2010-07-04

「俳句甲子園」を考える 東京大会見聞記 小野裕三

「俳句甲子園」を考える 東京大会見聞記 小野裕三


最近の俳句界の変貌ということを語る際に、欠かすことのできないキーワードとして「俳句甲子園」がある。二十代を中心として活躍する若い俳人たちの多くがこの俳句甲子園出身であることは周知の事実だ。俳句界全体の「若返り」を促進し、有望な新人を排出する装置として俳句甲子園は確かに有効に機能しているように思える。

勿論、よい面ばかりでもあるまい。結社に属さない俳人たちの活動について、長期的な観点から懸念を示す声もないわけではない。また、ネットなどで見る限り、俳句甲子園というイベントについても批判がないわけではない。だがいずれにせよ、今後の俳句界を考えていく上で俳句甲子園は無視できない存在になっていることは確かだ。

そんなわけで、俳句甲子園には少なからぬ関心を抱いていたのだが、縁があって、今年の俳句甲子園東京大会の審査員を務めることとなった。そこで、「審査員の眼から見た俳句甲子園」ということで、簡単にレポートしてみる。



東京大会の会場は、東京都人権プラザという施設で、浅草から巡回バスで10分ほど乗った辺りにある。バス停を降りてから、途中のコンビニで弁当なども買いつつ地図を頼りに会場を探す。すると、途中の道で高校生たちの一団にいくつも遭遇。引率の先生らしき方がやはり地図を片手にしている。なるほど、きっと彼らは俳句甲子園の出場メンバーなのだろうな、と思いながら彼らの列を見送る。

会場の人権プラザに到着すると、そこからすぐにまた第二会場の方に誘導される。出場校数の関係もあるのだろうが、今年の東京会場は二つに分かれているらしい。

第二会場の審査員は、大高翔さん、上田鷲也さん、そして僕(小野)。すぐに試合は始まるはすだったのだが、どうやら直前になって出場辞退の学校があったとかで、対戦の組み合わせをやり直すことになり、スタッフの方々がばたばたしている。なにごともイベントには、この手の不測のトラブルはつきもの。大変だなあと同情しつつ、とりあえず審査員は「待ち」の状態。結局、勝ち抜き戦だったものが急遽総当たり戦となり、試合が開始されることになった。

ご存じない方のために、俳句甲子園の「試合」の方法を簡単に説明する。5人編成のチーム同士の対戦となるのだが、それぞれのチームが兼題に沿って一句ずつを三回出す。一回ごとに出されたそれぞれのチームの句に対して審査員が優劣を判定する。それを三回繰り返して、優判定の多かったチームがその試合の勝者となる。

審査員は、作品に対する評価を基本としつつそれぞれのチームによる鑑賞力への評価も加味して総合的に判定し、優劣を決める。審査員はきちんと点数を付け、その結果をよく武道の試合などで見るような紅白の旗を使って示す。紅チームが優勢と判断すれば紅い旗を、白チームが優勢と判断すれば白旗を上げる、というわけだ。いたってシンプルと言えばシンプルな仕組みである。

僕自身、審査員参加は初めてだったのだが、俳句甲子園が「団体戦であること」「句同士の優劣を直接対決で競うこと」は以前から知っていた。そして、率直に言うならそのようなやり方に、以前は疑問を感じていなくもなかった。そもそも、俳句には「団体戦」という発想が馴染まない気がする。それに、句の優劣を直接対決の試合形式で決めるというのも、そのような形で俳句の「優劣」が明確に判断できるものだろうか、という根本的な疑問もあった。

また、優秀な生徒たちが集まったとは言え、まだまだ十代の生徒たちである。ある程度の長い経験がどうしても必要になる俳句の世界では、やはり所詮は「初心者」の大会なのではないか、という先入観も正直に言うとあった。

しかし、結論から先に言おう。僕自身が持っていた俳句甲子園に対するそのような疑念や先入観は、実際の大会に参加してみて見事に吹き飛ばされた。

まず参加者たちの作品のレベルには、まさに期待以上というか、眼を見張るものがあった。高校生ということなど関係なく、世の中で活躍する多くの俳人と比較しても遜色のないような、作品として充分な完成度に到達している句もいくつもあったし、一方で荒削りながら将来性を感じさせるセンスが光る句も多くあった。勿論、いかにも「これは初心者…」と思える句が中になかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に完成度の高く、センスの光る句が圧倒的に多く、本当にその点では驚かされた。

