2010-08-01

〔暮らしの歳時記・番外〕裸にサングラス 中嶋憲武

〔暮らしの歳時記・番外〕
裸にサングラス中嶋憲武


1980年代末期、俺は六本木にある、グラフィックデザインの事務所に勤めていた。

社長と俺と、ときどき経理の仕事に来る社長の奥様と、社長の友人のフリーランスのデザイナーとイラストレイターとの5人で成る、小さな事務所だった。

俺は、デザイン学校に通っていたわけではなく、グラフィックデザインの仕事は、この会社で社長にすべて叩き込まれた。まったく叩き込まれたという表現が実にしっくりする、定規で叩かれたり、灰皿を投げられたりの毎日だった。

そんな毎日も1年が経とうとする頃、社長は俺の名刺に「アートディレクター」という、いま思い出しても恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいな肩書きを、小さく小粋に入れてくれた。「舐められるからな」と、社長は言った。

パーソナルコンピュータ全盛時代へ突入するとば口の、黎明のような時代で、写植屋へ写植を発注して、上がってきた写植を、版下へ切り貼りしたり、ロットリングで息を殺して罫線を引いたり、トレーシングペーパーの上から色指定したりして、しかる後に印刷所へ回すといったような、今では考えられないほど非効率的な仕事ぶりだった。

繁忙期ともなると、徹夜が2、3週間続き、家へも帰れず、風呂にも入れずといったような生活が続いた。殊に不動産関係の仕事は、夜中の2時頃、平気で修正がファクシミリで入ってきたりする。ファクシミリのガガガガーという音で、絨毯の上で寝袋にくるまっていた俺は起こされ、写植を発注し直し、アマンドのビルの3階から5階にかけてテナントであった写植屋へ、平成バブリーな金曜日の真夜中というのに、縦列駐車が二重三重になり、たくさんの人々が道路へはみ出しそうになっている、お祭り騒ぎのような舗道を抜けて駆けつけ、とんぼ返りで戻ってきて、朝まで仕事の続きをやるといったような日々で、俺は全く暴力的な、殺伐とした、パセティックな気分になっていた。

そんな日々の狭間にパーティーがあった。六本木駅近くのマイアミという喫茶店脇の坂を下っていって、降りきったあたりの黒っぽいビルの地下にあったイタリア料理店に、お得意様の社員、広告代理店の社員や、カメラマン、イラストレイター、コピーライター、デザイナー、画家、書家、女優、売れない歌手など、実にたくさんの人々が来ていた。

二次会は霞町にあった「アプリコット・ハウス」というオカマバーで、お得意様の女子社員も数名来て、暴力的な気分の俺は、その女子社員のひとりを口説きにかかっていると、アッちゃんというオカマが来て俺の唇を奪った。それからはオカマとキスキス・バンバンな大会になってしまって、暴力的な気分のまま、三次会の新宿へ行った。

三次会は社長と俺と、あとコビーライターとカメラマン他の数名だけになってしまい、二丁目のなんとかいうバーへ行った。ここは二丁目だけど、オカマではない普通の静かなバーだった。その頃は若かったし、暴力的な気分でもあったので、飲めない酒も、すこしは飲んだ。

朝5時の始発の時間が近づくと、みんな帰り始め、俺も帰ろうかと大通りまで来ると、タクシーでも待っているのか、ひとりの髪の長い女の子が目に付いた。後ろ姿だけでも、背中に美人と書いてあるような風情で、ルックスを確かめたくなり、何気なく隣りに立って、ちらと見た瞬間、身体に電気が走った。

「かわいい!」

とにかくすごく可愛いのだ。いまでいうと、しょこたん、って感じだった。

俺はそのとき、暴力的で、殺伐として、パセティックな気分だったのだ。

「ひとりなの?」気付いた時には声が出ていた。こくりと頷いたように見えた。
「寒いしさ、どっかで暖まらない?」と声が出て、驚いている俺に向かって、中川翔子は、
「このへんに、そんなとこ、あるかしら」と言った。

