2010-12-12

虚子的安心感 藤田哲史

虚子的安心感

藤田哲史


岸本尚毅には、どのような作品を作ったとしても、いかにも俳句らしいウィットに着地する不思議がある。言葉に定着する以前にあらわれる彼の詩性の源泉は、ずいぶんむかしから、たった一つだけであり、しかもその泉は、粛々と、同じ質、同じ量の水を湧かし続けている。

 大海鼠箱の形で息づけり

たとえば、処女句集に収められなかったこの作も、先ほど言った彼の不変の詩性を示すものだろう。実はこの作、赤尾兜子の「渦」誌に渦賞の佳作作品として掲載されたもの。処女句集の『鶏頭』の序文では、波多野爽波が「なぜかわが若き日の分身であるかのようなこの好青年の将来を期待して止まない」と書き、爽波自身の青年期をそっくり岸本に重ね合わせる。そして爽波は〈四五人のみしみし歩く障子かな〉〈てぬぐひの如く大きく花菖蒲〉などの作を引くのである。しかし、先に挙げたような作品を見ると、「青」に入会する以前、かなり初期の段階から既に岸本の俳句の骨格はできあがっていた感がある。

先述の渦賞の「大海鼠」などの句を赤尾兜子は評して、「若い岸本君は、早熟にしてすでにイロニーというものを知っていて、それをより新鮮な諧謔へふんだんに持ちこんで、しかしそれなりに成功しているのに注目した。」と書いた。「イロニー」「諧謔」の俳句を多く物した俳人は、といえば、高濱虚子の名前が思い浮かぶが、岸本は素質にちかいところで虚子によく似たタイプの俳人といえないだろうか。

 白雲と冬木とつひにかかはらず   虚子

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で、である。じぶんはその「イロニー」がとても怖いのである。高濱虚子と岸本尚毅の俳句を読んで、とても安心しているじぶんがいるのだ。虚子の「酌婦来る灯取虫より汚きが」を読んでもそうで、その安心感が、どうにも怖いのである。何か麻酔にかかったような気分になる。しかも、それはどこかで似たような感覚を覚えている。

思い出すと、それはNHKの大自然を撮影したドキュメンタリーを見るときの気分に似ている。テレビ画面のなかで、まさしくいま、ジャッカルがライオンに食べられる場面を見ているとする。しかし、ライオンはテレビ画面から出ることはなく、がゆえに、じぶんは安心してライオンはこわい、と思うことができる。ジャッカルの次にじぶんが食べられることはない。ジャッカルはかわいそう、なのだが。

そういう、伝達される側の現実には全く関わりがないと思わせる程度の刺激には、安心感がかならず伴う。ある閾値を越えない程度の刺激を、的確に、伝達される安心感。これが虚子・尚毅のウィットの(作品の)核にある。作り手は第三者的な立場からのイロニーをフィルターとすることで、受け手に刺激を与えすぎない。受け手の自己を揺らがせるようなことがないのである。そして、このような作り手の創作の意図を、「文学的」でないと思うことはたやすい。しかし、自分のことを棚に上げる意識があってはじめて、人は正常な意識を保つことができるものだ。

 大海のうしほはあれど旱かな   虚子

このような句の背後に、旱に対する悲壮感を覚えるような読者はいまい。この句の妙味は、いかにも理屈通りの感慨をなぞったところにある。海に海水が湛えられているのにもかかわらず、大地は旱であるなぁ、という感慨を、申し分ない過不足さで言葉に定着させている。旱による飢えも渇きも、大海の前では、かやのそとなのだ。

こうしてみると、伝達される側に刺激を与えすぎないことこそ、効率よく伝達するための最大の課題といえる。逆にそういう課題を無視すると、

 蝶落ちて大音響の結氷期   赤黄男

の句のように、山本健吉に「あまりに重々しく、笑いが凍りついてしまった句」と一蹴される羽目になる。

  

ここで仮に、「伝達される側が安心する作品を提供する」ことを、作家の完成度のバロメーターにしてみる。すると、田中裕明という作家がいかに「未完成」であったかが、よくわかる。

 初雪の二十六萬色を知る   裕明

この作品が収められた第三句集の時期に関して、岸本は「その頃(第三句集『桜姫譚』の時期)は、月々の句会で裕明の句は爽波選を受けていた。好き放題と見えつつ裕明は爽波の掌上にあった。」と書く。『田中裕明全句集』の句集解題において、岸本は裕明の位置を爽波より下位に位置づける。俳句形式に無理をさせすぎない岸本らしい文章だと思う。その中に、裕明作品の難解さへの躊躇もまた見え隠れはする。

同様にこの「初雪」の句に関して、小川軽舟は「師弟の緊密なキャッチボールの中ではこの句が光って見えたのかもしれないが、一般の読者は疎外感を覚えるだけではないか(「現代俳句の海図」)」と、難を示す。

確かに、「初雪」の句は読み手に大きく負担をかけるところがある。唐突な「二十六萬色」の措辞には読み手の理解を拒む意思が感じられもする。作り手の独断が読み手の閾値を大きく振り切る。そういう作り手における読み手へのイジワルさは、現代においては甘えとも、アマチュア的ともとられかねない。

そういうイジワルさで言えば、難解とひとくちに言っても、草田男の俳句より裕明の俳句のほうがイジワル度が高い。裕明の作品は、平明なようでいて読み手に深い読みを求める度合いが強い。

 点燈よろこぶ金魚ぞ全身かがやくゆゑ   草田男
 たはぶれに美僧をつれて雪解野は   裕明

草田男は、あくまで精密に、作り手の伝達したいことを一語も余すことなく放出している姿勢である。一方、裕明の作品の「雪解野は」の「は」は、読み手に対し極めて挑発的である。作品が読み手に対してものほしげなのだ。結果、読み手は読みに緊張感を強要されることになる。岸本はこれを未完成の証拠ととるかもしれない。読み手にウェートがかかる場は連句であって、俳句ではない、と。

その点、岸本尚毅という俳人ははじめから読者に負担をかけるそぶりがない。

 木枯らしや目刺にのこる海の色  芥川龍之介

を自らの俳句の出立とする岸本にとって(『セレクション俳人 岸本尚毅集』)、読み手にはあくまで作品への陶酔を求める傾向があるようだ。

 自ら其頃となる吊忍   虚子
 さういへば吉良の茶会の日なりけり   尚毅

先ほどの「読み手への安心感の提供度を完成度のバロメーターとする」仮定を是とするなら、子規以降の俳句の最終形態は岸本尚毅に代表させることができるにちがいない。

それで、だろうか。岸本尚毅以後の作家が俳句を作りにくそうにしているのは。


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