2010-12-26

超新撰竟宴シンポジウム名言目録〔第一部〕生駒大祐

超新撰竟宴シンポジウム名言目録 〔第一部

生駒大祐


【種田スガル】

超新撰21の巻頭を飾る100句の作者。超新撰21刊行当初よりインターネット上を中心に、その句に対して盛んに議論が交わされている。当シンポジウムでもその名前に対する言及は多かった。(【引力】の項も参照)

対馬康子種田スガルを選抜した理由として、公募の選考会が不器男賞の選考会の翌週にあったために)そういう事象が頭の隅にあったということは確かだと思います。

対馬康子種田スガルの句は)当初から何を言われてもいいという覚悟の上で選んだんです。


【問題のある本】

最近東京都の青少年育成条例の改正案が議会で成立し、話題となっている。

鴇田智哉(超新撰は自由律から始まって川柳で終わるからか、読みきれていない。新撰は初めから順に読んでゆける)超新撰の方が問題のある本なんじゃないかと思って。


【ぎらぎら】

筑紫磐井・対馬康子・高山れおなによる超新撰21の編集姿勢を形容した発言。

小川軽舟(超新撰は読みづらいという意見は)出版元にも編集にも 力が入って気負いが生じた のでは。新撰は作者と小論執筆者が前に出ている感じがあったが、超新撰は編集者の意図がぎらぎらしているなと。(「定型 親和と破壊」というシンポジウムのタイトルも)そういうテーマ性を狙っているなと思いました。


【三階】

鴇田智哉によれば、歳時記の世界はそこに属する。

鴇田智哉(無季俳句を作ったのは)俳句って言葉を使うわけですね。一番下には何にも媒介されていない世界が想定されて、二階に言葉の世界がある。その上にいろんな三階があって、その中のひとつが歳時記だろうと思ってまして。その歳時記という世界の一つの価値観の中で俳句は読むことができる。俳句を見た瞬間に季語が浮き上がって見えたりするのは特殊な三階でやってるから。こう考えて作ってる内に、これだけでやってられるのかなと思って。それで2階にちょっと下りてみようと。そういう感じで始めた。やってみると「ちょっと物足りないかな」という思いがあった。

佐藤文香『海草標本』国破れて三階で見る大花火


【五七五】

俳句・川柳の定型として最もスタンダードな形式。超新撰21では種田スガルがこれを破って話題となった。

鴇田智哉(俳句と「俳句のようなもの」について)俳句ってなんだって考えたときに今思っているのは五七五であろうと。(種田スガルの俳句を読んで)自由律俳句にも推敲ってものがあるわけで、それをどこで止めるかと考えたときに止まりようがない。自由律をやっている人はそこに命を掛けるわけですよね。五七五でやってると止められる。そこで僕は五七五に寄りかかるしかないと今思っていて、自由律には行けないなと。


【新人の俳句史】

筑紫磐井がシンポジウムの序盤に発言。新撰シリーズの俳句史上の正当性を主張するものか。

筑紫磐井(新撰21・超新撰21を編集する上では牧羊社の新人発掘のシリーズが頭にあったが、さらに遡っていくと)戦後の俳句史ってのは新人の俳句史であったのではないか。


【処女句集シリーズ】

筑紫磐井の資料より。牧羊社発刊の句集シリーズで、精鋭句集シリーズとこのシリーズがあった。精鋭句集シリーズに比べ紙質なども悪く、入集者の中では精鋭句集シリーズにライバル意識を持つ者もいた様子。

高野ムツオ(作家の句集にまとめた評価を俳壇にしてもらうという牧羊社の処女句集シリーズ、高柳重信の個性ある選によってまとまっていた俳句研究の50句競作と比べて、)超新撰と新撰は、個々人の数年分の成果としての評価も可能だし、世代的なもの、ひとつの集団としての俳句のありようを概観できる。そういう意味ではまた違った新人評価のありかただと思う。

小川軽舟(藤田湘子に入門して『鷹』に入ったが)湘子の句集を入手する前に最初に手に取ったのが処女句集シリーズの小澤實さんの『砧』という句集でした。


【引力】

小川軽舟は型や俳句自体の持つ力に対する抽象的な表現として用いた。種田スガルと御中虫の差異の一例であると説明されている。

小川軽舟(種田スガルの俳句も俳句として読んだが)俳句としての面白さは感じることが出来ませんでした。(清水かおりさんの川柳も面白いなと思ったが)俳句として提示されてないんで、それは俳句としては読めないなと思って。(超新撰は)そういうものを入れてきたことによる分かりにくさがありました。一方、御中虫さんの俳句は好きで。御中虫さんは俳句の引力を非常にうまく作っている。それは五七五という定型であったり、あるいは季語に対する批判的な視点であったり、わざと間違った旧仮名を使ってみたりといった、俳句形式の―の中で暴れている御中虫さんの俳句は面白いと思うんです。型というのは型通りにつくるということではなくて、型の引力をどこかで感じて作って欲しいと思うんですよね。


【グローバル化】

俳句にもこの波が来ている様子。

対馬康子(超新撰は)俳句が―した結果、季語にしろ定型にしろ表現方法にしろ、いろいろなものがグローバル化していくなかでこの一つの傾向があらわれてきたんじゃないかな。


【横の繋がり】

新撰21をきっかけに、ゼロの会の発足など若手俳人の交友という流れも現れてきている。

対馬康子(超新撰・新撰は編者が俳人たちを世に問うという役目のほかに)作品を読んだり批評したりする 若い人の横の繋がりの土壌を作る という意味があったのではないかなと思う。色んな人がいるという、若い人たちの目線が相互に、自由に動くことができるようになったんではないかという気がします。


【虎視眈々】

自分こそが新撰シリーズに入集すべきだったと思っている人々の眼を形容した言葉。小川軽舟の近未来予測には『新撰21、超新撰21の作者たちのうち十年後に第一線で活躍しているのは十人と予測します。そこかわり、そこにいない逸材は五人は出てくるでしょう。』と書かれている。

鴇田智哉(自分が賞に出したときにも「なぜ自分が世に出ていないのか」という思いがあった。新撰21に参加して)暗闇の中から虎視眈々と見ている人の眼を感じた。


【俳壇】

これから作られていくもの。

高野ムツオ磐井さんは控えめに言っているんですが、(編者は)もっと威張って「私たちが20代30代の俳人を動かしてこれから新しい―を作っていく」と言っても良い。(高柳重信は在庫の無い句集が欲しければ自分で出せば良いと言った。)俳壇で評価されなかったら自分で俳壇を作ればよい。

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