2010-02-07

〔新撰21シンポジウムを受けて〕アトラクションとしての俳句 外山一機

〔新撰21シンポジウムを受けて〕
アトラクションとしての俳句……外山一機

俳句表現における「大きな主題」が不在である以上、僕たちは俳句形式による表現行為が成立する可能性を、個々の俳句表現の抱え込んだ「小さな主題」の相対的な強度や、文体の強度に賭けるしかない。思うに、もうずいぶん以前から、俳句の書き手も読み手もこうした危うい賭けに参加してきたのではなかったか。

もっとも、そんなことは僕が言わなくともすでに「主題や主体を回避するというのはじつは俳句界全体の過去三十年くらいのスタンダード」(注1)だったのであり、いまさら繰り返すには及ばないことだ。

高山 (略)状況として戦争とか貧困といった主題も無くなったし、文学の考え方としてもテキスト論的な考え方がそれを補強するような地盤を提供したということで、主題というものから或る意味、作者は解放されたわけですね、そこで。こういう考え方は、主題とか主体というものから作者を解放してくれたんでしょうけど、やっぱり結局それが作り手が成熟する契機みたいなものを奪ってるんじゃないかなということを私は漠然と感じています。(注2)

けれど、この「大きな主題」の喪失の後で、僕らはどうしたらいいのだろう。「小さな主題」を互いに認めあうことはできるかもしれない。季語という符号でうなずきあうことはできるかもしれない。けれど、かつての書き手と読み手の間におけるそれのような幸福なインフラは、僕らの前においてはついに普請中である。

ところで、その強度とは、俳句形式の内部に錨を下ろしてゆく行為によって保証されるものだろう。けれど、上記のような状況認識を踏まえたときに見えてくるのは、僕らの投錨がかつてのそれとやや異なる様相を呈しているということだ。すなわち、僕らが錨を下ろす場所はかつてのような未開の海ではない。それはむしろ、アトラクションとしての海である。その海底は、あるいは深く、あるいは浅く、錨を海底まで下ろすならきっと何がしかの手ごたえを与えてくれる。けれど僕らの投錨はどこまでもアトラクションの中におけるそれである。

長谷川一は『アトラクションの日常』(注3)のなかで、平凡な日常に存在する「一種のスペクタクルな仕掛け」である「アトラクション」の一例として「車窓」をとりあげ、次のように述べている。

(略)「車窓」とは外部世界の表象ではなく、またもとより世界そのものでもなく、一個の認識装置だった。知覚する「わたし」の視線は、とりまく環境から任意の要素を抽出し、期待される枠組みに沿って動員することで「車窓」を組織し、それをあたかも手の込んだエンタテインメントのショーででもあるかのように、「わたし」を愉しませてくれる演し物として再構成してゆく。「期待される枠組み」とは、知覚する「わたし」によってあらかじめ把持されているステレオタイプであり、「わたし」が、ではなく、世界のほうが「わたし」に服従奉仕するのだという図式の中で実装される。

この「車窓」をそのまま「俳句形式」に変換すれば、これはほとんどそのまま俳句形式論になりうる。「車窓」も「俳句形式」も、現前する世界を―シンポジウムでは「リアル」という言葉が使われていたけれども―ある種の手ごたえとともに僕らに認識させ、愉しませてくれるアトラクション(仕掛け)である。だから、たとえば長谷川のこの文章は、かつて上野ちづこが定型詩について述べた以下の発言ときわめてよく似ている。

上野 私が定型に一貫して持っている不満というのはね、定型っていうのが、実は情念の定型化、感性の定型化しか生み出していないんじゃないかってことを感じるんですね。たとえばおみなえしが咲いていると、ぱっと「道の辺のおみなめしはも」というフレーズができる。「道の辺のおみなめしはも」という見方が一ぺん定型化すると、道の辺のおみなえしは、そういうふうにしか見えなくなっちゃうんじゃないかということです。(注4)

上野が述べたように、ある主題なりモチーフなりを俳句形式に落とし込んだとき、ある種のパターン化の危険性と直面せざるを得ない。俳句形式がアトラクションでありうるのはこの形式的特性のためだ。僕たちはいまや第二芸術論を批判することができるようになったけれど、それでも俳句形式が今日性を見限られているとすれば、それはたとえば上野の言うような形式の呪縛を(時代によって微妙に様相を変えながら)僕らが必然的に抱え込み続けねばならないという不幸のためであろう。そして、その不幸にきわめて自覚的な作家の一人が、たとえば相子智恵であろう。相子はシンポジウムでもとりあげられた「のり弁、ふたたび」のなかで次のように述べている。

