眩しく見つめる
―岸本尚毅句集『感謝』評
生駒大祐
「天為」2010年2月号より転載
『感謝』は岸本尚毅の『鶏頭』『舜』『健啖』に続く第四句集である。
九月の終わりの本郷句会において、尚毅から東大学生俳句会の皆にと直接手渡された。白と青を基調とした装丁、『感謝」という句集名、そして表紙にあしらわれたコクトー。そのすっきりとした外見は、初期の尚毅の作風である季語の懐ぎりぎりまで切り込んでいく写生の切れ味を思い起こさせるものであったが、内容は第三句集までのものと比べると大きな変化があった。
この稿では句集の傾向を考察しながら『感謝』を論じていこうと思う。
『感謝』には指示語が多数使われている。これまでの句集ごとの指示語を用いた句の数は『鶏頭』『舜』『健啖』が各約一〇句ずつ、『感謝』三五句と増えている。これは近年の尚毅の傾向であり、作句の変化を表していると言える。
『感謝』中の指示語の用法に大きく二つあり、ひとつは
女郎花きのふの月もこんな色
この寒さ大陸よりぞ饂飩食ふ
のように、指示語の指示対象が作者以外に分からない用法。もうひとつは
穴開きて其処より黴びてゐたるもの
その中へ中へと日ざし春木立
のように、同意語の反復を行うときに代名詞として用いる用法である。
前者の用法は指示対象を言わないことで曖昧な印象を与える。尚毅は写生について『かつて職場の上司からこんなことを教わりました。「曖昧なことを、それが曖昧であることが明快にわかるような文章を書くべし」と。(中略)「曖昧であることを明確に」とは、会社の仕事だけでなく、俳句の要諦でもあると思われます。』と書く(『俳句の力学』)。
女郎花の句や饂飩の句において、月の色への印象も寒波による寒さの具合も作者の主観にすぎない。このことを明快に表現するために尚毅は指示語を利用する。初期の句集における尚毅の印象は「単純複雑を問わず、あらゆる事象を明確に、そして韻律を崩さず軽やかに描写する」というものだった。その印象は変わらないが、その「明確さ」の振れ幅は句集を経るごとに大きくなっている。
空蝉のすがれる百合の途中かな
現れて消えて祭の何やかや
空蝉が脚を曲げ体を丸めて掴まる姿勢を「すがれる」と書き、百合の茎の部分を「途中」と書く。また、祭の人や神輿、夜店、声の一切を何やかやの一言で表す。書くことも、書かないことも明確さなのである。
一方、後者の用法において尚毅は徹底的にテクニカルだ。「穴開きて」の句では、尚毅の目は穴に集中している。「其処」と言いなおすことで、黴びているもの全体ではなく穴に句の中心を持っていく。「春木立」の句では指示語を用いることで、春木立を句に出す前に日ざしを見せ、切れを作る。指示語を用いることで指示対象は置かれる場所が自由になり、無理のない韻律が生まれている。
同意語の反復と言えば、『感謝』には並列表現や反復表現が多い。
藻と思ひ泥と思ひてうららかに
鳴る如く光る如くに寒かりし
蝶々の大きく白く粉つぽく
などがそうであり、句集中に約四〇句ある。これらの句を読んだとき、初めは少し不思議に思った。爽波の俳句スポーツ説などを参照すれば、写生の根底を成すのは反射的な作句力である。藻であるか泥であるかと迷っていたり、「鳴る如く光る如く」と比喩を重ねたりすればその瞬時性が鈍るのではないかと。
しかし、よく考えてみるとそれは真逆であった。これらは同時に「来る」のである。
反射的とはある景を見てそれが言葉になるタイムラグの小ささを指す。例えば蝶を見たとき、まずおおまかな大きさが分かり、続いて色が、最後に羽の質感が感ぜられる。尚毅はその一瞬をハイスピードカメラの映像を見るかのように言語化しているのだ。そこには瞬間の思考の流れが丹念に描かれている。尚毅の詠みぶりはゆったりしているようでやはり瞬間的であるのだ。
指示語の句全体に共通する点として、指示する側としての作者の目が句の中に現れるという効果がある。『感謝』の句には詠み手たる尚毅の存在が暗示的に現れた句が多い。
この家は物呉るる家地蔵盆
雨止んでそののち長し秋の暮
秋の妻数かぎりなき人の中
この家と言われても作者以外にはどの家かわからない上に、誰にでも物をくれるわけではないだろう。物呉るる家という表現は尚毅の全くの主観である。雨が止んでその後が長いというのも、別に雨と雨の間隔が開いているというわけではなく、雨という出来事が終わった秋の暮という平坦な時間を作者が持て余しているのである。
妻や子供の句が見られるのは尚毅の以前よりの特徴の一つであるが、妻や子を句に詠みこむということは否応なしに夫・父たる姿を句の中に現前させる。これらの句は作者の姿がおおっぴらに文字に現れていないが、句の世界の中には作者たる尚毅の影の残り香が漂っている。
尚毅は前述の『俳句の力学』において虚子と外山滋比古の言葉を引いて、写生には「写し取る」だけの第一段階と、「心が動くままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずる」第二段階、「花や鳥を描くのだけれども作者自身を描く」第三段階があり、第二段階は外山の言う「熱き情緒が対象へもち込まれ、対象まで熱っぽくしてやまない」感情移入であり、第三段階は「自然がつめたく心の中へ進入してくる」客観移入に当たるのではないかと書いている。
尚毅はこれまでの句集において、主観の熱を恐れて客観的な描写に徹していたように思われる。それがこの『感謝』では主観を利用して写生のさらなる高みに挑戦しているのではないか。
冬夕焼押し沈めたる如くあり
夏よりも秋の暑さの萩の露
尚毅の感覚は冬の夕日のへしゃげたようになりながら沈む情景に大いなる手を夢想する。「萩の露」の句においては、季語と助詞で一句をなすという凝った一句ながら、そこに描かれる情景は感覚的によく分かる自然なものである。
これらの句が何段階目にあるかは判断を任せたいが、韻律の確かさがこれらの句をより格調あるものにしていることは確かであろう。
指示語を通して『感謝』を眺めたが、感謝の中で忘れてはならないのは故人を含め人間への眼差しである。先に述べた妻子の句もそうであるが、
初寄席に枝雀居らねど笑ふなり
その妻のこと思はるる不器男の忌
ある年の子規忌の雨に虚子が立つ
口ずさむその句その名や爽波の忌
裕明の初盆なれば迎鐘
俳人や文化人の死を通した景は、無理な取り合わせのない素直で静かなものである。自らに主観を許しても、尚毅の俳句は揺るがない。周りの人々へのあたたかな眼差しと自然への冷たい客観を兼ね備えた俳句は軽やかな韻律に乗って未来へと響く。
『感謝』に繰り返し現れる日の光のモチーフは、尚毅が俳句の未来を眩しく見つめる姿なのかもしれない。
低きより出づる冬日を立ちて見る
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