赤っぽい照明の部屋に入り、改めて、中川翔子の顔を見ると、さらにかわいいではないか。若い男女が、同意のうえで、金額を払って、ある部屋に入り、することといえば、自然の流れに従うほかはなく、気がつくと俺は風呂に入っていた。一緒に入ろうと言ったが、中川翔子は先に入ってと言った。

風呂から出ると、中川翔子はベッドに入っていた。すでに全て脱いでいるらしい。
俺もベッドに潜り込むと、行為に熱中し始めた。バストは豊満であった。行為を続けていると、中川翔子は告白口調で言った。

「あたし、男なの」

俺は暴力的な気分で殺伐としていて、パセティックだったので、
「でも、ないんでしょ?」と、押し切り、続行しようとした。

「まだ、ついてるの」と中川翔子はさらりと言った。

俺は、まあしゃあないかと思い、続行したが、確かにそのモノは、太々とふてぶてしく、俺の行為を邪魔するのだ。多少気持ち悪くもあった。しかし俺は暴力的だったので、なんとか集中しようとした。

が、頭で一回NGのサインが出てしまうと、どう頑張ってみても一向に駄目で、関西で流行っていたらしい「ビニ本セックス」の話を思い出し(三ノ宮あたりでナンパしたかなり不細工な女性を下宿に連れ込んだ俺の友人、顔を見るとどうしても駄目で、窮したあげく彼はこう言ったらしい、「いま、神戸ではさ、ビニ本セックスってのが流行ってるんだよね」。その女性はその発言に積極的興味を示し、「どーすんのー」と言ってきたところで、彼はその辺にあったビニール本の、日頃お世話になっているページを開き、おもむろに彼女の顔に載せ、行為を続行したのだと言う。その女性はビニール本を顔に載っけたまま興奮していたのだとか)、ここでやってみたら、かなり失礼かもと考えていたら、可笑しくなってしまって、ますます駄目な方向へ行ってしまって、帰ろうかなと思い始めたころ、中川翔子が、

「あたし、恐い人が好きなの」

と言うので、何を言い出したのかと怪訝に思っていると、バッグからサングラスを取り出し、俺にかけさせた。

まだごそごそバッグの中を漁っているので、俺はサングラスをかけただけの全裸で、その動向を見守っていた。

すると 「これも、つけてみて」と中川翔子は、白い布切れを出した。 それは、サラシだった。 これ、巻くんですか的な感じで、おどおどしていると、中川翔子は 「巻いてみて」と言った。

そのころは俺としても、暴力的な、怒れる若者的な気分は、そろそろ退散しかけて、ある程度理性が蘇ってきていたので、サラシを巻いた俺の姿、しかも全裸でサングラス、を想像すると、かなり間が抜けていて、滑稽でさえあったので、躊躇していると、中川翔子は 「手伝ってあげるから!」と、いっかなその手綱を緩めぬのであった。

結局サラシを胴体へぐるぐる巻き付けてしまって、豊満なバストと中川翔子の顔だけみて、努力していたが、駄目なものは駄目で、NGはNG。そんな孤軍奮闘の姿を、中川翔子は「うふふふ」とか余裕の笑みで見ているのであったが、さすがに痺れを切らしたらしく、
「恐い言葉で責めてみて」と言うのであった。

「恐い言葉って?」と俺が聞くと、
「やくざが言うみたいに」と言うので、もうこうなりゃ全人生を賭けるしかないかと、またまたバイオレンスが蘇ってきて、
「へっへっへっ。ここは嫌がってないぜ」
「この野郎、大人しくしろ」的な紋切り型の、その筋の人系な言葉をまき散らしていたのであるが、だんだん飽きてきたし、疲れてきたので、惰性で続けていると、中川翔子は、心根を見抜いたらしく、ひとこと、
「帰りましょうか」と言った。

中川翔子は、素早くシャワーを浴び、さっと着替えると足早に部屋を出て行ってしまった。

ひとり俺はノルウェイの森に取り残された。

それから俺は、数十年の間、慎みという美徳をきれいに忘れ去っていた。


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