(略)もはや鈴木氏(鈴木純一…引用者注)の述べる「紛物」や「疑似」こそが現実となった〈悪夢的なリアル〉がいまの私の現実なのであり、片山氏(片山由美子…引用者注)の述べる、季節らしさを表現する〈言葉〉のはずの季語が、吉本氏(吉本隆明…引用者注)の「なくなっちゃった自然」のように望まれているような状況だ。(略)もしかしたら季語の実感主義とは、悪夢的リアルによってじわじわと酸欠を起こしつつある俳人たちが、無意識下で現実生活と自然を添わせようと要請したものかもしれないとすら思えてくる。(注5)

このように述べたうえで、それでもなお相子は「「季語を捨ててまで現代のリアルだけを書くのなら、私は俳句を書かない」という、個人的な直感もしくは本能としか呼びようのない答えが湧き上がってしまった」と、あまりにも痛ましい告白をする。相子にとって、現前する世界とはかくも手ごわい交渉相手なのであった。相子は、だから自らの表現方法として俳句形式を選びとるという行為の意味について―たとえばそれが今日においてどんな不幸を意味するのかということについて―きわめて自覚的である。

一方で、俳句形式を選択するうえでこの「負い目」を不思議なほど感じていない作家もいる。たとえば佐藤文香である。

佐藤 今は私、愛媛県にまた帰ってて、もう伊予柑とかが落ちているところを自転車で通勤するのが普通なんですけど、本物の自然、自分が感じる自然か、あとは自然を意味する言葉というか季語としてただ「蜜柑」と言った時の、「蜜柑という言葉から冬の感じがするでしょう?」という、そうやって使われる自然というのとがあるじゃないですか。私は両方ともすごく好きなんです。ああすごい、これ季節だ、これは自然だ、と思った時、それがもういちばんリアルだし、実感もあるし、面白いし。で、俳句にかかわり出してから今度は言葉でも認識できるようになりました。この楽しみはホントに日本的だと思うんですよね。日本人って期間限定に心躍るし、それはなんでかというと四季があるから季節毎の楽しみを見出すわけだし。そういった中に雪見大福の新しい味が出たというのもあれば、蜜柑が落ちているのを踏みつけるというのもあるという、ごちゃまぜのリアルを今私は愛しているという感じです。(注6)

佐藤は、「季語は私にとって、たとえそれが言葉であっても、自然への扉として切実なものなのだ」とする相子と、その作家性の根本の部分では繋がっていよう。けれど佐藤は、<悪魔的なリアル>とも<季語>ともためらいなく手をとることができる。だから俳句形式というアトラクションによって再構成される世界とこれほどまでに素朴に和解できる。

佐藤は、アトラクションとしての俳句形式と楽しげに同期する。佐藤の表現行為が(それが彼女の意図如何に関わらず)端正な句として結実するのはそれ故であろう。その意味において、佐藤はこのアトラクションの優れた消費者である。

僕は、相子と佐藤の態度について優劣をつけようというのではないし、両者の俳句表現について優劣をつけようというのでもない。ただ、レトロな問いを抱え込む相子と、「大きな主題」の喪失した時代を事もなげに過ごしている佐藤の表現行為とを、ちょうど振り子の両極のように見据えておくことで、俳句形式による表現行為の現在がいくらか見えてくるような気がするのである。


注1 シンポジウムにおける高山れおなの発言
注2 シンポジウムにおける高山れおなの発言
注3 長谷川一『アトラクションの日常 踊る機械と身体』河出書房新社、2009。
注4 江里昭彦・工藤大悟・玖勢野博・上野ちづこ「シンポジウム」『黄金郷』深夜叢書社、
1990。
注5 相子智恵「のり弁、ふたたび」『豈』2009・11。
注6 シンポジウムにおける佐藤文香の発言

付記
シンポジウムの発言は、すべて「-俳句空間-豈weekly」2010年1月9日掲載の「新撰21竟宴 パネルディスカッション「今、俳人は何を書こうとしているのか」記録」によった。

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