2009-12-27

〔新撰21より〕九堂夜想の一句 関悦史

〔新撰21より〕九堂夜想の一句
巨匠との奇妙な問答 ……関 悦史


とおく来し青黴乾酪(ブルーチーズ)の斜立ちや 九堂夜想

九堂夜想の先達安井浩司を特集した豈47号に北大路翼氏が論文を寄せていたのだが、そこで北大路氏は、安井句に現われる「みがきにしん」や「スルメ」を何気なく《乾燥食材》という括りで言い表していた。この《乾燥食材》という主題系は重要なものだ。

己のためだけの神学体系を独力で築こうとするかのような安井句のコスモロジーにあって、《乾燥食材》とはいわば即身仏である。
成仏を遂げているにも関わらず四大のなかに溶け込み消え去るということがなく、肉体を持った個が全体から閉め出されているという、安井的主体の分身のような存在である。

《秋雨にみがきにしんと遊びつくす》という句が『安井浩司選句集』の扉にあしらわれていたが、この句の例外的で得難い幸福感は、頑なな乾燥食材たる「みがきにしん」を潤わせ、世界のうちに親しく溶け込ませんとする「秋雨」に包まれながらの嬉戯により、長年の句業=苦行でもって生成させてきた己の分身たる「みがきにしん」と安井的主体との親和の相が句中に立ちあらわれていることによる。

  株きのこ道づれしても皿遠い 安井浩司

もう一句、これは九堂の掲出句《とおく来し青黴乾酪の斜立ちや》から連想される安井の句だが、ここでは安井的主体はどこまで歩いても「皿」に到達する日が来そうにない。

「株きのこ」を切り分け、料理して、然るべき状態にして「皿」に盛ればすぐにたどりつけそうなものなのだが、「道づれ」にした段階で関係が捩れてしまっており、何やら取り返しのつかない事態が生じている。安井浩司当人の、永劫の奇妙な苦行の似姿ではないかといったことをも感じさせられる。

九堂夜想の句にはもとよりそうした到達不能の距離感や、凄愴な孤独感といったものはない。
「皿遠い」どころではなく、向こうからやって来たのかこちらからたどり着いたのかは未詳ながら、ともかく既に「青黴乾酪」は目の前に現前しているのだ。
全てが既に現前しているという近さの感覚が、九堂句の特徴のひとつと思われる。先人の開拓作業により遠くを探る必要が当面ないと取るべきか、あるいはその先が未だ見通せていないと取るべきか。

そしてそこに呼び出されたのは《乾燥食材》ではなく、既に充分な変容と熟成を重ね、青黴との奇怪な結合までをも遂げて独自の完成の高み及び臭みに達しながらも柔らかくただちに口に入れうる「青黴乾酪」である。安井浩司との資質の違いが見て取れる。

というよりも、この「青黴乾酪」、その風格からして只者ではない。
これはことによったら九堂にとっての先達安井の姿そのものなのではあるまいか。然り、「青黴乾酪」とは師なのだと言ってみよう。長年の句業=苦行の果、乾燥食材であったはずの安井浩司は、もはや後続九堂の目には奇怪な熟成を遂げた「青黴乾酪」と映るまでになったのである。

中国禅宗の二祖となる慧可(えか)は達磨への弟子入りを願い出て容れられず、ついに自分の腕を切り落として見せ、師弟関係を結ぶを得たが、この既に対面かなった「青黴乾酪」は、何のゆえをもってか斜めに立って見せている。
この奇妙にもユーモラスな師「青黴乾酪」に対して後進の取り得べき態度とはいかなるものか。それは間違っても、慧可の如くおのれの腕を切り落として見せるなどという、一本気にも血腥いふるまいではあってはなるまい。

九堂は安井が切り開いてきた語彙や語調を駆使し、安井の懐を借りて奇怪な戯れに興じ、あらゆるガラクタをも取捨しつつ己独自の領域を捻出しようとしているかに見える。
斜めに立つという、問いかけならぬ奇妙な問いかけに対しては、その問いをもさらにずらしてゆく、苦しくも愉しみに充ちたより奇怪な乱れを以てこれを受けて見せようではないか。そうした気構えが漲っているのが今回の九堂夜想の百句なのである。

あるいはこの「青黴乾酪」、師でも何でもなく、文字どおりの、全くの食わせ物であるかもしれないのだが。食わせものならば食わせものの「斜立ち」を奇禍=奇嘉として、九堂夜想はさらに異次元的な領域を構成していきそうでもある。


『新撰21 21世紀に出現した21人の新人たち』
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな(編)・邑書林

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