウムの感想記(?)を記すこととなった。

まず参加するにあたっての前提として、ひよっこ俳人の域を出ない自分がこういうことを言ってしまうのもなんだが、シンポジウムとはつまらないもの、と勝手に決めつけて参加したフシがあった。

結論から言えばシンポジウムはとても興味深かった。

シンポジウムは大きく分けて3部構成であり、第1部は今回の企画の主軸を担われた池田澄子、小澤實、筑紫磐井各氏、およびその場で指名された新撰21参加者4名によるセッションという形で行われた。壇上に上がったのは村上鞆彦、北大路翼、松本てふこ、谷雄介各氏であった。第2部は高山れおな氏の司会の下、新撰21メンバーである関悦史、相子智恵、佐藤文香、山口優夢各氏によるパネルディスカッション。第3部は全体を通しての質問感想、という構成であった。

以下レポートであるが、時系列で一つ一つの発言を追ってレポートすることはすでにさいばら天気氏がツイッター上で行っているので、私はそういう形式はとらず、セクションごとに気になった意見・テーマにつき自分なりに検討する、という形式をとらせていただくことにする。また以下で取り上げる「」内の意見は要約であり、現場での話者の表現そのままではないことだけご留意いただきたい。

【第1部】

外部の評価と創作の関わり

以前から一部で話題になっている「若い俳人が外部の評価に依存しすぎている」という問題提起に対して。

「みんな賞に出しているが、ほめられようとして頑張るのは別にいいことではないか。ほめられなくなったときにどうするかは個人の自由」(谷雄介)

「私自身はほめられようとして俳句を作ってきたわけではない。ほめられないことが嫌なら作らなければいいのでは」(池田澄子)

現在、若い世代が俳句の世界に入るきっかけは、有名なものであれば俳句甲子園、あるいは大小様々なコンクール、町おこしの一環の文学賞など、外部の評価の存在を前提としたものが多い。そうした入り口から、(俳句をやる場所が身近にあるという前提で)「俳句を作るために」俳句を作るようになる中で、若い世代が、自分はなぜ俳句を作っているのか、別に作っても誰かに勝ったりほめられたりするわけではない現状に疑問を感じ、現実として俳句以外のものにエネルギーが自然と向いてしまう、という形で俳句からフェードアウトするケースは決して少なくない。

逆に言えば若手にとってそれだけ外部の評価と句作が密接なものになりつつあるということであろう。それをあえて否定しない谷氏の意見は、ごく当たり前になっていた感覚をあえて顕在化させたという点で新鮮なものであった。逆に評価をする側(になることが多い)の人間の意見として、池田氏の指摘も至極当然である。


無季俳句について

「無季俳句は一行詩、というのは自戒をこめて言っている。無季の句を認めるということは自分の中にそういうものを作る可能性を残しておくということであるが、自分はそうはできないので、そういう意味での戒めである」(村上鞆彦)

「近代俳句史から無季俳句を外すことはできない。外してしまえばだいぶ薄っぺらなものになってしまう。ただ自作ということであれば、自分の俳句の中心は「あいさつ」であり、季語を外すことはできない」(小澤實)

「有季定型というのはそれだけで強みである。しかし無季でなくてはならない作品があるはず。大事なのは、『無季だから~』というように決めつけないこと」(池田澄子)

私自身は、季語は俳句の前提・ルールだと思っており、無季の俳句は俳句ではない詩であろう、と思っている。それは村上氏のような謙虚さではなく、単に臭いものに蓋をするというレベルの思考である。自分の話はともかく、無季か有季かという議論を普段句会で耳にする機会はそもそも少ない。

上三氏の意見は、そうした「前提」の世界に一石を投じるものである。無季という存在を意識することで、有季定型の世界をより豊穣なものに出来るのであれば、それは欠かすことができないはずである。


【第2部】

さいばら天気氏がツイッター上で述べている通り、関悦史氏の精巧かつ膨大な理論がディスカッションの中でも異彩を放っていた。会場の空気は関氏の意見に対し「うむむ…」と頭をひねるようなものであったが、私個人としては関氏の意見が一番明快でわかりやすかった。以下ですべて紹介できずやや物足りない感じになってしまうのが惜しまれる。誤解を恐れずに感想を言えば、他の3氏との論の差が顕著であった、というところである。

俳句における「自然」

資料として、

相子智恵「のり弁、ふたたび。」(豈49号)

高柳克弘「受け継がれゆく雪月花」(俳句2009年11月号)以上会場ではレジュメ配布

「季語が共感として成り立たなくなったら、俳句の"あいさつ"たる要素は死んでしまうのでは」(相子智恵)

「自分が愛媛に転居したとき、自然はアミューズメントパークのようだった」(佐藤文香)

「自分の体から出たものを詠んでいくことで自然の失われたように見える現代においても有季の俳句は実現できるのでは」(山口優夢)

