林田紀音夫全句集拾読 144
野口 裕
霧を降りロープウエイに時間死ぬ
昭和四十九年、未発表句。霧の中をいつ果てるともなく、降りてゆくロープウエイ。前年未発表句の、「索道が嬰児の掴む夜をもたらす」が、このように変貌した。
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石を雨流れこどもの肩掴む
昭和四十九年、未発表句。ちょっとした危機に際して、こどもに安心感をあたえるための行動と取りたいが、安心感をあたえられているのは作家自身かもしれない。
花びらのさくらへ眼窩暗く立つ
黒い手のかくされた夜にさくら浮く
ストの夜にさくらびつしり咲き残る
昭和四十九年、未発表句。さくら三句。一句目の「窩」は、穴冠に果という字だが、JIS規格にないようなので、代用する。三句目が珍しい素材。ストに遭遇しての体験とも取れるが、二句目の「黒い手」を勘案すると戦後の擾乱期の回想か。
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月光の葦となりわが影折れる
昭和四十九年、未発表句。なぜか、発表句に残っていない。「月光の葦」は、繰り返し使われてもおかしくない表現。
狛犬の宙の病葉日に遊ぶ
狛犬に空の藍濃く刃物の日箭
昭和四十九年、未発表句。狛犬もよく取り上げられる句材。紀音夫流の写生句。
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2010-12-05
林田紀音夫全句集拾読144 野口裕
Posted by wh at 0:06
Labels: 野口裕, 林田紀音夫, 林田紀音夫全句集拾読
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3 comments:
寸感
今回のように、素材の新しさ(「スト」と「桜」の取り合わせとか、くり返し使われているモノ(「狛犬」)への注視は前冊を読み込んできた野々口さんだからできることだ、逆に読み込まねば分からないことだ。
作品に添った読み、という実証的なやり方をつらぬいているところ、いつもみごとだ、と拝見している。
今回はそれに加えて、林田紀音夫と言う俳句作家が自分の表現の存在理由を何処に青いていたか、と言うような事へも触手が伸びている。野口さんのこの視点は、従来の林田紀音夫観を変えてゆくことになるかの知れない。(誉めすぎかも。今日の内容は発表され他のかどうか、記憶が曖昧で、いま初めて出てきた視点であろう。
林田が、対等に歩をすすめてもいいはずの鈴木六林男田、六林男よりも、どうも存在感が希薄になってゆく。
私は、林田の繊細さや詩人的名素質を大好きではあるが、その時代の表現レベルを越えたいたわけではない、と見ているのだが。
いっぽう鈴木六林男は、新しくなることではなく、古くなることで生命力を揚げている。
この両者の違いは大変興味深い。(堀本 吟)
コメントありがとうございます。
現在、昭和四十九年の作句を読み継いでいますが、作句を断念した平成八年までまだまだ長い道のりになりそうです。
六林男との比較は、早い時期に吹田操車場の句を見比べてやってみましたが、それぞれ長い年月を生き抜いてきた作家ですので、ある時期だけの比較検討では不十分かもしれません。
しかし、読み込んでいく内に他の作家との比較に力を注入する余裕がなくなったのも事実で、今のところどうすることもできません。
それどころか、紀音夫自身の書いた文章を読んでは、ああ本人も同じことを考えていたのかと思うこともしばしばで、とりあえず一冊の本を読み上げることだけに集中せざるを得ないなと、そのたびに思います。
なにかと目移りがする事の多いこの頃。あえて、のんびり読むことを心がけています。
脇から補足させていただきます。
「六林男との比較」の該当記事は次の2つです(前者がメイン)。
006 http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/02/006.html
015 http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/04/015.html
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