一方で、審査の方法についてだが、句の優劣を少数の審査員が判定するというこの方法が、想像以上に精巧に機能する仕組みであることもわかった。

それぞれの句について、審査員が点数をつけると、勿論、絶対評価では点数はぶれる。だが、相対評価で見るならほとんどぶれがないのである。このことは審査員自身としても驚きの発見であった。要するに、どっちの句が優れているかという句同士の優劣については驚くほど審査員間での意見が一致するということだ。

これも勿論、例外はある。当然ながらテーマや形式に対する審査員の「好み」のようなものはあるので、そこで優劣の評価がぶれる場合はある。また、微妙な差という場合にはそれを同点とするか、一点差とするか、というのはやはり審査員によってぶれる。

それに鑑賞力に対する評価点が加われば、総合点としての優劣の判断はまちまちになる場合もある。しかし、作品自体への相対評価は基本的には驚くほど一致する(それに対して、鑑賞力に対する評価は審査員によってやや見解がばらついた印象だった)。

ある試合では、二つの句がどう見ても同格だったので僕が「うーん、難しい」と思わず呟いてしまったところ、隣の審査員席でもまったく同じ呟きが漏れてきた、ということがあった。このように、句の間に優劣をつけるという行為は実はおそろしく精巧な仕組みとして機能しうるのだ。

ただし、俳句甲子園でひとつやはり物足りないと思ったのは、団体戦という仕組みになっていることだ。というのは、やはり5人もいると、その中で特にきらりと光るものを持っている人が必ずいる。そういう人を評価の対象として掬いあげたいと思っても、団体戦という制約上、どうしても限界がある。理想を言うなら、団体戦と並列で個人戦部門のようなものがあっても、本当はいいように思った。勿論、運営の便宜ということもあるので、簡単には行かないかもしれないが。

とは言え、団体戦にも意味はある。というのは、団体戦で戦う以上、生徒たちはグループで俳句に取り組む。そして、俳句の楽しみの多くが「仲間でやる楽しさ」にあることは、おそらく多くの人が実感していることだろう。団体戦という制約を作ることで、逆にその俳句の楽しみに目覚めやすくなる、という効果はあると思う。そう考えれば、便宜的な面だけではなく、やはり団体戦という形式にも大きな意味はあるだろう。



そして最後に、俳句甲子園というイベントが存在することの意義について考えてみたい。

賛否いろいろな意見はあるのだろうが、少なくとも俳句という視点、もしくは文芸全般という視点から見るなら、このようなイベントの存在する意義は非常に高いと思う。

会場で出会った、きらりと光るセンスを持つ多くの高校生たちは、このような大会がなければ俳句もしくは文芸にうまく出会う機会を見つけられなかったかも知れない。別に俳句の将来のためだけではないと思う。この大会に出た生徒たちが、俳人ではなくて将来的には詩人や劇作家や小説家になったっていい。言葉を使った芸術の面白さ、そのことの醍醐味のようなものを凝縮したこの大会に参加したことが、彼らの人生に大きな影響を与えることは十分にありうることだし、それは文芸という観点からは大きな資産になりうる。

少し大げさに聞こえるかも知れないが、寺山修司が十代で俳句・短歌に出会ってそれから広いジャンルで活躍したように、俳句甲子園が若い才能の原石を発掘・刺激し、その光を掴みだすきっかけになることは大いにありうることだ。

勿論、センスや才能だけではない。生徒たちの熱い思いが、審査員にも伝わってくる。それもまた、いい意味で初々しい。

俳句甲子園は、少なくとも現状の俳句界に大きな影響を与えつつあるし、俳句界を変える原動力ともなりつつある。少なくとも、その現場で見たたくさんの煌めく才能と熱い気持ちには、本当に驚かされ、また清々しさを感じた。俳句界の未来のため、などというケチくさいことを言うつもりはない。俳句に限らず、文芸全体の未来のために、ぜひ俳句甲子園が今後も貴重な役割を果たし続けてほしいと思う。

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