「季語と自然はそもそもぜんぜん違う。季語はリアルな自然に対する一種の防壁であろう。コンビニのサラダに全く自然がないかといったらそうではない。」(関悦史)

「長谷川櫂の過去の作品と近時の作品を読み比べてもぜんぜん違う。自然に対する実感の剥がれ落ちがある」(高山れおな)

この手の「自然」論に私は今まで興味が湧かなかった。「最近の若者は…」というせりふが世代を移りながらループし続けるのと同じように、前時代では当たり前だったところの「自然」を類型化したにすぎない季語が当世では当たり前でない、そりゃそうだ、終わり。というレベルの話にしか思えなかったためである。

自分の雑感はともかく、佐藤氏のような自然に対する非日常的な感覚は共感できる。関氏の意見は非常に腑に落ちる。コンビニのサラダが俳句に詠みうるかどうかはともかく、現実として自然に類するであろうものはどこにでもある。ただそれが「季語」という形でラベルになっていないというところであろう。

だとすれば「当たり前が分からない」という現象は不思議ではない。相子氏の意見はそういう点で示唆的である。「つまらない俳句」「面白い俳句」という評価も、時代ごとのperspectiveによってまるで違うというのは当たり前なのだが、果たして若手と称される人間は意識出来ているのだろうか。無自覚に「面白い俳句」を目指すことの危うさを感じた。


主題の必要性

資料として、

神野紗希「主題はあるか」(豈49号)レジュメ配布

「主題の回避は、俳句界の過去30年くらいのスタンダード。ただ、純度の高い水が豊穣かというとそうではない。主題を捨てていないから、金子兜太は豊かに見えるのでは」(高山れおな)

「主題が目的ではない。自分の場合俳句を作る契機は、1つは句会のお題など与えられたもの。もう1つはストレス。新撰21の中の『人類に空爆のある雑煮かな』は、テレビでパレスチナの空爆のニュースをみて作ったもの。受動性の反転として自分の俳句は生まれてくる。」(関悦史)

「身体性、自分がここにいることの証拠として作っていく、というスタンス。」(山口優夢)

「世界の手触り、質感」(相子智恵)

「(北大路翼氏を例にとりながら)テーマを設けることで、逆に普通の俳句の素晴らしさが浮かび上がるのでは」(佐藤文香)

主題のない作品、というのが自分にはイメージできない。資料内で神野氏は小川軽舟氏の著作『現代俳句の海図』を引用しながら表現そのものを主題とすることへの懸念(とまではいかないかもしれないが)を示している。ちなみに私にとって主題の問題は、そもそも俳句表現というものに楽しさを感じないので、テーマがないとやってられないよ、という、初心者チックなものである。

高山氏の意見でも触れられているが、金子兜太氏は審査委員長として参加した2009年の俳句甲子園で、"ポスト若手"になりうるであろう高校生に対しこのように言った。

「まずは自分の詠みたいことを17文字にぶちこむことが大事」

表現はこの通りではなかったかもしれないが、趣旨としてはこのようなことであったと記憶している。主題を捨てないが故の豊穣さ、という意見は、実に納得のいくものだった。

一方で、ふっと何を詠みたいということもなくさらさら17文字が出てくる瞬間というのは実際あるように思う。作詞家が言うところの「降りてくる」という現象だろうか。主題に拘束された作品の中にそういった力が抜けた作品が混ざることで、魅力が伝わっていく。佐藤氏の意見はそうしたものを言い得ている。

ところで、時に俳人にとっての主題は「作ること」だったりする。関氏が「お題」と言うことでこの点をあっけらかんと明らかにしたことには笑ってしまった。


【第3部】

対馬康子氏と、彼女が当日その場で指名した高柳克弘氏、神野紗希氏の司会の下、適宜新撰21参加者を指名、あるいは挙手を求めながら論を進めていく形式で行われた。

「(師匠に推敲をお願いするかどうか、という話の流れで)自分で気にいった作品は、師匠に見せずに手元に置いておきますね」(藤田哲史) 等々、ざっくばらんな意見も出て面白いものだった。

私は午後のシンポジウムだけで会場を離れてしまったので悔やまれるが、夜のパーティーも活気に満ちたものであったとのことである。


【全体を通じて】

シンポジウムというのはとかく一方通行、という先入観があった自分にとっては、今回のシンポジウムは自分と近い世代の人間がパネラーとして出ることで、あたかも双方向的に価値観を共有できるように感じられた。

最後に、西村我尼吾氏の熱気あふれる演説からの引用でこの長い原稿を終りにしようと思う。ここまで読んでくださった方々ありがとうございました。

「俳句からスーパースターを生まなければならない!!」
「俳句で1億稼ぐ人間を輩出したいんです!!!」

私には、あまり興味のないことですが。



『新撰21 21世紀に出現した21人の新人たち』
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな(編)・邑書林

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